我が家の夏山合宿
『いつかは黒部川上ノ廊下』
昔の自動車のテレビコマーシャルのようだけれども、山好きにとってこれほどぴったりくる言葉もないかもしれない。実際、市販の遡行ガイドブックにも「沢登り愛好者なら誰でも一度は遡ってみたい憧れの谷」との記述があるくらいだ。
「そんな黒部川上の廊下へもし家族と行くことができたら・・・」などと言う夢想を抱き始めたのはずいぶん以前からのことで、そのたびに「無謀すぎる」と憧れに近い思いを振り払ってきた。2001年前穂北尾根、2002年北鎌尾根、2003年屏風岩東壁と子供達と登ってきたが、上ノ廊下の成否は天候と水量に大きく依存するだけに、不確定要素の占める比率が高すぎるし、最年少の素直の体格では黒部の渡渉にはとても耐えられない。
そんな考えが変わり始めたのは今年の春で、素直の身長が毎月1cmづつ伸び、手の甲の厚みも増してきたからである。まだまだ華奢な体つきだが、一年前の小学生の頃に比べると力も強くなり、背ももうすぐ女房に追いつきそうだ。この程度の体格があれば、私のサポートでなんとかなる。
あとは上ノ廊下の水量である。遡行開始前の三日間を含めて七日間の好天に恵まれれば理想的であるが、こればかりは天候次第。もし直前になって天候が安定しないようであれば、今年も穂高で岩登りをすれば良いだろうと考えて準備を始めたのは今年の5月頃のことだった。
さて準備のことであるが、ルートに関するイメージは高桑信一氏の「一期一会の渓」を参考にし、私の少ないお小遣いの中からネオプレーンのタイツを全員に用意して渓流タビも買い与えたので大変な出費である。直前にはゴルジュの泳ぎを体験させる為に一ノ瀬川本流に連れて行ったりしてそれなりの準備を整えた。一方私は4月下旬から毎週沢へ入って体調を整え、沢に必要な野性的な勘を少しでも復活させるべく精進した。
心配していた天候と水量に関しては、7月下旬から太平洋高気圧がどっかりと日本列島の中部から東に居座って、台風が北上できないほど勢力が強く、願ってもない条件が揃いほぼベストコンディションで合宿当日を迎えることができた。
前夜の内に扇沢ターミナルへ入って軒先で仮眠し7:30始発のトロリーバスに乗車。始発は6:30だと思っていたが違っていた。この時点で一時間の見込み違いとなり、平の渡し12:00発の乗船は厳しい状態で黒部ダムを8時に出発。
ライフジャケットをザックにくくりつけている軽装の5人組が足早に私たちを追い抜いていく。リーダーとおぼしき人はとても愛想の良い人で、歩きながら少し話をする。5人の中には長男の素直に近い少年がいるようだ。
それにひきかえ、私たちの歩みはのろい。私のザックにはいつもの通り食糧やギアが満載されており出発時点の重量は実測35kg。48歳で35kgのザックではとても足早には歩けない。12時の渡し舟はあきらめて14時に乗船することにしてのんびり歩く。
途中で上ノ廊下に向かうらしい男女の二人パーティーに追い抜かれた。
その年配の男性が
「ヘルメットを持っているけど、どこまで行くの」
「岩苔乗越」
「岩苔乗越?じゃぁ上ノ廊下?」
「ええ」
「家族で上ノ廊下なんて聞いたことがない」
とあきれられてしまう。
登山道は黒部ダムの湖岸をほぼ水平につけられており、入り江と岬をジグザグに進むので歩行距離が長い。しかしながらまずは順調に歩くことができた。そろそろ平の小屋も近い頃で、あと30分程度だろうとすれ違う登山客に
「平の小屋までもうすぐですよね」と尋ねると
「ええあと一時間半くらいです」
「・・・(絶句)」
あと一時間半もかかるとは何かの間違いではないだろうか、いや間違いであって欲しい。一時間半というのがもし本当なら14時の渡し舟に乗船するのも赤信号である。
結局、そのあと気の遠くなるような長いハシゴの上り下りが連続し、みっちり一時間半を要して14時の渡し舟に間に合った。
特に最後の20分は渡し舟に乗り遅れまいと35kgのザックを背負って必死になって走ったので、乗船場所にたどり着いたときには完全にグロッキー状態。このグロッキー状態がのちのちまで尾を引くことになろうとは思いもよらなかった。
ちなみに渡し舟は平の小屋への荷揚げの為に15分ほど遅れて出発したが、定刻どおりの出発だったら私と陸上競技部員の敦子以外は乗り遅れるところだった。
先ほどの男女二人の方と一緒に乗船。10分程度で対岸についたが、そこには波止場のような施設はなく、そのまま天然の岸に接岸。笹の茂る斜面に座り込んだまますぐには立ち上がれずしばらく足を投げ出して休む。
ここから奥黒部ヒュッテのある東沢出合までガイドブックのコースタイムで2時間。
歩きやすく平坦な道にハシゴが出現しないように祈りながら歩いていく。水平道なので女房も調子がよく順調に歩いている一方、私の方は先ほどの無理がたたって足が攣りはじめ苦しい歩行となる。
女房子供達に「先に行ってテントの設営を済ませてくれ」と頼んで、一人ぼっちで薄暗くなり始めた湖岸の道を這うように歩いていく。するとついにハシゴが登場した。これがまた長くていくつもある。皆の待つ東沢の気持ちの良い砂地にたどり着いたのは19時だった。
