2010年 夏

奥秩父

笛吹川 東沢 釜ノ沢東俣

2010/07/31

釜ノ沢の白眉  「千畳のナメ」

ヘッドランプの灯りで深夜まで歩き続けるような体験はできればしたくない。
私が20歳代の頃の屏風岩の冬。深夜の懸垂下降。あの頃は深夜行動を残業と称し、あまり違和感なく予測範囲に組み込んでいた。
そんな極限状態を妻に経験させるわけにはいかないが、適度に制御された範囲内でちょっぴり遅くまで歩くことは良い経験になる。
それではとルート選択。技術的にはやさしいけれど日帰りとしては少々長くてしんどいコース。夜道の下山になるので下降路も熟知している必要がある。いいところはないかなぁと選んだのは笛吹川の東沢。
2007年に素直と遡行したときには「道の駅三富」から稜線まで8時間半、下山が3時間で合計11時間半だったから一般的には十分に日帰り可能な範囲だ。しかし妻の足ではそうはいかない。計画では駐車場から稜線まで9時間半と計算し、下山4時間、休憩1時間半。合計15時間ともくろんだ。6時半に歩き始めて22時に車に戻ってくるという算段である。この時期の日暮は19時頃だから夜道を3時間歩くことになる。
で実際は朝6時40分に車を出発し、車に戻ってきたのが深夜12時15分。
山から帰ってきた私に母が大分弁で言う
「幸子さんをそげも夜遅くまで歩かせち、なんち、むげねぇこっちゃろうか」
確かにその通りで17時間半も歩かせてしまって妻はへとへと。本当に申し訳ないことをした。
後で知ったことだが、この日、ヘリ墜落現場取材に山へ入った日本テレビの社員2名が稜線の向こう側で発見されたという。冥福を祈りたい。

