2010年 夏

上越

湯檜曽川 白毛門沢

2010/08/28

大ナメ滝

今回の山行で私自身の体に落雷という、思い出すたびに心が震えるような体験をした。40年山登りを続けていて最も死に近づいた瞬間であったことは間違いない。
日本山岳会医療委員会の「登山医学」によれば過去20年間のスポーツ落雷事故では「即死」54%、「蘇生後死亡」10%、「蘇生後回復」33%、「意識消失なし」3%の比率だという。
「蘇生後回復」した例でも深刻な後遺症を抱えるケースも少なくないとある。
私は「意識消失なし」の3%にあたるという幸運を得た。
この記録の中でなるべく正確に状況を記していきたいが、まずは通常の書き出しから始めてみたい。


山域と登山スタイルによって「好ましい季節」と言うものがある。
例えば
標高の低い丹沢の尾根歩きは春や秋がおおむね快適だ。一方同じ丹沢でも玄倉川の本流を胸まで水に浸かって遡行するスタイルを選択するのであれば盛夏がうれしい。
旬の山、旬の山行スタイルと言い換えても良いかもしれない。来週の土日の旬の山はどこだろう?そんなことをいつも考えながら計画を練る。
上越から東北にかけての豪雪地帯の沢は雪渓とメジロアブの消える8月下旬から10月初旬までのおおよそ一ヵ月半が登っていて快適なシーズンではあるまいか。
今回チョイスしたのは湯檜曽川支流の白毛門沢。ナメの美しい名渓として有名な存在である。千葉から日帰りで上越方面を往復するというのは少ししんどい。けれども土曜日に日帰りして、日曜日は家で山行の後始末をすると同時に翌週の山行の準備をすれば次の山行が楽になる。これを怠るとツケが少しずつたまっていく。これも長く山登りを継続していくコツのような気がする。

