2001年11月19日〜28日

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母と二人のアルプスドライブ旅行

勤務先で10年ごとに10日間、5年ごとに5日間のリフレッシュ休暇という制度があります。今年は勤続21年目なので10日間のリフレッシュ休暇の年でした。10日間の休暇があるということは土日を挟んで16日間の休暇があるということです。しかしながら昨年から勤務先のとある三年越しの大きなプロジェクトに身をおくことになり、悪戦苦闘の日々を過ごすうち具体的にどこへ行くこともなく取得期限が切れてしまいました。
3年程前に父を亡くし親不孝を嘆いたものでしたが、せめてお袋にだけは「一度くらい親孝行を」と思い、海外旅行の経験のないお袋に「今年のリフレッシュ休暇はヨーロッパに行こう、それも大分にいる伯父と伯母も一緒に!」といっていました。お袋も72歳を超え最近はひざの調子も良くなく、無理かなと思っていました。ところが11月初旬にお袋が大分へ帰省して戻ってきたときに「パスポートを取るために戸籍謄本が必要なんじゃろう?もろうてきたヨ」とニコニコしながらいうのです。ああお袋は本気だな、それなら是非行こうと思い立ちました。
プロジェクトの同僚たちは「賀来さん行ってくださいよ、毎日が山場なんだからいつ行ってもおんなじですよ」と励ましてくれる。
あとで後悔しないようにと。

決心してからすぐにインターネットで航空券を調べ、以前お世話になったことのあるエアーリンクトラベルに電話で問い合わせました。インターネット上でも公開していない直行便が往復で58,000円だというのです。その場で申し込みました。出発まで二週間しかありません。確認してみると私のパスポートも昨年切れていました。大急ぎでお袋と共にパスポート申請をし、国際免許取得に行ったりしてあっという間に出発当日がやってきました。

さて今回の計画のコンセプトは次のようなものです。
1.自由な旅行で行こう!他人が決めたスケジュールを消化するだけではつまらない。毎日の思いもよらぬハプニング。これこそ旅の醍醐味。したがって事前の予約は往復の航空券とレンタカーの事前予約のみ。つまり、宿泊地はその時の気分しだい、宿泊施設は行き当たりばったりということです。
2.お抱え運転手つき旅行でお袋の負担を最小限にしよう。つまり簡単に表現すれば、お抱え運転手は私、車はレンタカーということです。
3.コースはヨーロッパアルプスの外周を一巡するものとし、メインの目的地をドロミテのコルティナ・ダンペッツォとする。

さて、親子二人の珍道中、どうなることとなりますやら・・・。

11月19日
“成田〜コペンハーゲン〜ジュネーブ〜シャモニ”

