2010年 夏

北アルプス

室堂から薬師岳

2010/08/10-15

北薬師岳山頂にて

1972年、千葉県立佐倉高等学校山岳部二年生の私は悪天候のブナ立て尾根を登って風雨の北アルプス裏銀座コースの稜線に立った。翌日の夕方、野口五郎岳で初めてガスが切れ視界が開けた。私たちは歓喜の声をあげた。遠くに槍が見えた。それはとても辿りつけそうもない遥かかなたにそびえていた。その後一週間をかけて前穂高へと抜けた。
歓喜と苦しみの落差が大きければ大きいほど達成感は増幅される。山登りを始めて二年目にして私は山登りに魂を奪われてしまった。

さて第14回目となる我が家の夏山合宿。その裏銀座コースを再訪しようという計画を立てた。
出発点は室堂。通称ダイヤモンドコースを南下し、三俣蓮華で接続する裏銀座を北上して烏帽子へ至るという、我が家の夏山合宿ではかつてない幕営大縦走計画で、結果的に上ノ廊下を取り巻く稜線をぐるりと一周することになる。
今回計画された稜線の中で私が歩いたことのない空白区間は「一ノ越から太郎平」と「中の俣乗越から黒部五郎平(黒部乗越)」の2区間。
参加者は妻と朋子と私の三名。幕営大縦走において避けて通れない悩ましい問題が二つある。ひとつは食料計画だ。重量と滋養のバランスをとることはかなり難しいけれど妻が立案してくれた。もうひとつの課題は入山地点と下山地点が離れていることによる車の回収だ。4年前に、これを解決することを口実にHONDAのモンキーを購入していた。この四年間に本来の車の回収にモンキーを使用したのは昨年の夏山合宿時の一回のみ。高瀬ダムからタクシーを呼べば済む話だが、それではモンキーへの二十数万円の投資はいったいなんだったのかということになる。ここはモンキーの有効性をなんとしても証明しなければならない。下山地点の七倉に事前にモンキーをデポすることにして計画書は完成した。