8月28日(土曜日)晴れのち雷雨

2時に起床し24時間営業のスーパーマーケットで買い出しを済ませ、ガソリンスタンドで燃料を満タンにする。妻を2時50分に起こして3時5分に四街道を出る。
妻は前夜に弁当を作っておいてくれた。シャウエッセンと牛焼肉のお弁当。
5時15分水上ICから一般道へ。湯檜曽の街並を通過。先週田部井君とナルミズ沢の帰路に立ち寄った時に湯檜曽の蕎麦屋「角彌」の廃業を確認してはいたが、再び店の前を通るとあらためてさみしさを覚える。
懐かしい土合駅の広場に車を止める。かつての登山者相手の店は廃屋。過ぎ去った歳月を知る。広場で支度をしたがクライマーらしき登山者の姿を見ることはなかった。
半年ほど前に観た「クライマーズ・ハイ」という映画版レンタルDVDの中で土合駅下り線のホームの階段のシーンがあった。この映画のラストシーンのロケーションは衝立岩正面壁雲稜会ルートの最終ピッチ「洞窟ハング」のようだ。もう30年以上前の数回の登攀経験の記憶だから定かではないが、もしそうだとすると、俳優をヘリコプターで衝立の頭まで運び、懸垂下降して撮影したのではあるまいか。自分で言うのもおかしな話だが私と同じように手順をすぐにイメージできるような熟練者がサポートして撮影したのであろう。
クライマーズハイのモチーフともなっている衝立岩正面壁。第二次RCCによる「新版日本の岩場」における衝立岩のルートは5本。右からダイレクトカンテ、雲稜第二、雲稜、A字ハング、岳人。岳人ルートだけは登り損ねたのが残念でならない。ちなみにグレード的には雲稜ルートを1と仮定すると、ダイレクトカンテは0.7。雲稜第二は雲稜ルートと同程度の難しさなので1。A字ハングは雲稜に比べると段違いの手ごたえがあった印象を持っているので雲稜の倍の難しさで2かな。ちなみに奥鐘山西壁の京都を登ってみたらA字が子供の遊びのように感じられたので更に倍の難度で4かな。そして奥鐘のOCC(岡山クライマースクラブルート)は京都の1.5倍の難度と言うことで6か。高難度という尺度でしか山登りの価値を判断できなかった当時の私たち。黒部の奥鐘山を知ってから5級ルートで頭打ちとなる一ノ倉沢への興味が急速にしぼんでいったのはやむを得ないことだった。
というように40年の山歴の中で最も山行を重ねたのは山ではなく一ノ倉沢というひとつの谷だった。そんな記憶があるから土合駅というと胸が締め付けられるような心持になる。けれどもそれも今は昔の話だ。
そんな感慨にふけりつつ、もたもたのろのろと支度を整え歩き始める。
白毛門へ向かう登山道が東黒沢を渡る橋の手前から左岸を明瞭な道が上流へと続いている。このことから白毛門沢や東黒沢への入渓者が相当数にのぼっていることがわかる。
やがて道は沢の中へ入って消滅。歩きにくい河原をしばらくたどる。
沢が大きく左右へ屈曲するとナメが始まり、すぐに「ハナゲの滝」が真正面に姿を現す。ハナゲの滝は見事な滝だ。タイトロープ方式で妻をビレイしながら登っていく。右岸には登山道状態になった巻き道がある。
「ハナゲの滝」から素晴らしいナメが連続する。難しいところはほとんどない。
やがて白毛門沢出合。
湯を沸かし、味噌汁を飲みながらオニギリをほうばる。
白門沢に入ってもナメは続く。ところどころに現れる滝に登路を求めてパズルのように解きながら登っていくのは本当に楽しい。これが沢歩きの醍醐味というものだろう。
やがて傾斜が少しずつ強くなり前方に大きな滝が見えた。
「タラタラのセン」である。
左側に明瞭な巻き道がある。大きな滝なので巻き道も、大きく巻いている。
「タラタラのセン」を巻き終えるとすぐに大ナメ滝。
大ナメ滝は最下段で5mの直瀑になっている。その滝壺に浸かって体を冷やす。あぁ気持ちいい!
大ナメ滝は微妙なところがあるのでタイトロープ形式で妻をビレイしたが、とても気持ちの良いナメだ。ただし巻機山の米子沢と同じように、スリップすると最下段の5m直瀑をダイビングしかねないので、安易な気持ちで登るのは禁物。それなりに用心しながらライン取りをして登っていく。ナメの終点には大きな岩がデンと真ん中に居座っていた。
やがて地層が変化したらしく岩盤の色が赤くなった。東北にあるような凝灰岩のナメがひととき続く。
二俣は右へ。
やがて沢はゴーロとなる。少しばかり傾斜も増してきて妻の息が上がり始めた。前方にはじじ岩、ばば岩が見え始める。
そして奥の二俣。ここは1対3で本流のほうが水流が少ない。水量の多い右の支流にはすぐ上に湧水でもあるのだろうか、冷たい水が流れ込んでいる。炎天下で冷たい水はありがたい。ここで昼食とする。妻が作ってくれたお弁当。それから粉末タイプの永谷園の「あさげ」
ここで2リットルの水筒を冷たい水で満たす。
左の水の少ない本流へと入る。ゴーロは15分ほど続いて、やがて両側から夏草が覆いかぶさるような小滝の連続という表現よりも浅いルンゼ状となる。振り返ると眼下に土合駅の赤い駅舎がが見える。水流もほとんど涸れたので渓流シューズを脱いでナイキの運動靴に履き替える。運動靴のゴム底が岩に吸い付くようだ。
次第に沢は開け始め、明るく乾燥したスラブ帯に入っていく。白毛門沢の最後を飾るこのスラブ帯は最高のプレゼント。こんなに気持ちの良い登高はめったにないだろう。硬くフリクションの効く岩。しかも順層でホールドは豊富。楽しくて仕方がない。永遠に続いて欲しいと思うくらいだ。