ザックを投げ出すようにして腰を下ろし、先行した男女二人のパーティーが焼く岩魚の香りを酒の肴にして焼酎を呑む。
就寝してからも時々足が攣ったので相当バテたようだ。
一晩寝て疲労もだいぶ回復し、さわやかな朝を迎えた。奥黒部ヒュッテの小屋番に登山計画書を渡しに行く。とても親切な人で丁寧にアドバイスしてくれた。
8時過ぎに幕場を出発し、東沢沿いに下降して黒部川本流に立つ。普段よりも10cm以上は水位が低いようで、スクラム渡渉で問題なく進んでいける。右岸には雪渓が残っているがネオプレーンのタイツを穿いているので水の冷たさもさほど気にならない。天気もいいし最高の気分である。
少し歩いていると富山県警のヘリコプター「つるぎ」が飛来して私たちの頭上を旋回するので子供達は大喜び。特に中学一年生の素直の喜びようはなかった。
今回は色々と工夫していて、北海道地図株式会社製の二万五千図をカード大に切ってからプラスチックフィルムでラミネートして持ってきた。水に濡れても平気なので常にウエストポーチに入れて地図と地形を参照しながら歩くことができる。これは便利だ。
11時52分、あの沢の角を曲がると正面に下ノ黒ビンガが現れるはずだと歩いていくと、まさに大きな岩壁が聳え立っている。
下ノ黒ビンガの渡渉。高桑信一氏の「一期一会の渓」では増水の為にこの部分で相当厳しい渡渉を強いられているが、今日はスクラム渡渉で腹まで水に浸かりながら難なく通過することができた。
13時16分、下ノ黒ビンガを過ぎるといよいよ口元のタル沢である。
この口元のタル沢の出合の先に待ち受けるゴルジュは上ノ廊下の難所の一つである。奥黒部ヒュッテの小屋番のアドバイスも「長いロープを曳いて泳げ、今日は水が少ないのだから決して高巻くな」というものだった。
30mと20mのロープを二本連結して50mにしてゴルジュの中に入っていく。
最初は沢底の砂地に足が着き左岸をヘツるようにして進んでいく。だんだん深くなって底の砂地から足が浮き始める。大きなザックを背負っているので、それが浮力体となって体が浮くのである。
壁のホールドを頼りにして更に上流へ進み、ここから対岸へと急流を泳いで横断しようと壁を蹴る。
対岸へ着岸する直前に急流があってそこで流される。流されながらも泳ぎ左手が対岸のホールドをつかんだ。
ザックが水の抵抗を受けて横倒しになり私を壁からはがそうとする。幸いガバホールドが連続し数手で浅瀬に立つことができた。
ザックをフロートにしてピストンで子供達を次々に引き寄せる。急流にバランスを崩してザックが横転する恐れがあるので子供達も真剣だ。最後に女房を引き寄せる。このころから曇り空になり日が射しこまなくなった。
ネオプレーンのタイツを穿いているにもかかわらず長男素直の唇は紫色でガタガタ震えている。ザックにぶら下げている温度計は水温が7度であることを示している。女性群は皮下脂肪のせいで寒さに強いのか平気な顔をしている。
13時50分、このようにして真剣ながらもさしたるトラブルもなく、第一の核心部である口元のタル沢出合先のゴルジュを通過することができた。これも水位が低いからこその僥倖と感謝せねばならないだろう
口元のタル沢を越えたことでもあり、一般的には上流に行くに従って水流も減じているはずなのだが谷が狭くなるので渡渉がだんだん難しくなってきた。渡渉を避ける為に急流をお助け紐を出して強引にヘツる。
そのうちスクラム渡渉もできないしヘツることもできない場所につきあたった。いよいよザイル渡渉かと思っていたら素直が
「こっちが登れるよ」という。
どれどれとみると少し上を幅の広いバンドが走っている。
「素直よく見つけたね」とみんなで感心する。
だんだん雲行きが怪しくなってきた。いつのまにか空は雨雲に覆われている。雨がポツポツ落ち始めた。ちょうど廊下沢出合の手前。
15時45分、本流の左岸の大崩壊地と廊下沢に挟まれた河岸段丘に這い上がる。水面から20mほどあがった河岸段丘上は大きな広場になっており、ところどころに樹齢10年程度の小さな潅木が生えている。テントを張ることのできるような空き地はいたるところにあって、ふかふかの苔の絨毯で敷きつめられている。
「ここなら天気が良くなるまで何日でも泊まることができるね。気持ちの良い場所だし本当に理想郷、楽園だよ」と私が言うと
「じゃあ、ここは黒部の『まほろば』だね」と敦子がいう。
乾いた衣類に着替えてタープの下に寝転がり、ビーフジャーキーを肴にウイスキーをちびちび呑む。まさに『まほろば』だなぁと思った。
雨脚は強くなり土砂降り状態となり始める。タープの下に置いてある大きなコッフェルが一分ほどで雨水により溢れるほどだ。
黒部川の増水はいかばかりであろうかと気になるが、この『まほろば』からは沢の轟音が響くばかりで実際のところはわからない。
暗くなる頃には雨も止んだ。空は雲に覆われているが天候が大きく崩れることはなさそうだ。安心して眠りについた。
『まほろば』に朝日が射し込むまで待って撤収を始める。
女房の右足を見ると親指の生爪がはがれかかっている。昨日、爪先を河原の石にぶつけてしまったという。泣き言一つ言わずに歩いていた女房。彼女の歩行速度が異様に遅かった原因はこれだったようだ。それにしても何たる忍耐。頭が下がった。