8月10日(火曜日)曇りのち雷雨

当初は6日夜の出発予定だったが、9日に仕事が入ってしまい、出発を4日遅らせなければならなくなった。
気になる天候は節目を迎えつつある。7月17日に梅雨明けを迎えてから太平洋高気圧が大きく日本列島を覆い各地でお年寄りが熱中症で亡くなるなど連日猛暑が続いているが、台風4号が東シナ海にあって北東へ進みつつある。天気予報はこれからしばらくぐずついた空模様が続くと報じている。台風が気がかりだが予備日を用意しているので最悪の場合は山小屋に避難するしかないだろう。
出発当日の9日はあいにく夜に接待。接待側の私がアルコールを一滴も飲まないという周囲の冷たい視線に耐え、22時に帰宅。大急ぎでシャワーを浴び、最後の装備チェックを済ませて23時前になんとか四街道を出発することができた。
湾岸市川料金所23:23通過。10日2:14豊科ICで一般道へ。
ひとまず七倉へモンキーをデポするためにハンドルを左へ切る。1972年以来初めて通る道。高瀬ダムができる前の話しだから致し方ないけれど別の場所へ来てしまったように感じられるほどの変貌だ。無事モンキーをデポし扇沢へ向かう。
扇沢では運良く最適な駐車スペースを確保。満天の星空の下、車の外にマットを敷く。天の川が見事だ。山へ来たことの幸せを感じざるを得ない。夜明けまで1時間。睡眠時間は2時間に過ぎないが、それでも足を伸ばして短時間でも眠ることができることに感謝。
この時期の6時と言うとギラギラの日差し。天候は悪化しつつあるので初日から雨模様を覚悟していたが快晴の朝を迎えた。
7時30分のトロリーバスに乗車。10kgを越えるザックは手荷物料金を別途支払う必要があり、そのために重量計があったので私のザックを計ってみると27kg。ザックの重さは背負うときに実感される。今回は補助なしで背負うことができるので軽いと思っていたがやはり30kgはなかった。2004年の夏山合宿で上ノ廊下を遡行したときにはザックを背負うときに補助がなければ立ち上がることすらできなかったことを思い出す。最近は子供たちが背負ってくれるのでザックが軽くなったのだ。今回も朋子が共同装備の多くを背負ってくれている。
先月剱岳へ行ったときにはほぼ満水状態だった黒部ダムだがだいぶ水量が減ったように見える。黒部ダムからさらにケーブルカー、ロープウェイ、トロリーバスと乗り継ぎ室堂ターミナルへ。
室堂は曇天。山は見えない。
一の越への道では小学生の学校登山と一緒に登る。富山県射水市立大門小学校6年生。可愛らしい小学生たちと楽しく話しながら登っていく。
標高の高い山での初日はきつい。食料が消費されていない分、ザックは重く、体は高度に慣れていない。あえぎながら登っていく。
徐々にガスが濃くなっていく。一の越で雨が降り始めた。雨具を着て稜線を歩き始めたが雨はすぐにあがった。めっきり人の少なくなった稜線はガスに覆われて展望はない。竜王岳と鬼岳のコルを過ぎ雪渓をトラバースし終わったあたりで突然の土砂降り。大急ぎで雨具を着なおしたが全身ずぶぬれとなる。しかも気温が急激に下がり雷鳴が聞こえ始めた。
前を歩く朋子の足元を見ていると左足の靴底に剥離の兆候がある。最初はほんの少しの隙間に過ぎなかったが見る間に剥離は進行。偶然にもナイロンバンドを多数持っていたので、これで補修して歩行を継続する。ドロミテ社のウラリGTXだが出発時の点検では剥離の兆候は全く見えなかったのに非常に残念だ。
獅子岳からザラ峠への下りも雨の中では長く感じる。ザラ峠で一休み後、本日最後の登り。晴れていれば五色ヶ原は高山植物の咲き乱れる楽園のはずだがガスが流れ強い雨が降って木道の上を川のように雨水が流れている。
五色ヶ原の幕営指定地は水浸しで、ところどころで川が流れている。不満足ながらようやくサイトを選定しザックをおろす。冷たい雨に手がかじかみテントの設営にも苦労するほどだ。アライエアライズ3にDXフライの組み合わせ。前室が大きく取れ非常に快適だが、いかんせん10年選手のエアライズ3はフロアの防水能力が低下しており浸水が著しい。防水液を塗布しておけばよかったと後悔するが後の祭りだ。
夕食の準備をしていると五色ヶ原山荘の人が幕営料を徴収に来た。受付カードに名前を記すと「あの賀来さんですか?」と言う。いつもホームページを見てくれているという。ありがたいことだ。
夕食はレトルトのカレー。レトルトカレーにもさまざまな種類がある。敦子と一緒であればタイのカレーを選択したであろうが、朋子は辛いのが大の苦手で甘口のカレーしか食べることができない。食後、私はアルコール度数50度の「富士山麓」というウイスキーを水割りで飲む。
雨は断続的に降り続いた。