事前に予想していた午後の雷雨が近づいているようで、積乱雲の発達が観察されはじめた。楽しくスラブ帯を登り切るころ湯檜曽川の下流方面から雷雨がこちらへやってくるのが見えた。シャワーの幕が白毛門沢のハナゲの滝周辺にまで迫っている。EOSとパワーショットG9を防水バックに厳重に収納してザックの中に入れる。時折雷鳴が響くがさほど頻繁ではない。スラブの中で雷雨につかまると厄介だがすでに稜線直下の草つき帯。雷鳴が数度。笹の中に身をかがめるようにしてゆっくり登っていく。振り返るとガスが流れ高山の雰囲気がでて幸せな気分になる。この気象状態で山頂に出るのは危険なので、しばらく笹の中で待機するつもりでゆっくりと妻を待つ。
笹の中に身をかがめながらフレネイ中央岩稜で雷に打たれたピエールコールマンのことなどを思い出す。コールマンはボナッティの超人的サポートでガンバ小屋へと下降したが途中で絶命。そのガンバ小屋へ救助にやってきたのがガストンレビュファ。フランス隊、イタリア隊7名のうち4名が死亡。私の大好きなオジオーニも死亡者の一人だった。数日後フレネイ中央岩稜はクリスボニントンらイギリス隊によって初登攀。この遭難後ボナッティは世間の非難を浴び、これをきっかけとして「さらばアルピニズム」としてマッターホルン北壁直登ルートを冬季単独で開拓し山から去っていった。この遭難は1973年「さらば白き氷壁」という映画となって日本で公開された。しかも遭難当事者のピエールマゾーが本人役として出演。そして1991年、細田さんと訪れたフレネイのふもとにあるエリザベッタ小屋で壁に飾られている一枚の写真に気がついた。それは氷河に立つローマ教皇ヨハネパウロ二世。そして隣に寄りそうようにして立つがっちりした体格の男性こそ白髪となったボナッティではなかったのか。
そんなことをガスの流れる笹に身を伏せながらうつろな頭で考えていた。
結局シャワーの幕は白毛門の山頂部にはやってこなかった。雲が流れて明るくなった。薄日も差込はじめ、下流方面に美しい虹がかかった。雷雲の本体は通過したようで雷鳴はやんでいた。目の前の白毛門山頂で写真を撮ろうと笹原から身を起こし、山頂へ登った。山頂の方位展望盤に立てかけるようにしてザックをおろしカメラを取り出そうとした。
その瞬間、乾いたような炸裂音とともに右肩にバスケットボールほどの大きさのスパーク。被雷した瞬間だった。
ひょとして右手をブロンズ製方位展望盤に置いていたのかもしれない。そこへ電流が流れたのか。正確には覚えていない。
方位展望盤の脇に倒れこんだ。事故発生時に時計を見る習慣がついている私は腕時計を見た。15時4分。私の人生の中で最も死に近づいた瞬間だった。
のちに聞いたところによると妻は大音響と閃光に至近距離で落雷があったと思い身を伏せたという。
時刻を確認し、私は妻の身が案じ落雷の事実を伝えようと「雷に打たれた」と叫んだ。身を伏せていた妻は驚いたように立ち上がり私に駆け寄ろうとしていた。私は大声で言った
「立つな!身を伏せろ」
妻は驚いたように私のとなりで方位展望盤の影にかがんだ。いつもなんとなくのんびりした表情を崩さない妻。その妻が引きつったような顔をしているのがおかしくて、思わずシャッターを切ってしまった。
被雷時の私の服装は化繊の半袖ポロシャツ、同じく化繊のスラックス。ハーネスは装着、カラビナ数枚とスリング、ルベルソ。ヘルメットははずしていた。体は汗もかいておらずぬれてもいない。左腕にはカシオのプロトレック。
雷は二度と鳴らなかった。雲はさらに遠のき陽が差し込んだ。しばらく様子を見ていたがもう大丈夫かと恐る恐る頭をもたげた。
美しい虹が二重になってかかっていた。
のどかな笹原の山稜が続いていた。
北方には先週田部井君と登った朝日岳がボリュームのある山体を横たえている。
西には一ノ倉沢が滝沢スラブのドームから上の部分を雲に隠して見えている。衝立岩がとても小さく感じられる一方で、思い出の染み込んだ滝沢第三スラブがとても急峻に見える。
先ほどの落雷が何事もなかったかのように静かな山。
「被雷者が妻ではなく私であったことは幸いであった」と思いながら、私たちはゆっくりと下山を開始した。


下山途中で出会った前橋在住のご婦人から上牧駅近くの「風和の湯」がお勧めとの情報を得て訪れた。
とても小さな施設だったが地元の住民しか使用しないようで、空いていた。建物も新しく、明るく清潔な印象で私は好ましいと感じた。飲食物は自由に持ち込み可能。
水上インターチェンジに近い。
風和の湯 群馬県利根郡みなかみ町上牧1996-7 TEL:TEL:0278-72-1526 3月〜10月 10:00〜21:00 11月〜2月 10:00〜20:00(閉館時間の一時間前まで入場可能) 550円 


土合駅 6:36
入渓点 7:09
ハナゲの滝 7:22
白毛門沢出合 7:47-8:07
タラタラのセン下 10:05
タラタラのセン上 10:22-25
大ナメ滝下 10:32-45
二俣 11:54-12:02
奥の二俣 12:31-59
スラブ入口 13:19
スラブ出口 14:08
白毛門 14:58-15:20
土合駅 17:56





周辺の記録
2010年8月21日宝川ナルミズ沢
2008年10月3日巻機山米子沢
2004年9月4日巻機山米子沢