やってきました出発の日が。
四街道から成田空港までは総武線快速を使うのがベターなので女房に四街道駅までデリカ号で送ってもらいました。空は快晴でまったくもったいないほどです。お袋は年甲斐もなく「そわそわわくわく」しています。
成田に到着してスカンジナビア航空のカウンターで搭乗手続きを済ませ、空港で外貨取得手続。ユーロのトラベラーズチェックを約5万円分取得しました・・・ユーロのトラベラーズチェックがあとで大失敗となることも知らずに・・・。海外旅行保険を満額分で申し込み昼食をとってから搭乗です。スカンジナビア航空機の着座位置は最後尾で窓から遠く監獄のような12時間でした。
コペンハーゲンに到着したのは現地時間の17:00。とにかくだだっぴろい空港ですね。フロアが木製のフローリングで贅沢なつくりです。眠いやら疲れたやらでぐったり状態で、ジュネーブへの乗り継ぎ便を待ちます。定刻より若干遅れた19:30ジュネーブ行きの飛行機が出発しました。私は機内でヨダレをたらしながら眠りこけてしまいました。21:20ジュネーブ着。
レンタカー会社「ハーツ」に日本で事前予約してあったのでジュネーブ空港内の「ハーツ」の受付窓口まで行き、各種保険を目一杯申し込んで、レンタカーのキーを受け取り指定の地下駐車場へ・・・。ところが見つからないんですよ、お目当てのレンタカーが。20分ほども探し回りやっとのことでブルーのFiat「pumt」にたどり着くことができました。この時の気持ちったらありませんでした。現地時刻はすでに22:00なのに今夜の宿泊場所も未定なのです。しかも年老いたお袋を連れて・・・。
さて、フィアットに乗り込んでエンジンを始動、車をバックさせなければなりません。ところがバックギアに入りません。日本車の場合、シフトレバーを押し込むとバックギアに入るケースが多いのですが、押し込むこともできません。どうしましょう?聞かれても困りますね。私はもっと困りました。
お袋はのんびりした口調で「今夜はここで泊まるんじゃろうかのう・・・」などと言っています。私に頼り切っているだけにあせります。ふと冷静になってシフトレバーを見るとノブの付け根に突起があり、この突起を上へ引き上げてからバックギアへ入れようとすると、何と上手くシフトチェンジができました。ああよかった。
ほっとして地下駐車場からいよいよ市街地へ走行開始です。
11月のジュネーブ。ちょうどプラタナスの紅葉が真っ盛りて想像していたよりも寒くありません。なれない左ハンドルとマニュアルシフト、しかも右側通行。適当にホテルを見つけて今夜の宿としたいのですが、路上駐車が多く、車の混雑したジュネーブ市街地で、ホテルを探しながら路肩に駐車することは容易ではありません。何度も市街地を周回し、偶然シャモニへの高速道路の入り口を発見しました。シャモニへ行くことができればこっちのもの!フランスの高速道路は制限時速120km。時速140km〜150kmでシャモニへ向かいました。もうルイラシュナルのようなノリです。見慣れたシャモニの町に到着したのは23時。うっすらと芝生に雪が積もっています。なじみのホテルへ行きました。
シーズンオフで何と休業中!がぁ〜ん。
途方にくれてサンミッシェル教会の広場で思案しました。カトリックの教会の前でお袋は安心したのか、またまたのんびりした口調で「今夜は車の中で泊まるんじゃろうかのう・・・」といいます。年老いたお袋を抱えてあせります。開業中のホテルはないかと車でシャモニの小さな町の中を走るうちに、プラの部落あたりまで行ってしまいました。
結局、国鉄シャモニ駅前まで行くと「ホテル”グスタビア”」のバーの灯りが目にとまり、フロントでかけあって見ることにしました。
結果はOK。すんでのところで車中泊を免れることができました。ミッシェルクロ通りを窓から見下ろすことのできるまずまずの部屋でした。

11月20日
“シャモニ〜マルティニ〜アオスタ〜クールマイユール”

