
ここまでくるとやはり「処女峰アンナプルナ」を再読せざるを得ません。全二書との描写の違いにも心惹かれます。
本書では、隊長のモーリスエルゾークは「モーリス」と呼ばれているのですが、テレイの著作での表現は「モモ」です。「処女峰アンナプルナ」のフィクション問題は、ラシュナルという人物像の描写に象徴されているのではないかと思います。それを知ったのは近藤等氏の近著「アルプスの蒼い空」で「ガストン・レビュファも憤りを感じていた」との記述があったからです。おそらく一般受けを狙って故意に誇張したのでしょう。
このような事情があったのですが、いずれにしても読者をひきつけます。そうです「処女峰アンナプルナ」は読者をひきつけるために書かれた事実に基づいた小説なのです。新田次郎の「孤高の人」が加藤文太郎の「単独行」を資料の一部として利用しただけであって、全体としてはフィクションなのと同じです。
「処女峰アンナプルナ」後、モーリスエルゾークは英雄となりシャモニ市長になる一方で、情緒不安定という描かれ方をされたラシュナルは数十回の外科手術ののち、バレーブランシュのクレバスに落ちてその生涯を閉じたのでした。
ただ、10代の頃「処女峰アンナプルナ」を読みながら枕を濡らした経験のある私としては複雑な気持ちです。救いなのは大好きなラシュナルの名誉が始めて復帰されたということでしょうか。