「男のようにヤワじゃあないの」
とテーピングを巻きながら女房がいう。確かに35kgの荷を背負うことはできても生爪がはがれかかった状態で愚痴一つこぼさずに歩くことは私には不可能だ。
8時15分、黒部の『まほろば』を出発。
廊下沢出合の少し先から広大な河原が広がり始めた。旧黒五跡と呼ばれているもので自然の堰止湖の跡だという。いつ頃まであったのかは知らないが自然の営みの大きさを感じさせられる話だ。
旧黒五跡の中ほどで左から中のタル沢、右からスゴ沢が流入してくるが両者ともにさほど大きな沢ではない。中のタル沢出合には笹の茂った河岸段丘があってビバーク適地を提供している。
黒部川自体はこの先で大きく左へカーブし始める。このカーブを曲がるといよいよ上ノ黒ビンガである。どんなに美しいだろうかとわくわくしながら足を進める。
青空の下で上ノ黒ビンガは右側に大きく高くそびえ、左側は大きな花崗岩のブロックが張り出している。その間を黒部川はゆるい流れでトロになっている。腹から胸まで水に浸かりながら数度渡渉を繰り返し、上ノ黒ビンガを通過していく。
10時37分上ノ黒ビンガの前を過ぎると右側から花崗岩の美しい滝が流れ込む。
「観光地の名勝のような景色!」
と女房が言う。たしかに大自然の美術館の中を歩いているようなもので通り過ぎるのがもったいないような気分になる。
10時48分、続いて湧水がそのまま滝になったような水草を絡ませた「すだれ状滝」が右から流入。この滝も美しい。
この自然美の大回廊はおおよそ500mほど続いて、前方に金作谷出合付近の河岸段丘が臨まれる地点にたどり着いた。ここにも美しい花崗岩の滝が右側から流入しており、各種遡行図ですだれ状の美瀑と呼ばれているものであろう。
11時51分金作谷出合の手前にある河岸段丘に這い上がる。細かい砕石が敷きつめられた台地でビバーク跡もいくつかあり、山側の縁には清水もある。台地の上流側は雪渓に覆われ、下流方面には上ノ黒ビンガの回廊を見ることもできる。
とても早い時間だが今日は休養日にすることにして、ここに泊まることを決めた。こんなに良い天気の日に休養するとはなんという贅沢だろうか。みんなの嬉しそうな顔。ニコニコしてザックを下ろし、みんなビーチサンダルに履き替える。
子供達とテントとタープを張り、薪を集める。ここちよい風が下流から上流方面へと吹いてタープがはためく。昨日の雨でびしょぬれになったものを石の上に広げる。
台地の清水で水を汲みうどんをゆでて昼食にする。
食後は皆思い思いに過ごす。タープの下で昼寝をしたり黒部川の河原で水遊びをしたり、近くの雪渓で遊んだりさまざまだ。私は岩魚釣りでもしようかとザックの中身をさがしたが肝心の竿を忘れてきてしまったようでハリと釣り糸しかない。あきらめてタープの下で昼寝をする。その間も子供達は周辺を宝探しでもしているらしく、テントの周りをうろうろしている。
そろそろ黄昏時になるころ私も起き上がり、テント脇の清水で水を汲もうとすると小さな水溜りの中に石ころで囲いを作ってある。どうやら釣り上げた岩魚を入れておくための生簀を素直が作ったようだ。
岩魚に対する子供達の期待が感じられる。
「竿はないけど釣って見るか」
周辺に落ちている長さ1mほどの細い流木に釣り糸を括りつけ、ちょっとした工夫をして敦子が捕まえてくれたバッタを釣り針につける。夕まずめなので岩魚は瀬に出てきているかもしれない。1mの棒切れなので遠くへは餌を流せない。足元の浅い瀬に流してみる。
エサのバッタは白い瀬にもまれながら姿が見えなくなり、一拍おいて糸が引かれた。
岩魚が食いついたようだ。弾力のない棒切れでは糸切れするかもしれないので慎重に取り込む。魚体26.5cmの立派な岩魚だった。
こんな粗末な仕掛けで釣り上げられてしまうとは、なんという純朴な岩魚であろうか。同じ黒部川でも下ノ廊下の欅平の下流域では観光目的に漁協が養殖岩魚の放流を行っているようだが、上ノ廊下の岩魚は天然魚である。そのように考えると上ノ廊下の厳しい自然の中で年齢をかさねてきた岩魚が不憫にも思われる。私たちは釣りを目的に上ノ廊下にきているわけではない。自然の豊かな恵みを確認するにはこの一匹だけでもう充分だ。
針を深くまで呑みこんでしまった岩魚をテントにもって帰ると子供達がテントの中から出てきて歓声をあげた。あたりは薄暗くなり始め、消えかけていた焚き火に薪をくべる。私は素直と岩魚の塩焼きの下ごしらえをする。腹を割いて串を刺しアラ塩をふって遠火で焼き始める。焼きあがるまで夕食の準備をする。食後、タープの下で足を伸ばしててくつろぎながら子供達に岩魚を食べてもらう。子供達には10年程前の夏の北海道一周キャンプで二週間毎日のように岩魚の塩焼きを食べさせたことがあるのだが、もうそんなことは覚えていないらしく
「岩魚っておいしい」
「ほんとう、ものすごくおいしい」
などと口々に言う。
夜空はまさに満天の星空で天の川がくっきりと見える。プラボトルの底に最後に残った少量のウイスキーを口に含みランタンの灯を消した。
寒い。風も上流から下流方面へと吹き降ろし寒暖計は3℃を示している。