まだ薄暗いうちに目がさめました。時差ぼけも昨夜のすったもんだで吹っ飛んでしまったのでしょうか。
なかなか夜が明けないので、一人で散歩に出かけました。シャモニの谷全体が雲海の底に沈んだような朝でした。
このホテルの朝食はいわゆるコンチネンタルではなく、どちらかというとアメリカンスタイルに近い豪勢なものでした。お袋と二人でシャモニ針峰群を仰ぐことのできる窓際の席に座ってヨーロッパ初めての食事です。お袋はハムが気に入ったようで、食欲もあり安堵しました。9時過ぎになってスネルスポーツへ行ってみました。店内は改装工事中で、とても買い物は無理というような状況でした。神田さんに何か素敵なザックはないかと物色させてもらおうとしたのですが、地下の売り場の片隅に山用品が山のように積んであります。その中から探し出すなんてとても無理。11月26日にまた来るからといって店をあとにしました。
さて今日の予定ですが、イタリア側へ行きたいのですが、モンブラントンネルが不通ということは、事前にインターネットでも知っていましたし、昨夜、ジュネーブからシャモニへ向かう高速道路にもモンブラントンネルが不通だと標識が示していました。ところがモンブラントンネルへ向かう道に入っていく車があります。出発前にインターネットで「シラク大統領が周囲の反対を押し切って火災事故で閉鎖中のモンブラントンネルの開通を決めた」という情報を得ていたので、ひょっとしたら・・・と思い、行ってみました。結局だめでしたね。トンネル前の閉鎖ゲートの監視員に睨まれてしまいました。
道すがらの落葉松林は金色の針のような紅葉にびっしりと霧氷をまとい、それは見事な景観でした。
本来ならモンブラントンネル経由でイタリアのクールマイユールへ抜けチェルビニアへ行きたかったのですが、仕方がありません。一旦スイスのマルティニへでて、グラン・サン・ベルナール峠越えでイタリアのアオスタへ行くしかないようです。
いったんシャモニの町へ戻り、マルティニへ向かう登山鉄道沿いに車を走らせます。峠の頂上へ車を走らせると突然ガスが切れ太陽が真っ白な霧氷を輝かせ始めました。こんなに美しい霧氷は久しぶりです。
しばらく車を走らせると右手に素敵な教会が見えてきました。ちょっと休憩していきましょう。教会から見下ろす村はまるで絵に描いたようです。
見下ろすスイス側のマルティニは雲海の底に沈んでいました。葡萄畑の中のS字カーブで道はどんどん標高を下げていきます。
マルティニへたどり着くとシャンペへ行きたい誘惑にとらわれました。そうです1991年の夏、細田浩さんとツール・ド・モンブランを踏破したときに立ち寄ったシャンペもここから近いのです。そもそも今回の旅の最終目的地としてコルティナ・ダンペッツォを目指しているのも「賀来さんレンタカーでドロミテ行こうよ」との細田さんが言っていたからなのです。その時には国際免許証を所持していなかったのであきらめたのですが、細田さんどうしているかな?などと感傷にふけってしまいます。
さて気を取り直して、グラン・サン・ベルナール峠へ向かいます。快晴の太陽の下でアルプスの山村を左右に見ながら峠下のトンネルを抜け、アオスタの谷へ入ります。
アオスタ!なんという響きの良い地名でしょう。通り過ぎる村々には必ずカトリック教会があります。そのうちの一つに立ち寄ってみました。
御聖堂の扉があいています。恐る恐る中に入ってみました。神父様に見つかったら不信がられるのではとヒヤヒヤしましたが、母は無頓着です。聖堂は天井が高くさまざまなイコン画で彩られさすがにカトリックの本場へ来たなぁと感慨もひとしおです。聖母マリアの前でひざまずき祖母のこと、伊達の叔母のこと、そして父のこと・・・無償の愛で私たち家族を満たしてくれた人々に二人で手をあわせ祈りました。
アオスタの街に到着しました。これからモンブラン方面へいったん戻るような形でクールマイユールへ向かいます。
クールマイユールを通過しフェレの谷へ車で入っていきます。そうですグランドジョラス北壁の下山地”プランパンシュー”へ行こうというのです。できれば”あのホテル”に泊まろうという魂胆です。紅葉のカラマツ林の中を落ち葉を巻き上げながら”プランパンシュー”へやって来ました。シーズンオフなので案の定ホテルは閉まっていました。残念至極。思い出のカトリック教会の建つ丘まで登ってみました。
車の前でミネストローネを作って食べ、”ラバシェイ”へ向かいます。ここも細田さんとの思い出の地です。うっすらとあたりには雪が積もり、人影も見えません。夏ですとクールマイユールからバスでここまでやってきて、歩き始めるのです。
ラバシェイの先までだいぶ入ることができたのですがだんだん雪が深くなって途中で引き返しました。今日の宿泊場所をそろそろ物色しなければなりません。アントレーブの村のロープウェイ駅前広場にある「ホテル"バレーブランシュ"」に飛び込みでかけあう事にしました。結果はOK!グランドジョラスを窓から望むことのできる小奇麗な部屋に案内されました。有名なイタリアンレストラン「フィリポ」にでも行って夕食をとろうかとも思いましたがなんとなく面倒くさく、マルティニのスーパーマーケットで買ったハムとクラッカーを食べて済ませました。
ベッドに横になり窓越しにグランドジョラスが暮れていくのを飽きもせずながめていました。

11月21日
“クールマイユール〜ミラノ〜ヴェローナ〜トレント〜オラ”