7月31日(土)晴れ時々曇り

前夜、母と子どもたちに下山が22時を過ぎる計画であることを告げ就寝。
3時起床、4時四街道出発。道の駅三富6時10分到着。西沢大橋の下の駐車場に移動し6時40分歩き始めた。
この近辺の標高はすでに1,100mだが、今日は湿度が高いようで蒸し暑い。汗が滝のように流れる。休業中の西沢山荘の前から西沢渓谷への遊歩道へ入り、つり橋を渡って東沢へ入渓する。
最初の徒渉地点で朝食をとり渓流シューズをはいてハーネスをセット。昭和40年代に遡行した時には東沢沿いに遊歩道が整備されており、木製の桟道が山の神まで通じていた。山の神には立派な橋があり、乙女ノ滝の対岸には東沢小屋が建っていた。
現在、桟道は跡かたもないが、山の神まではところどころで岩盤をくりぬいた山道が残っている。
妻の体力を案じながらゆっくりと歩く。
ホラの貝の入り口を過ぎると、山道は斜面を大きく高巻き上流へと続いていく。ホラの貝の核心部を見下ろすことのできる場所がある。恐る恐る覗き込むと2004年に細田さんと遊んだ場所が良く見える。今年は砂利が堆積して浅くなっているようだ。
数年前に新築されたらしい山の神で河原に降り立ち休憩。
ここから日射の強い単調な河原歩きが始まる。注意深く観察すると左右の河岸段丘に踏み跡があるので、それを使うと幾分楽だ。
まもなく乙女ノ滝。この滝にはアイスクライミングで幾度か訪れたことがある。夏場には難しく見えるこの滝も「結氷すると簡単に登ることができる」と言うと妻は信じられないというような顔をしている。
やがて「東のナメ」。今日は立派に見える。灰白色のスラブが見事だ。
少しずつ妻が遅れ始めた。歩行速度を更にゆるめ一歩一歩、踏みしめるように歩いていく。
やがて「西のナメ」。今日は光線の具合だろうか、ナメが非常に美しく見える。
釜ノ沢出合は貧相だ。ザックをおろし休憩だ。握り飯をほおばる。ようやく単調な河原歩きから解放されると思うとほっとする。
出合から数十メートル奥にある魚止めの滝から数百メートルの間が釜ノ沢序盤の見せどころである。
千畳のナメの出口の滝を越えしばらく行くと「野猿の滝」と表示されたプレートが設置された滝がある。東京周辺の沢の遡行図にある7m滝であろう。これは右下から左上へと続く顕著なクラックを使えば直登可能に見えるが、途中で太い水流をまともに食らう。躊躇することなく右の巻き道を行く。
まもなく「両門の滝」
小休止。Nikonの一眼レフが無残な姿で転がっている。
「両門の滝」は抜け口の10mが滑りやすいのでロープを出す。最上部で太い灌木にランナーをとり、フォローする妻が落ちた時に水流方向へ振られないような対策をとる。
やがて薬研の滝。私の家は幕末から明治初期に医者をしていたことがあり、薄暗い蔵には薬研があったことを覚えている。水流が落ちる細い流路が薬研のようである。右のリッジを少し登り足場の悪いトラバース。すぐに滝が続く。薬研の滝とあわせて二段滝と表現しても良いかもしれないほど接近している。この滝は左を登るが、最後の数歩が要注意でお助け紐でビレイ。ここは素直と登った時もビレイした。
この滝を越えるとゴーロ状となり歩きにくくなるので右に広がる樹林帯の中のかすかなトレースをたどりながら登っていく。ここが広河原である。大昔の天変地異の痕跡か広大な川底に樹林が密生している。下地は針葉樹林帯特有の苔の絨毯。倒木地帯を避けるように先を見通してルートファインディングをしないと苦労する。やがて右の斜面から湧きだした清水があったので昼食とする。冷たい清水が美味しい。湯を沸かしてカップ麺とおにぎりを食べる。標準的なコースタイムよりも、かなりゆっくりとしたペースだがスケジュール通りである。
広河原の広大な樹林帯がやがて集束しようとするあたりで2007年素直とのビバーク地を通過。広河原が終わるとまたゴーロ歩き。登りづらいので右岸の河岸段丘にあがって樹林帯の中を歩いてみたが、あまり効率的ではなかった。
このあたりから沢は急激に傾斜を強める。ぐんぐんと高度を稼いで行く。それに比例するように妻の歩行速度が落ちて行く。目の前の見栄えのする40mナメ滝を越えると水師沢出合なので「そこで休もう」と妻を励ます。40mナメ滝の上部15mは妻をビレイする。
2007年には水師沢出合に砂地の良いビバークサイトがあったように記憶しているが、すっかり洗い流されてしまい岩盤が露出している。ガスが流れは始めた。水師はミズシと読むが、「旅順開城約成りて・・・」と歌う父を思いだす。戦前「水師営の会見」は尋常小学校で教えていたらしい。