1972年の7月下旬に標高3,000m近い穂高岳山荘のテント場で4℃という経験はあるが、ここが標高1,600m地点であることを考慮すると驚くべき低温だ。風がなければ霜が降りても不思議ではない。
7時34分、ネオプレーンのタイツを穿いて金作谷のキャンプサイトを出発する。
金作谷出合のすぐ先にあるゴルジュは上ノ廊下最後の難所とされており、これを無事通過できれば山場は越えたことになる。
まだ日の射さない谷の底をゆっくりとゴルジュへ向かう。最初のうちはこの先に何があるのかわからないので、慎重に渡渉していく。
陽の差し込まない谷底のゴルジュは写真上では全体にブルーのフィルターをかけたように写っているが、実際の姿も白い花崗岩とエメラルドグリーンの水流が美しく見惚れるほどの景観である。
それでも連日の晴天で水量は減っており渡渉の苦しさはない。
まずは左岸(右側)から右岸(左側)へ渡渉し、次に途中にナイフブレードが残置されている右岸を半分水に浮かぶようにして水中をヘツる。ここはザックをフロートにして50mロープによるピストンで全員を引き寄せた。
いったん左岸へ渡り、次のトロだ。このトロは出だしが厳しく、少し高巻くようにして行者ニンニクの香りにむせびながら岩の段を這い上がり、潅木でビレイして水線へ戻る。深い淵に女房子供達が不安がるのでロープを投げてビレイしてヘツる。ヘツり終わると陽の光が降り注ぐ河原が目の前にある。
これで金作谷のゴルジュも終わった。
9時44分、金作谷のゴルジュを通過すると谷底にも日があたり始め冷え切った体を温めるためにしばらく日向ぼっこをする。
このあともやっかいなトロ場がいくつも現れる。
その中でも赤牛沢の手前のトロ場は一番手ごたえがあった。そこは真っ白な花崗岩の美しい淵で左側は垂壁で下の流れはゆるく、一方右側は傾斜のゆるいスラブになってはいるが流れが速い。よく見ると左の垂壁を構成する真っ白な花崗岩に沿って20mほど水中ヘツリでトラバースすれば壁の弱点を突いて登れそうに見える。
実際にやってみるとザックが重過ぎて容易ではなく、前傾壁でやるようにパンプした前腕を何度もシェイクして登り切った。
這い上がった岩の上も真っ白な花崗岩で陽の光の中でまばゆいばかりに輝いている。
エメラルドグリーンの淵を最初に子供達、そして最後に女房と次々にロープで引き寄せる。
この美しい淵を越えると赤牛沢は間近だった。
13時49分、赤牛沢の出合でしばらく休憩する。この晴天はいつまで続くのであろうかと思う。相当太平洋高気圧の勢力が強いのだろう。
このあとも小粒だけれどもやっかいな淵がいくつも出てくる。パズルを解くようにしてルートを見つけ次々に越えていく。時には急流をジャンプしたり、あるいはお助け紐の補助で強引に流れを突っ切ったりなど、なかなかどうして手ごわい。
それでも午後二時過ぎには岩苔小谷出合である立石に到着することができた。立石には岩苔小谷と黒部川本流に挟まれた部分に笹に覆われた良いビバークサイトがある。
1984年のクラブの夏合宿時は、ここから高天原温泉へ抜けたと同期の砂田栄作が言っていたが、上ノ廊下と奥ノ廊下という黒部川の最も美しい部分を経由して露天風呂で汗を流し、雲ノ平を周遊するとはなんという粋なプランであろうか。ところが当時、合宿の印象を尋ねても「水が冷てぇし、下降路の伊藤新道には参った」としか話してくれなかった。下山後の記録報告もなければ写真すら1枚も撮影していないのである。大木さんや砂田らしいなと思ったものだ。
さて、話を私達の遡行にもどそう。ここ立石で奥の廊下も終わって黒部川源流と呼ばれるようになる。さすがの黒部川もおとなしい河原歩きが多くなって、遡行もぐっと楽になる。
まだ時間が早いのでもう少しがんばることにして先を急ぐ。
15時56分、真っ白な花崗岩の可愛らしい淵や河原をいつくしむようにゆっくりと歩いていると立石奇岩が見え始めた。立石奇岩の前を通り過ぎると谷は開けて右からガレた沢が入り込み、巨岩地帯が始まる。その巨岩地帯の手前左側には岬のように突き出した岩の台地がある。
16時20分、今夜はここで泊まる事にして岩の台地へ登る。この台地は水面から10m近くの高台となっているが流木等が散乱しており増水時には水をかぶるのかもしれない。下地は岩でゴツゴツしておりあまり快適とはいえないが、万が一の増水時に逃げ場となる斜面が上方につづいており、沢の中での幕場としては最低限の要件は満たしていると見てよいだろう。
手分けしてテントを張り、焚き火の用意をして、対岸のガレた沢へ水を汲みに行く。みんなお腹が減っているようなのでとりあえず蕎麦をゆでる。暖かいゆでた蕎麦が冷えた体を温めてくれみんなほっとしたようだ。さぁ今日の夕飯は何にしよう。レトルトの丼物は食べ尽くしてしまったので、マーボー春雨にしよう。
飯もうまく炊け、真っ白いご飯とマーボー春雨にみんなおいしいおいしいといって食べる。残ったご飯に「おにぎりの素」を混ぜておにぎりをつくり明日の朝食の準備も終わった。女房は日記をつけ、子供達はテントの中で絵を描いたり歌をうたったりして黒部の夜は更けていった。