朝四時に目がさめました。早々にチェックアウトしようと一階のフロントへ行くと朝食の準備ができていました。案内された一階のレストランの西側の窓には、モンブランのプトレイ岩稜がオレンジ色に輝いています。何と素晴らしい景観でしょうか。ボイル時間を指定してのゆで卵をお袋が注文しましたが、中が程よく半熟でおいしそうです。ホテルのパンフレットを見ると夏のホテルの概観が印刷してあり花に飾られ夢のよう。
朝食を終えて車で出発しました。そのまま高速道路に載るのではなくしばらくの間、クールマイユールの街並みをお袋に見せることにしました。クールマイユールは高級避暑地という感じで、ちょっと騒々しいシャモニよりも落ち着いた雰囲気の町です。そうクールマイユールはボナッティが暮らした町でもあります。ボナッティにゴビーそしてマウリやザッペリがこの町を歩いたのかと思うと感慨深いものがあります。
トニ・ゴビーの店でボナッティがプトレイの大岩稜へ誘うときのこと。
「いつだ?」
「いますぐだよ」
「よし、行こう!」
トニ・ゴビーとボナッティの会話が聞こえてきそうです。そう、あの「フレネイ中央岩稜の悲劇」のときもボナッティとオッジョーニはこの町から出発したのです。
さて、今日は高速道路を一気に走ってドロミテに近いボルツァーノまで行きたいのですが、いけるかな?
朝日が真正面からさしこみ、まぶしくて仕方がありません。前にも後ろにも車はありません。そんな中、時速140kmで走っていると突然後ろからものすごいスピードで追い抜かれ圧倒されます。しばらくすると霧に包まれました。単調な霧の中の高速走行、忍耐です。
ミラノまで長く感じました。せっかくなのでミラノで途中下車。ところが市街地の地図を持っていなかったので、現在地がつかめません。しかもミラノについての予備知識はゼロ。ダビンチの「最後の晩餐」くらいは見たいものでしたがあきらめるほかないようです。うろうろして、なんだか不気味な墓地のようなところに出ました。大規模な門と門前の通りの左右に並ぶ花屋と墓石屋。いったいここはどこなんでしょう?
一時間半ばかりミラノの市内を高速道路の入り口を探して走り回りました。プラタナスの紅葉の盛りでいかにもヨーロッパというような街並みに、ついつい見とれてしまいました。
やっとで高速道路の入り口を発見しました。やれやれ。さて次はヴェローナに向かいます。そうロミオとジュリエットの舞台になったところだそうですが私には関係ありません、当たり前ですね。
ここでちょっとしたハプニング。高速道路の料金所でいつものようにVISAカードで支払おうとしたら料金所のイタリア娘が大声で怒鳴ったんですよ。「Italian chash only!」ですって。
「がぁーん!」先ほどミラノで高速道路を下車したときにはVISAカードで料金決済ができたのに・・・。持っているのはフランスフランと日本円それから5万円分のユーロのトラベラーズチェックだけ。
私のへたくそな英語とイタリア娘の早口英語でのやり取り。結局「あとで郵便局で支払ってください」ということになり、書類を渡されました。トホホです。
手持ちの現金をリラに両替しないと高速道路にも乗れません。がっかり。仕方がありません、銀行を探しながら一般道路をボルツァーノへ向かうことにしましょう。
一般道路を走っていると石灰岩の崖が道の両側に見えてきました。ドロミテが近いことを感じさせてくれます。
トレントの街へ入りました。美しい街並み、石畳、プラタナスの紅葉、古城・・・まるでおとぎの国のようです。母も「美しいところじゃなぁ」と感心しています。トレントからボルツァーノ方面への進入路がわかりづらく数回トレントの街を巡回してしまいました。
これは後日談なのですが、帰国してからカトリック西千葉教会の主任司祭である幸田和生神父様に「トレントは公会議が行われた場所の一つなんですよ」ときいた母は誰が何と言ってもトレントが最高と今でも言い続けております。幸田神父様の御言葉が母にとってはまさに福音だったのでしょう。私も幸田神父様の福音に従って今でも落ち葉の舞い散るトレントの石畳をいとおしく思い出さずにはいられません。それにしてもいつかはエルサレム、荒野、ガリラヤ湖、ナザレなどイエスの足跡をたどってみたいなと思っておりますが、そのような巡礼の旅が出来る平安な日々がパレスチナに訪れるのはいつのことでしょうか。
さて、美しいトレントを過ぎるとだんだん黄昏てきました。今日の宿泊場所を探さねばなりません。ボルツァーノまであと20kmというところでオラという小さな町がありました。久振りの町です。地図を見ると「オラ」。なんだか笑っちゃう町の名前ですね。
街道沿いにホテルが見えます。
「ホテル”エレファント”」
ここしかありません。早速交渉です。ところがここの女将はドイツ語しかしゃべれないんです。困り果てていると息子がやって来ました。息子は英語をしゃべることができました。さて車の駐車ですが「ホテル前の駐車場はレストランの利用者が駐車するので19時までは利用できません。19時までの間は道路向かいのツーリストオフィスの地下にある有料駐車場にとめてください。地下駐車場への行き方は・・・・」と聞いて愕然としました。
そうです有料駐車場となればイタリアの現金が必要なんです。私、持っていません。どうしよう?どうしたら良いかを聞くと「向かいに銀行がありますよ」とのこと。
なるほどありますね銀行が。
車を地下有料駐車場にいれて、銀行に行ってみました。ところが閉まっているんです。店内改装工事中!
うそ、どうしたらいいんだぁ。
でもね、そうですユーロのトラベラーズチェックで買い物をして、おつりをもらえればいいんです。でもトラベラーズチェックでお釣りがもらえるかどうかは、よく憶えていません。藁にもすがる気分で、近くの店で素敵なバッグを買いました。さてユーロのトラベラーズチェックで支払おうとすると受け付けてくれません。VISAカードしか受け付けてくれないんです。そういえばこれまでもホテルの支払いにユーロのトラベラーズチェックを使おうとすると拒まれ、VISAカードで支払いを済ませてきました。10年程前に細田さんとツール・ド・モンブランを歩いたときには山の中の小屋でさえもドルのトラベラーズチェックで決済ができたのに・・・。
本当に参りました。「こりゃ車を出せんかもしれんなぁ、お母ちゃん。どげすりゃいいんじゃろうか?」
お袋はまたまたのんびりとした口調で「そうじゃのう、こまったのう・・・」などと言っています。
真っ暗になった銀行に再び行ってみました。改装工事中の店舗の入り口にキャッシュカードの支払機があります。しげしげとながめてみるとVISAカードのマークが書いてあります。
ん?
これってカードで現金を引き出せるっていう意味かな?
恐る恐るやってみました。出来ました。20万リラを引き出すことが出来たのです。日本ではクレジットカードで現金を引き出したことなど一度もないのでVISAカードでこんなことが出来るなんて知らなかったのです。
へなへな〜としゃがみ込んでしまいそうでした。
夕食はホテルのレストランで定食を注文。ワインを飲みました。現金が手に入ってチップも払えましたよ。
夜、初めて我が家へ電話しました。
とにかくハプニング続きの面白い一日でした。