8月11日(水曜日)晴れ時々曇りまたは雨

3時に起床し外へ出てみると雨は上がって、雲の隙間から星が少し見える。
五色ヶ原には大学のワンダーフォーゲル部らしき若者たちが3張りのテントを張っていた。パッキングを終え準備運動をしたあと朝礼。そしてリーダーから本日の行動予定と注意点が発表される。規律正しいクラブ活動。素晴らしい学生生活の日々。
彼らは日の出とともに平の渡し方面へと次々と出発していく。
私たちも食事を終え、びしょぬれの装備をザックに詰め込んでいく。出発したのは学生たちに遅れること一時間後の5時30分。雲の隙間から朝日が差し込んで木道を歩く私たちを照らす。
五色ヶ原山荘で飲料水を6リットル分けてもらい稜線を歩き始めた。
なだらかな山道を登って見晴らしの良いところまで来ると雲上台地の五色ヶ原は高層湿原となっておりあちこちに池塘が点在していることが分かった。
さらに目を遠方へ転ずると、黒部の谷を挟んで針ノ木岳が大きくそびえ、その右のほうには最終ゴールの烏帽子岳が小さな頭をもたげている。そしてさらに右には野口五郎岳が雲に隠れている。
鳶山(とんびやま)の山頂で一休み。これからたどる稜線には越中沢岳がなだらかな山容を見せている。そしてその奥には薬師岳が肩から上を厚い雲に隠して視界をふさいでいる。
越中沢乗越からゆるゆると登っていくと越中沢岳山頂だ。ここで昼食をとる。昼食は弁当。湯を沸かし塩昆布、のりの佃煮を添えてお茶漬けのようにして食べる。おにぎりは飯が硬くなってしまいのどを通りにくいが、このような弁当にすればおいしくいただける。しかもゴミも出ない。近所のコープ四街道店で仕入れた「永谷園のあさげ」の粉末タイプが好評。粉末タイプなので軽量と言うところがミソかな?
越中沢岳山頂の標識には「近くて遠いスゴの小屋。アップダウンが続くよ」と書いてある。下り始めはしばらくなだらかだったが急に傾斜がきつくなりフィックスロープが設置されているような大きな岩場のアップダウンが繰り返される。
左の眼下には上ノ廊下が展開し、旧黒五跡と呼ばれる広河原が見える。廊下沢には大規模な土石流の跡が崩壊地となって見える。これにより押し出された土砂が廊下沢の出合付近で黒部川の流れをせき止め広大な黒五を出現させたのであろう。2004年に上ノ廊下を訪れた時にはダムサイトに相当する部分でビバークしたけれど、水面から20mの高さで広大な台地になっていたことを思い出す。金作谷の出合付近が見えるが雪渓は見えない。今年は二週間ばかり雪解けが遅れていると理解していたので、残雪量を予測する難しさを改めて認識した。
越中沢岳とスゴの頭の間のコルで朋子の左右の靴の底が完全に剥離。追い打ちをかけるようにして、あいにく雨も降り始めた。
スゴの頭はガスの中だった。学生が三人休んでいた。スゴの頭を「すごのかしら」と呼んでいた。山の素人は頭を「カシラ」と読むがそれだ。
スゴの頭からスゴ乗越までは問題ない下りだったので、スゴ乗越からスゴ小屋まで40分もあれば到着できるだろうと高をくくっていたが予想外にも1時間を要した。
スゴの小屋の幕営指定地にはすでに四張りのテントがあった。ビショ濡れの装備を乾かしたいと思っていたが、幸運にも雲が切れ晴れ間がのぞき始めた。テントの周囲の岩にぬれたシュラフや衣類を干す。そして私はスゴ乗越小屋まで幕営申し込みに行く。
受付用紙に記入し小屋番の朴訥そうな青年に渡すと
「あのう・・・もし間違っていたらあれなんですけど、賀来さんって山渓なんかに良く出てくるあの賀来さんですか」
「ええ、そうです。よろしくお願いします」
と答えると、青年はちょっとはにかんだようにうれしそうな顔をした。
ありがたいことだ。
スゴ乗越小屋の前庭からは赤牛岳が巨大な山体を横臥させているのが見える。赤牛岳の存在をこれほどまでに大きく感じたことはなく新鮮な驚きを感じた。
小屋でビールを2本購入しテントへ戻る。テントの背後には今日越えてきた越中沢岳がスゴの頭を右に従えて途方もなく大きくそびえている。あそこを越えてきたのかと思うと誇らしい気分にすらなる。
スゴ乗越小屋は入山に通常二日かかる奥地にある。そんな場所ながら幕営地では携帯電話(Foma)がつながる。さっそくネットで気象情報を入手。天気予報では台風4号が日本海の山陰沖まで進んでおり、そろそろ影響が出ても良いころだ。明日は薬師峠までの比較的短い行程だが森林限界を大きく突き抜ける立山の巨人「薬師岳」を越えなければならない。台風のさなか、吹きっさらしの稜線を歩くことは私たちにはできない。
深夜から強風が吹き荒れ始めたが雨はまだ落ちてこない。妻が不安がるのでテントの張り綱を補強した。