今日も寒い。テントを張った斜面は西を向いているので日が当たるのが遅い。
7時44分、日の当たる前に出発する。5日目ともなると食料もだいぶ減り、それに伴って私のザックも軽くなってきた。出発地から巨岩地帯が始まる。一つ一つの巨岩を縫うようにして通過し終わると谷底にも朝日が差し込んできた。左右に谷はゆるくカーブし美しい淵も出てくるが通過の困難さはない。小一時間ほど歩いて右の岩壁から清水の湧く砂地があったので休憩する。スポーツドリンクを作って皆で飲み、お菓子を食べていると小さな石が転がる音がした。また素直が周辺で遊んでいるのだろうと思っていると
「あれぇ、変なイキモノー」
と素っ頓狂な声で朋子が言う。
小石の転がる音の方を見ると熊だ。真っ黒な毛。その黒毛が艶々光っている。熊のほうも驚いたのだろう、こちらに顔を向けることもしないで大急ぎで藪の中に隠れてしまった。初めて自然の熊を見て女房も敦子も朋子も興奮している。一方、少し離れた所で別の遊びをしていて熊を見過ごしてしまった素直は残念がっている。熊が逃げ込んだ藪に向かって可愛い大声をだしてみたが熊は二度と姿を見せなかった。
更に谷は穏やかになってしばらく容易な遡行を続ける。
9時41分、前方には大東新道付近のA・B・C・D・E沢が合流する屈曲点が見えてきた。谷が大きく屈曲を始める地点に二本の沢が流れ込んでいるが、これがE沢とD沢であろう。おそらく北海道地図株式会社の二万五千図のE沢の位置が間違っていると思われる。そうでないと沢が一本余ってしまう。
この屈曲点へ向かっていると5人パーティーが下降してくるのが見えた。全員ライフジャケットを身につけており、先頭を歩いている人は日に焼けて精悍な体つきをしている。その人と少し立ち話をする。
10時22分、滝になって合流するC沢周辺は水際をトラバースしたためか遡行図にあるような懸垂下降はなかった。
この近辺では黒部川の本流は濁っており川底を見ることはできない。これは上流にあるA沢で大規模な崩壊が続いており、この土砂を含んだ泥水がA沢から流れ込んでいるからだ。
赤い巨岩の手前で最後の胸まで水に浸かってのヘツリをおこなってB沢の出合を通過する。ここB沢出合で大東新道と合流しているので河原にはペンキの印が見え始める。
11時44分、A沢の出合を過ぎると再び水の流れは美しさを取り戻し、釣り人や一般登山者とすれ違うようになった。
空はあくまでも蒼くそよ風の中をのんびり遡行していく。
薬師沢出合が近くなったあたりで深く美しい淵がいくつかあったが道標や右岸を巻く踏み跡がはっきりしており労せずして通過していく。
13時29分、まもなく吊橋が見え、少しばかりくたびれたような薬師沢小屋が逆光の中に建っている。薬師沢小屋の玄関前のベンチに腰掛け休憩する。
久しぶりの山小屋なので欲しいものを買ってもいいことになり、桃缶や缶ジュース、クッキーなどを食べる。私は2,500円の日本酒の一升パックを買う。
このときに小屋番の純朴な青年から、薬師沢小屋から源流地帯全てが幕営禁止であることを告げられた。
しかしこれには驚いた。高桑信一氏の著作でも薬師沢小屋周辺はキャンプ禁止なのでE沢手前か兎平以奥で泊まるように解説しており、ネット上の他の上ノ廊下の記録にもこのような記述を見ることはなかった。
上ノ廊下から継続してきた遡行者はいったいどうしたらいいのか。しばらく考えたが今回ばかりは遡行を継続させてもらうことにする。
薬師沢小屋の前から黒部川へ下り立つ途中に看板があって細かい字でたくさん書いてある。「沢ならどこに泊まってもいいと思っているのか」というような書き出しで全部は読みきれなかったが何でも赤木沢には一日に100人を越える遡行者が押し寄せる日がありもう限界というようなことを書いている。初心者コースである赤木沢や黒部川源流に入山の楽な折立経由で一般登山者が押し寄せるのも無理はなかろう。
そして当然ながらみんな排便する。完全なオーバーユースである。これはキャンプの有無にかかわらず発生する。美しい赤木沢や黒部源流が排泄物にまみれているとは想像したくないような事態だがこれが現実らしい。そんな中で今の私にできるのは大便や使用したペーパーをビニール袋に入れて自宅まで持ち帰ること、なるべく草を踏み荒らさないこと、そして焚き火をしないことの三点だろう。
14時15分、気を取り直して歩き始める。
しばらくは単調な河原が続く。赤木沢出合が近づいてくると美しい淵や滝が現れ始める。ここは巻き道が左岸にくっきりとつけられいる。巻いている途中で前方に赤木沢出合のナイヤガラの滝が見え始めた。夕方近くの傾きかけた陽が明るく滝を照らしている。
16時16分、赤木沢出合に到着した。ナイヤガラの滝は赤木沢出合を挟んで二段になっており高さもせいぜい2m程度だが箱庭的な美しさがある。
この滝を越えてから左手の笹の斜面を上がると兎平である。余計な踏み荒らしをしないように気を配りながら小さな平坦地にテントを張る。今日の最後の陽射しがみんなの顔をオレンジ色に染めている。
明日は鷲羽乗越の三俣山荘へ抜ける予定なので黒部最後の夜だ。薬師沢小屋で仕入れた日本酒を呑む。安酒だけれども美味いなぁ。