水師沢出合を過ぎると沢は急角度で右折。高度をさらに上げ屈曲する谷が見通せるようになると倒木帯の先に傾斜の強い美しいナメ滝が続いているのが見える。それは連続して続き木賊沢の出合の上まで伸びている。このナメ滝は右の灌木混じりの斜面から取りつくが、登り始めてすぐに水流際にライン変更し岩を登る。そのまま灌木斜面を登るとNG。ここも10mほど妻をビレイ。途中でペツルのアルミハンガーボルトがあった。その上で木賊沢を右に分ける。木賊沢との境界尾根に明瞭な踏み跡がありそれをたどっていくと本流へ戻るようにしてナメの上に出る。
いよいよ最源流部。甲武信小屋の水源ポンプ小屋まであと少しだ。妻はもう完全にバテてしまい休憩でもないのに仰向けにひっくりかえって荒い息をしている。ゼリー飲料を飲ませたりしながら励ます。
なんとか日暮前に甲武信小屋のポンプ小屋に到着。
ここで沢装備を全て解除。運動靴に履き替える。水もたっぷり補給し稜線まで登る。
甲武信小屋では外で宿泊客たちが楽しそうに談笑している。暗くなる前に戸渡尾根の下降点まで行きたいので休まずに頑張る。
戸渡尾根2,440mの下降点で大休止。妻と二人で冷やしゼンザイを食べる。期待値を越えておしい!食べているうちに暗くなった。妻もだいぶ回復したようで、そろそろ出発しようとしていたら、暗闇の中から登山者が二名ぬっと現われて、思わずゼンザイを落としそうになった。同じ釜ノ沢日帰りパーティーのようだ。彼らはすでにヘッデンを点けていた。
妻には150ルーメンの強力なヘッデンを点け「10時には車にたどり着けるよ」と元気づけ19時25分に出発。
下降経験のある戸渡尾根だが夜道では慎重にならざるを得ない。通常一時間に600mは下降できる尾根だが、今日は300mペースだ。それでも1,869mのピークまではなんとか順調に下ることができた。ここからは夜道であることを考慮し徳丸新道へと直進する。
さてここからが大変だった。
しばらくはなだめすかし、励ましながら下っていたがどうにも歩けないという。
妻の疲労は極限に達したようで、へたり込むようにして道にしゃがみ込んでしまった。
月がでて天気も良いし焦ることもない。何時間でも休憩して構わないと腹をくくる。
森の中に鵺(ぬえ)の口笛のような鳴き声が静かに響く。さみしい鳴き声である。
妻の足を丁寧にマッサージする。
しばらくしてよろけながらも妻は立ち上がり下り始めた。
「12時にはたどりつけるかな」
「うん、林道には着けるよ」
「がんばれ、がんばれ」と小さな声で自分自身につぶやいているのがなんとも健気だ。
100m下っては腰をおろし妻の足をマッサージすることを繰り返しながら遅々とした下降を続ける。物悲しい鵺の口笛が私たちについて離れない。
「ヌエの鳴く夜は恐ろしい」などと妻が言う。
「お母さん、そんな気味の悪いことを言うのはやめてょー」
ビバークの時は時間がたつのが遅く感じるが、今日のような時は時間のたつのが早い。時計の針は23時を回った。
最後のカラマツ林に入った。西沢山荘はすぐそこだ。ほどなく西沢山荘手前の林道に到着。
とたんに元気になる妻。先ほどまでのヨレヨレ状態はいったいなんだったの?とも思う。
すっかり元気になった妻とおしゃべりをしながら夜の林道を歩いていく。
「もう遅いから温泉は入れないね」
「そうだね」
「桃、買ってかえりたかったね」
「うん、産地で食べる桃は歯ごたえがあって甘い。たべたかったな」
「車はまだかな」
「林道のゲートから5分。ゲートまではもうすぐだよ」
そして車に帰り着いたのは24時15分。
着替えをしてすぐに車を発進。
山登りよりも車の運転の方がはるかに危険と感じて、途中のパーキングエリアで10分休憩して目を閉じていたら回復。無事2時50分に帰宅することができた。シャワーを浴び、缶ビール(本当は発泡酒)を一気に飲んで就寝した。

主要装備:9mm40mロープ1本、ビバーク用タープなど


駐車場 6:41
西沢山荘 7:10
つり橋 7:15
徒渉点 7:23-53
ホラの貝入り口 8:18
山ノ神 9:14-38
乙女ノ滝 9:51
東のナメ 10:17
釜ノ沢出合 11:25-40
野猿の滝 12:26
両門の滝下 12:56-13:07
両門の滝上 13:24
薬研の滝 13:33
広河原 13:58-14:26
水師沢出合 15:57-12
ポンプ小屋 18:09-24
甲武信小屋 18:39
戸渡尾根下降点 19:02-19:25
西沢山荘 23:44
駐車場 24:15

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周辺の記録
2007年8月25日の釜ノ沢遡行記
2004年8月1日ホラの貝ゴルジュ