8月12日(木曜日)雨

朝方から雨が降り始めた。ときおり止むがガスで視界は効かない。一応出発を前提として3時に目覚ましが鳴った。我が家の山における目覚ましの定番となったハリーポッターのホグワーツのクリスマスソング。反射的に起床。前夜のうちに仕度してあった朝食をとる。食後、ネットで気象情報を参照する。台風は東北地方に上陸するとの予測がでている。
停滞を決定。
一旦止んでいた雨脚は再び強くなった。
テントにたたきつけられる雨音で話し声も聞こえないほどだ。細い水流がテントの前室を流れ始めた。低下したフロアの防水力を補うためにブルーシートを敷いているが、これがなかったら悲惨なことになっただろう。それでも浸水はかなりのものでタオルで拭き取って絞るということを15分おきに繰り返す。こんな天候の時にはテントの中をきちんと整理しておかないといけない。厚手の大型ビニール袋に装備の大半を収納し前室に積み上げる。テントの中は広々としたスペースが確保された。
夕方、台風4号は秋田に上陸したことを知る。秋田の山々は大増水しているだろうと想像してしまう。
明日の台風一過の好天を期待して就寝した。

8月13日(金曜日)曇り時々雨

起床して外に出てみると高曇りの空にガスが流れる。星は見えない。好天を期待していたが適わなかったようだ。台風が東北地方を横断し日本海へ抜けたことを確認し薬師岳を本日越えることに決める。
4時半ヘッドランプを点けて歩き始めた。間もなく夜が明け間山(まやま)の登りにかかり始めると左の眼下には再び上ノ廊下が見え始めた。相変わらず広河原が見えているが増水した激流の轟音が稜線にまでゴーゴーと聞こえてくる。こんな日でも上ノ廊下に入渓しているパーティーがいるのだろうか。ひょっとすると進退窮まっているパーティーがいるのかもしれない。
「こんな日に上ノ廊下へ入渓していない私たちは幸運だ」などと妻と話す。
間山の山頂付近は二重山稜になっており池がある。ここで再びガスが濃くなる。そしてガスに混じって雨粒がほほに当たる。
間山から上ノ廊下へ落ち込んでいる斜面の末端が上ノ黒ビンガ周辺のはずだが当然あれだけの絶壁だから谷底を見ることはできない。
この近辺は森林限界を完全に突き抜けており、もし晴れていれば気持ちの良い稜線だと思われる。しかし今日の天候では足元のザレた岩屑を見つめながら一歩一歩忍耐の登高を続けるしかない。それでも風が弱いのが幸いだ。ガンバレ、ガンバレと呟きながら登り続ける。
北薬師岳に到着する頃に少しずつガスが切れ始めた。稜線の上ノ廊下側には旗雲がまとわりつき高山に来ていることが実感される。北薬師岳から薬師岳本峰までは鋸の歯のような稜線で小さく上下を繰り返しながら金作谷カールの縁をたどっていく。見下ろす金作谷カールには大きな雪渓が残り、モレーンが緑の台地を作っている。あんなところで数日のんびりと過ごすことができたら最高だろうなと思う。
薬師岳の山頂は広かった。山頂には祠があって薬師如来が安置されている。祠の石垣が丁度よい具合に風を遮断してくれるのでザックをおろし昼食とする。
またしても弁当が美味い。粉末タイプの「あさげ」がさらに美味い。
薬師岳から立山側へと続く稜線は鋭く痩せているが、南へ向かう稜線は丸みをおびた穏やかなものだ。ガスの中でヘリコプターの爆音が聞こえる。薬師岳山荘へ荷揚げをしているのだろう。
愛知大学の遭難で有名な東南稜の分岐には国土地理院の地形図では避難小屋の記述があるが、1メートル四方程度の石囲いがあるだけだった。
ガスが切れ展望がききはじめた。ザレた岩屑の斜面の先には薬師岳山荘が見える。新築中ということは知っていが、まだ内装が完了していないようで多くの大工さんが作業をしている。
そして遠くには槍ヶ岳が見える。しかしながら明日たどる予定の北ノ俣岳や黒部五郎岳は厚い雲に覆われてみることはできない。
薬師平の大ケルンで休憩。ここから薬師峠への急下降は短いけれどまるで沢のゴーロ地帯のようで歩きにくい。しばらく下っていくと薬師峠幕営地のテントが樹林の間から見下ろすことができてほっとする。