空は満点の星。流れ星がいくつも見えた。やけに流れ星が多いなぁと思っていたら、ペルセウス座流星群だったことを帰宅してから教えられた。
夜中に何度も寒さで目が覚めた。テントのフライシートの内側が凍っている。外を見ると一面の霜で草原がうっすらと白くなっている。外に出してあった衣類も板のように硬く凍り付いている。ここは標高1,972mで3,000mの稜線ではないことを思うと信じられないような事態である。あまりの寒さにテントの中でランタンを灯し暖をとる。陽がテントを照らすようになってから撤収を始める。それでも今日からはネオプレーンのタイツをはかなくてもいい。短パンに半そで姿の行動になるので気分的にはとても楽だ。
家族の大便をビニール袋に三重にして包み、ゴミと一緒に私が背負う。
9時19分、兎平を出発し黒部川へ下り立つ。すると下流から赤い上下を着た二人の遡行者が赤木沢出合のナイアガラの滝を越えてやって来た。
腕に腕章をしている。薬師沢小屋の小屋番がいっていた監視員らしい。昨夜はどこに泊まったのかとか幕営禁止だということは薬師沢小屋で知ったはずだとか、岩魚が減ってしまったとか二人の若者は私を問い詰める。しかたがないのでとにかく謝る。
ところで上ノ廊下から継続してきた遡行者はどこに幕営したらいいのかを逆に尋ねてみた。
大東新道が合流する地点から上流の全てで幕営しないで欲しいという。上ノ廊下からの遡行者にとってはきついだろうが、もし幕営すると黒部源流や赤木沢を登りに来た一般登山者がまねをしてしまうともいう。とにかく折立から入山して赤木沢や源流に入る登山者の数が多すぎるのだと繰り返して言うのだ。
大東新道より下流で幕営するとなると立石奇岩周辺になろうが、あそこから一日で鷲羽乗越までたどり着くのは容易ではないというと、薬師沢小屋へ泊まればいいとの回答だった。
上ノ廊下は素晴らしい場所なのでまた来て見たいが、その時には薬師沢小屋に泊まるか源流の遡行を断念して雲ノ平か太郎平へ迂回するしかないようだ。実際のところ上ノ廊下から源流まで一通り遡ってみると下ノ黒ビンガから立石までの間に素晴らしさが凝縮されているので、いっそのこと大木さんや砂田たちのように立石から高天原というのが最も賢い選択なのかもしれない。
五郎沢あたりで監視員の若者たちは引き返して行った。
気を取りなおして遡行を続ける。
快晴の下で美しい水の流れの中に単調な河原の遡行が延々と続く。
祖父沢を越えたところで昼食を摂る。普段なら行動中に昼食の名目で長い休憩をとることはほとんどないのだが木陰になった砂地でザックを下ろす。ザックからガスコンロを出してスパゲッティを茹でる。昼食に調理をするというのも大変にめずらしいことだ。遡行の最後でささやかな贅沢をしようということだ。これを見て女房も子供達も大喜び。思い思いの場所に腰をかけてささやかなご馳走をほおばる。
黒部源流は祖父岳の裾野を左へ緩やかに曲がりながら鷲羽岳の懐へと向かっている。上ノ廊下ではあれだけの渡渉をともなった黒部川も今では小川のような可愛らしい流れになっている。そんな流れの中でも足元から岩魚が走るのには驚かされる。
正面に鷲羽岳が見え始めた。黒部ダムを出発して6日目にしてようやくゴールでもある裏銀座の主稜線が間近に見えたのだ。
少しづつ高度が上がっていく。
三俣山荘の建つ鷲羽乗越から流れ下ってくる沢が右から流入してくる。あと少しだ。
左から雲ノ平からの登山道が黒部川最源流を横断してきた。
いよいよ黒部川を離れる瞬間がやってきた。
写真を一枚撮っただけで休憩もせずに鷲羽乗越へと続く道をたどりはじめる。
16時31分、鷲羽乗越への登山道を数十メートルトラバースすると赤い御影石でできた黒部川水源地標にたどり着いた。
ザックを下ろす。
あれほど晴天が続いていたのに深い雲が山々を覆い始めたようだ。長い晴天の周期の変わり目にきているのだろう。
長い黒部川の旅が終わったなぁと感慨もひとしおだ。
しばらく休んでからハイマツに覆われた鷲羽乗越の登山道を三俣山荘へとゆっくりと歩いて行く。
私の山登りの原点になった1972年7月の夏山合宿、裏銀座から槍穂高縦走で訪れて以来の鷲羽乗越。当時高校二年生16歳だった私は家庭を持ち、子どもを授かって48歳となり、その家族とともに実に32年ぶりにまたやって来る事ができた。
17時25分、その鷲羽岳が見下ろす小さなサイトにテントを張る。キャンプ場は大変なにぎわいでたくさんのテントで埋まっている。幕営手続きをかねて三俣山荘へ行ってビールを買い入れて呑む。一昨年子供達と登った北鎌尾根が湯俣川を挟んで正面に見えている。急いで子供達を呼ぼうとしたが一瞬で槍の穂先は雲に隠れてしまった。
濡れた装備をテントとハイマツに囲まれた小さなスペースに積み上げる。テントの中でホッと一息ついてくつろいでいると、敦子が今日の遡行でつま先を岩にぶつけたと言う。靴下を脱がせて足の指を見る。女房よりも状態は悪く出血している。女房と同じで行動中には愚痴一つこぼさなかったので気がつかなかったが、これは痛かろう。テーピングをして何とか明日一日耐えてもらうしかない。
夕食後、子供達が楽しみにしていた杏仁豆腐を作り、冷やす為に外に出す。
いよいよ明日は下山だ。下山したら何を食べたい?というような話をして皆で盛り上がる。本郷食堂でカツ丼を食べようということになった。杏仁豆腐は明日の朝食べることにしてランタンの灯を消した。
今日は鷲羽乗越から双六小屋・鏡平・わさび平を経て新穂高へ下山。その後、私一人で扇沢にデポしてあるスバルを回収してくるという予定だ。
その為には新穂高発13時40分の松本行きバスに乗らなければならない。三俣山荘から新穂高までの標準コースタイムは8時間半なので、それなりに気合いを入れて歩かないとバスに乗り遅れる可能性もある。
一方、スバルを回収してくるのに6時間はかかるので女房子供達はのんびり下ればいいということになり、始めて隊を二つに分ける。家族を山に連れ出し始めてから15年になるが私が引率しないで山道を歩かせるのは初めてのことで不安を感じなくもない。しかしながら良く考えてみると彼等彼女等は登山歴13年から15年の立派な登山者でもある。
テントの外を見ると鷲羽岳には大きな笠雲がかかり、雨が降り出すのは時間の問題というような空模様である。
「すぐに天気が悪くなるからのんびりしないですぐに撤収するんだよ」
と言い残して私一人でまず5時に出発する。
1972年には鷲羽乗越から双六池まで三俣蓮華岳と双六岳の巻き道をたどったので今回は稜線を行く。三俣蓮華岳で横っ飛びに流れるガスにつつまれてしまった。
7時20分、双六岳の山頂で携帯電話を出す。アンテナが三本立つ。
下山途中経過を関係者に連絡した後、土橋さんに電話する。携帯電話の通じる山登りの節目では必ずと言って良いほど土橋さんに電話をしたくなる。
「小堀君が昨日から槍ケ岳に入っているんですよ。昨日は殺生かな。」
ガスで何も見えないが槍ケ岳の方角をみる。仲間が同じ山域にいると思うだけでなんだかとても嬉しくなってくる。
「ところで土橋さんの只見はいかがでしたか」
「岩魚を釣って会津駒にも登りましたよ」
無事下山の知らせに、いつもの通り土橋さんは我がことのように喜んでくれた。
弓折分岐の手前で本格的な雨となった。視界も悪くなってきたこともあり、女房子供達は三俣蓮華周辺で黒部五郎方面へ迷い込んでいるのではあるまいかと少し心配する。
13時02分、わさび平を過ぎて林道を歩いていると敦子から電話があった。私の現在地が新穂高に近いので受信ができたのだろう。一方、鏡平は携帯電話のアンテナが三本立つらしい。
「もしもし、あっちゃんだよ」
「今どこにいるの」
「鏡平」
「もう安心だからゆっくり降りて来なさい」
この電話には本当に安心した。もう大丈夫だ。
おっとバスの発車まであと40分しかない。女房子供達があんなに頑張っているのだから私がバスに乗り遅れるわけには行かない。新たに大便を背負っているとはいえ食糧のほとんどなくなった私のザックは28kgと随分軽くなり、走るようにして新穂高へと急いだ。バス停に到着したのは発車10分前。冷えた缶ビールを片手にバスに乗り込み、新穂高からバスで松本まで出て、大糸線経由で信濃大町からバスを乗り継いで扇沢に到着。17時40分。
どしゃ降りの雨の中で7日間デポしていたスバルに乗り込みエンジン始動。
女房子供達へ電話をかけるが、通じない。13時に鏡平にいたのだから遅くとも17時には新穂高へ下山していても良いはずなのだが連絡がつかない。少し不安を感じながら国道147号線を南下していく。
雨雲に覆われ、すでに暗くなりつつある安曇野を走っていた時に朋子から電話があった。
「今ニューホタカホテルの前にいる」という。
すでに19時。鏡平から新穂高まで6時間を要したことになる。通常は3時間の行程であるから二倍の時間がかかったわけである。合流後、女房子供達にその理由を聞いて言葉につまった。
それは足の親指の爪がはがれた敦子の苦闘だった。鏡平を過ぎたところで生爪のはがれが進行し激しい痛みに一歩も下山することができなくなった。それでも女房が使っていたダブルストックを借りて歩き始めた。ストックに全体重を預けての這うような苦しい下山。体重をかけていた手のひらの皮が剥けた。
大きな荷を背負っている敦子だったが、朋子が敦子のザックを背負った。そして一番軽い素直のザックを敦子が背負って歩き始めたと言う。ワサビ平からは朋子と素直が先行して新穂高へ向かい、女房が敦子に寄り添って林道を歩いた。
真っ暗になった林道。新穂高に近いあたりにある「ニューホタカ」という名のホテル。夕暮れ時に見る「ニューホタカ」は人気もなく廃屋のようにも見えて不気味だが、ここから朋子が電話をしてきたらしい。
ゾンビ状態の女房子供達を回収できたのは20時20分。
家族5人それぞれが全力を出しきった「我が家の夏山合宿」が本当に終わった。
装備あれこれ
1.ロープは、・モンベルのフローティングロープ30m、・トラロープ20m×2本、・ナイロンロープ8mm30m。今回は高巻を行わなかったので懸垂下降もしないで済んだ。従って使用したロープはフローティングロープ30m一本とトラロープ20m一本のみ。私達はピストンを行ったので50mロープを要したが、ある程度の強度が必要なのは25mだけで、残りの25mはピストンで引き戻す為の役目しかないので洗濯紐や荷造り紐でもいいだろう。すなわち二人パーティーなら泳ぎ部分に限定すれば25mロープだけで足りるということになるが、増水時の高巻き用に20m以上の懸垂下降ができる用意(40m以上のロープ1本or20m以上のロープ2本)は必要だろう。