まだ時間が早いのでテントサイトは自由に選ぶことができる。格好のサイトを確保。朋子がお菓子を食べたいというので、太郎平小屋まで私が買いに行くことにする。私が買出しに行っている間に妻と朋子でテントを張っておく約束で太郎小屋へ向かう。重いザックをおろした体は重力がなくなったようでふわふわと軽く浮き上がりそうだ。走って登っていくが全く疲れない。11分で小屋に到着しチョコレート、柿の種、ビール、ジュースなどを買う。幕営料を支払おうとすると現地でお願いしますとのこと。現地に受け付けがあるようだ。飛ぶようにして薬師峠へと戻る。
峠を見下ろすことのできる斜面から妻と朋子はテントを張り終えたかな?と見ると、張っていない。テントサイトに戻ってみると二人は茫然としたように座り込んでいる。そして困惑しきったような顔をした妻が言った。
「テントのフレームが折れた。何もしてないのに折れた。スリーブに通しただけでパキンと折れた。」
2001年に購入したテントなので、ショックコードが劣化して伸びきっており、それが原因でフレームの連結部がしっかりとハマっていなかったのが原因である ショックコードも交換しておくべきだったが、後の祭り
さっそく補修用のパイプで修理を試みるがうまくいかない。補修用パイプの内径がタイト過ぎてささくれた破損部分を通過させることができないからだ。無理にねじ込もうとするとジュラルミンのパイプはパキパキと卵の殻のように割れてしまう。
さすがの私も困った。
何か補修できるようなものが落ちていないかと周辺を捜しまわる。すると錆びた五寸釘を発見。幕営指定地に五寸釘が落ちていることは想定しにくいが、幸運だったのだ。五寸釘の頭を石でたたいて潰し、フレームの破損部分の継ぎ手にする作戦。ぴったりとパイプに固定されるように5寸釘の頭の潰し加減を調整する。この作戦はうまく当たり無事テントを張り終えた。
それにしてもドロミテ社ウラリGTXの靴底の剥離とフレームの破損。重大なアクシデントが二つも重なるとは滅多にない経験だ。特に冬山でこのようなことが起こったらと思うとぞーっとする。このアクシデントを避けるためにはどうしたらよかったのだろうなどと思う。テントのフレームに関してはバラフレームを予備で一本持つ、若干太めの補修のパイプを持つ、あるいはフレームの破断により変形した部分を切断するためのカナ鋸の歯といったところだろうか。
ここ20年ほど前からプラスチックの加水分解による登山靴の破壊問題が話題になるようになった。このためプラブーツは一部を除いて市場から姿を消した。トレッキングブーツの靴底の剥離もポリウレタンの加水分解によるものだという。加水分解しにくいポリウレタンもあるというが、いまだにそれを採用していない海外メーカーが現存すると言う。そしてそれを輸入し続けて、登山靴は5年が寿命だと主張する輸入代理店もいかがなものかと思う。私のように毎週山へ行くのであれば5年ももてば十分だろうが、一般的には年に数回しか登らないという人が少なくないのではないだろうか。
テントを張り終えて、やっと一安心。幕営地には幕営受付の小屋があって、そこでビールと缶チューハイを販売していた。残念ながら日本酒とウイスキーは置いていない。便所は水洗で非常にきれい。水場の水は冷たくて美味しい清水を引いてあり蛇口をひねれば豊富にある。北アルプスの稜線上にある幕営指定地としては最も設備の整ったものだと思う。
そうこうするうちに次々と登山者が到着。隙間なくテントが張られていく。良い場所がなくなってしまったパーティーもいて傾斜地に張っている。
さて明日以降の予定だが、このテントで縦走を続けることは不可能。したがって明日、折立への下山を決定する。
折立へ下山すると扇沢へ留めてある車の回収が困難だ。いくつかの方法があるが私ひとりで立山黒部アルペンルートを利用して回収することにする。ただし場合によっては最終のロープウエイなどに間に合わないケースも考えられる。
バスの運行状況を幕営受付のお兄ちゃんに確認する。アクシデントは重なるもので、富山と折立を結ぶ有峰林道小見線は土砂崩れのため年内不通で、それを避けるためにバスは神岡経由で大きく迂回。そのため折立から富山まで3時間40分かかり、有峰口には立ち寄らないという。有峰口に立ち寄らないとなれば富山まで出るしかない。富山行きのバスの始発は10時半だからなるべく早く幕営地を出発した方が良かろう。

8月14日(土曜日)雨時々曇り

暗いうちに起きて支度をしているとまたもや雨。入山してからすでに五日が経過したが、雨の降らなかった日は一日たりとてない。雨の中、ヘッドランプを点して出発する。
かなり強い雨の中を折立へ向かって標高差1000mを下っていく。この道は三度目だが、最初の2時間がなだらかで500mしか高度が下がらない。標高2000mを切るあたりで雨があがり泥に足をとられつつ下っていく。
樹林帯へ突入し三角点1870mを少し下ったあたりで登ってくる男性がにこやかな表情で「賀来さんですね、ホームページ見ていますよ」と声をかけてくれた。聞けば富山の篠川さんとおっしゃる方だった。下山後メールのやり取りがあって「第一回とやま雲上パノラマトレイル」というトレイルランニング大会の担当医師としてスゴ乗越小屋で待機する為の入山であったようだ。この篠川さんはブログを公開しており、拝見させていただくととてもパワフルな方だということがわかる。山仲間の安藤康宏さんも医師だけれど共通したパワフルさがある。
9時半前に折立へ到着。バスの発車は一時間後。妻と朋子は折立キャンプ場で待機なのでテントを張る。携帯電話を試したところFOMAであれば不安定ながらも通話が可能であることがわかった。これで逐一車の回送状況を共有することができる。
汗まみれの体でバスに乗りたくはない。そこでキャンプ場の炊事場でパンツになって、コッフェルを洗面器代わりにして頭から水を何杯もかぶる。そして予備の下着とズボンとポロシャツに着替えた。なんと爽快な気分だろう。
妻と敦子に見送られバス停へ行く。念のためバスの運転手に「バスは有峰口へは行かないんですか」とたずねると、やはり「行かない」という。これを聞いていたタクシーの運転手が「これから有峰口へ行くから乗るかい?」と声をかけてくれた。ラッキーだった。年配のご夫婦と三人でタクシーに乗り込む。
深い谷の斜面につけられた細い有峰林道小口川線をタクシーは走る。谷の深さに驚く。一時間で有峰口駅に到着。20分の待ち合わせで富山地方電鉄の立山行き電車に乗る。後はケーブルカー、高原バス、トロリーバス、ロープウエイ、ケーブルカー、トロリーバスと乗り継いで扇沢へと向かうことになる。
室堂は悪天候だった。ガスで視界はなく冷たい雨が降っていた。やはり下山は正しかったようだ。
これも下山してから知ったことだが、この日の午前中、上ノ廊下で死亡事故が起きていた。2002年に北鎌尾根を相前後して登ったことのある徳島岳人クラブの事故だった。ロープをつけて徒渉に失敗し、ロープが伸びきってしまうという最悪のパターン。報道によれば標高1550m付近とのことなので口元のタル沢の手前かもしれない。ご冥福を祈る。
室堂でトロリーバスの順番待ちをしていたらテレビで「ゲゲゲの女房」が放映されており何気なく見ていたら大菩薩峠の富士見小屋が映っていることに気がついた。黒部ダムサイトも雨。扇沢も雨。さっそく車を発進させる。バスが神岡経由で運行しているという話だったのでひとまず神岡を目指す。偶然大町市内でベイシアを発見したので妻と朋子のリクエストを適える為に食材を買う。トマト、バナナ、ジュース、肉そして日本酒を少し。安曇野を走り、島々を通過。沢渡から安房トンネルを越えて奥飛騨へと入っていく。雨が強くなった。途中で双六谷へと向かう道を右に見て直進、目指すは神岡。しかしこれがまずかった。バスが神岡経由で運行しているというのは飛越トンネルを使っていることに気がつかなかった。ナビに従って神岡を通過し右折。これは大多和峠へと向かう林道だった。しばらく走って道は通行止め。途中でカモシカと接触しそうになり冷や汗をかいた。雨が強い。ものすごい山の中。仕方なくUターン。有峰林道は夜20時には閉鎖される。ナビは先ほどから不可解な動きをするばかりで全く当てにならない。最も確実な方法は有峰口から続く有峰林道小口川線と判断し富山へと走る。富山市内に入る。このまま富山市内のホテルへ直行したいくらいだが忍耐で走る。20時まで少し。やっと有峰口までたどり着いたが、今度は有峰林道小口川線の入り口がわからない。右往左往して漸く発見しゲートまでたどり着いたがゲートはすでに閉まっていた。時計を見ると20時半。万事休す。林道のゲートが開くのは明朝6時。ゲートが開くまでここで待つのもさみしい話なので41号線のコンビニまで戻って車の中で仮眠。携帯電話で折立到着が明日になることを告げて、テレビをつけると帰国というTVドラマやっていた。最後まで観た。明日は終戦記念日であることを思い出した。