2.浮き輪、ライフジャケット、水中メガネ、シュノーケルは持参せず。
3.全員沢タビを履いたが、女房と敦子が爪をはがしてしまった。疲れて集中力が途切れてくると足さばきがいいかげんになって、つま先を岩にぶつける。沢タビが5千円前後であるのに比べ渓流シューズは1万円以上するので沢タビを履かせたが慣れない女房子供達には渓流シューズの方が良かったのだろう。貧しい私達は、爪がはがれることにより、多くの苦労・体験をすることができたということで、考えようによっては「幸なるかな貧乏人」である。
4.防水用のビニール袋の予備を大中小と各種数十枚づつ持参し、輪ゴムも100本以上もって行った。これがあったので大便を持ち帰ることができたと思う。
5.素直が履いていたICI石井スポーツ「ホワイトウォーター渓流タビ」の足の甲を締め付けるためのナイロンバンドが切れた。摩擦で擦り切れたのだ。切れたのは六日目の黒部川遡行の最終日。ぶ厚いナイロンバンドが擦り切れるとは過酷な遡行が偲ばれるエピソードである。
計画書
A4で26ページにもなる計画書を作成し製本して5部持参した。そのうちの一部を奥黒部ヒュッテの小屋番に渡した。26ページと聞いてビックリする人もいるだろうが、それぞれの場所でのエスケープルートを詳細に記述したが為にこのようなボリュームとなった。細田浩さんと登るのであれば最小限の装備と情報で登る方が楽しいし早い。訳のわからない沢にエスケープして地獄のような登攀を強いられたとしても、それはそれで楽しい思い出になる。しかしながら家族連れともなるそう言う訳には行かない。ポイントは現在地の確認と増水で閉じ込められた時にどのようにして安全地帯に逃れるかの情報の有無だと思う。
大便持ち帰り考
小さいビニール袋に排便し、輪ゴムで止めてビニール袋で三重にパック。これをナイロンのバッグに入れてザックの表側につけたゴムネットにはさんで運搬する。こうすると不慮の事故で中身がザックの中に漏れてしまうのではないかという心配もなく安心して持ち帰ることができる。ちなみにモロモロのゴミなども同じようにして背負う。ヨセミテで行われているように、屎尿に石灰を混入しタッパーに入れれば完璧ではなかろうか。運搬した大便は自宅まで持ち帰り我が家のトイレに流した。
なお、私の知るところインターネットの上ノ廊下の記録で源流地帯のキャンプ禁止問題について詳しく触れたものはかつてなく、黒部源流で大便持ち帰りを実践したというページも発見することはできなかった。この記録が初めてになるのかも知れない。
水温
1977年夏に同期の岩崎良信と金木戸川双六谷へ行ったことがある。
結果は雨による増水で敗退したのだが、水温が低かったのも敗退の一つの大きな要因だった。その時の水温の低さは今でもある種の基準になっているくらいで、私の記述で「あまり冷たくない」とは無意識のうちに金木戸川のそれと比較していることがよくある。
で今回の上ノ廊下はどうだったかと言うと水温7℃。プールの水温が15℃だったら泳げないことを考えると水温は非常に低いというべきであろう。ところがあまり冷たさを感じなかった。装備の進歩だと思う。1977年の私達の装備の中にはネオプレーンも高機能化学繊維も存在しなかった。地下足袋にワラジでラクダのモモヒキ姿は滑稽だったけれども当時としては考え抜いた出で立ちだったのである。今回女房や子供達が7℃の水温に耐えられたのはネオプレーンのタイツを穿いていたからである。
本郷食堂のカツ丼
家族全員が楽しみにしていた松本の8マン氏が推薦する松本の本郷食堂は次の機会になった。
ダイエット
登山における一日の消費カロリーは4,000kcalから5,000kcalで、しかも有酸素運動。体脂肪1kgは7,000kcalに相当するらしい。小屋泊まりではありませんから食事も思いっきり質素。従ってダイエット効果も相当なものが期待できます。
結果は4kgの体重減でした。リバウンドがすごいんだろうなぁ。
アテネオリンピックと高校野球
14日の深夜というか日付は15日になっていましたが、下界に戻ってみるとアテネオリンピックが始まっていました。水泳の北島、ハンマー投げの室伏、女子レスリングの浜口、柔道の谷。
一方甲子園も佳境を迎えており千葉経済付属がベスト4進出。優勝旗が初めて北海道へ渡りました。優勝した苫小牧の選手は全員地元の道産子と聞いて、なんだかとても嬉しくなりました。
参考文献=
・つり人社1997年6月20日発行 高桑信一「一期一会の渓」
・白水社1981年3月31日発行 「日本登山大系5 剣・黒部・立山」
・白山書房1986年6月20日発行 「新版 関東周辺の沢」
・北海道地図2000年4月発行 「トレッキングマップ 北アルプス 薬師岳・黒部五郎岳」
参加者:賀来素直(中1)、賀来朋子(高1)、賀来敦子(高3)、賀来幸子、賀来素明