8月15日(日曜日)晴れ時々曇り

5時半にゲートへと到着。すでに5台ほどの車が順番待ちをしていた。5時55分にゲートが開いた。通行料1800円を支払いワインディングロードへと車を進める。ようやく6時56分に折立到着。到着すると妻と朋子がテントの外に出て私を待っている。食料を担いでテントの脇にあるコンクリートの丸テーブルの上に広げる。昨晩は豪雨だったという。さっそくジュースを飲んだりバナナを食べる朋子。朝から焼き肉をしようということでフライパンで肉を炒める。そんなことをしていたら、キャンプ場の広場でイベントが始まった。近付いて確認すると「第一回とやま雲上パノラマトレイル」の開会式。一日で五色が原へ向かって走るらしい。半袖に短パンという人もいる。数十年前に英国で起こった登山競争中の低体温症による死亡事故を思い出さずにはいられない。
陽が差し込み始め、濡れたものも乾いていく。折立周辺を一回りしてみる。一般に知られている駐車スペースの数倍の面積をもつ空き地がいくつかあり、地元の人たちはそこへ留めているようだ。メインストリートは路上駐車でびっしりだが、これらの空き地はガラガラである。
昼前になってテントを撤収。急いで帰っても高速道路の渋滞につかまるだけなのでのんびり車を走らせることにする。
まず有峰ダムにある有峰記念館を見学。有峰ダムに関する資料が展示されているのだが、興味を惹かれたのは湖底に沈んだという有峰盆地のことであった。大正9年まで有峰集落という12戸があったという。電源開発を名目として住民は立ち退き、集落は解散。貴重な動画映像は大正時代の山奥の集落の暮らしを伝え、有峰盆地の写真はここが桃源郷であったことを教えてくれる。
帰りは飛越トンネルを経由して奥飛騨へ入ることにして有峰林道東谷線へとハンドルを切る。電源開発によって整備された山奥の舗装された林道。ところどころに水洗トイレが整備され、キャンプ場が設置されている。しかしながらキャンプ場に人影はない。蓮舫に見つかったら事業仕訳されてしまいそうだ。
飛越トンネルを抜けて林道を下っていくとようやく人家が見られるようになる。山之村小中学校というのがあった。平湯で入湯。6日間の汗を流し安房トンネルを抜けて安曇野へ。松本市内のファミレスで夕食を摂り高速道路へ。首尾よく渋滞を避けることができ23時に四街道へ帰着することができた。
翌朝、いつもの通り四街道発5時44分久里浜行き快速電車に乗って出勤した。


8月10日 8月11日 8月12日 8月13日 8月14日    8月15日
室堂 9:30 五色ヶ原幕営指定地 5:29 台風停滞 スゴ乗越小屋 4:40 薬師峠 5:09   車を回収し
折立へ戻って
家族全員で
家路につく
一の越 10:50-11:28 五色ヶ原山荘 5:52-6:07 間山 6:25-35 太郎平 5:33-46  
富山大施設 12:28-12:41 鳶山 7:05-18 北薬師岳 8:59-9:01 折立 9:15  
ザラ峠 15:40-52 越中沢乗越 8:24-39 薬師岳 10:16-55 扇沢の車回収の為に
一人で有峰口へ
アルペンルート経由で
扇沢へ
 
五色ヶ原幕営指定地 16:49 越中沢岳 9:55-10:21 薬師岳山荘 11:34-37
スゴの頭 12:29-41 薬師平 12:04-12
スゴ乗越 13:35-53 薬師峠 12:45
スゴ乗越小屋 14:49


オンラインアルバム


周辺の記録
2008年8月11日金木戸川双六谷から九郎右衛門谷
2007年8月11日上ノ廊下から赤木沢
2006年8月11日上ノ廊下から赤木沢
2004年8月8日上ノ廊下から黒部源流