11月22日
“オラ〜ボルツァーノ〜オラ〜ボルドイ〜ファルツァレゴ〜コルチナ・ダンペッツォ”

不思議なことに寝過ごしました。普段は朝四時頃に目が覚める私なんですが時差ぼけなんでしょう。
ボルツァーノへ向かったんですが、ボルツァーノからドロミテへ向かう道がわかりません。地図を見ると昨夜泊まった「オラの町」からドロミテ方面へ向かう48号線が記載されています。もう一度オラまで戻り48号線へ入ることにしました。さぁコルチナ・ダンペッツォへ向けて出発です。途中いくつもの峠越えをしなければなりませんが、途中で出会うアルプスの山村のたたずまいが、なんともいえず楽しみです。
Pordeiという村で道を間違え641号線に入ってしまいました。峠のダムに到着するとすごい岩壁が聳えています。有名なマルモラーダです。間違えてやってきたとはいえマルモラーダを眼前に見ることができラッキーでした。南面に比べて傾斜のゆるいマルモラーダの北面ですが、こんな岩壁を見ると胸騒ぎを覚えます。知らず知らずのうちに目がフリークライミングのルートを追っているのです。何だか非行に走りそう。
Pordeiまでいったん戻り、48号線へ入りなおしました。
いよいよドロミテですね。圧倒されます。奥鐘山の比ではないすごい岩壁。こんなところでいわゆる六級登攀者たちは腕を磨いたのかぁ。こりゃクライミングが上手くなるわけだ。本当に登りたくなるんですね。うずうずします。だれかしっしょにいってくれないかなぁ。
たどり着いたボルドイ峠付近は積雪もあり、車の外へでるとかなり冷え込んでいるのがわかります。あたりはスキー場になっているようです。しかし今はシーズオフ、人っ子一人いません。峠のレストランも固く扉を閉ざし、取り付く島もありません。
いったん道は谷へ下り、のどかな山村を縫うようにしてファルツレゴ峠へ向かいます。斜面は牧草地で覆われ何と気持ちの良いところでしょう。ファルツァレゴ峠で休憩。午後3時近いせいかさみしく感じます。
ファルツァレゴ峠を越えるといよいよコルチナ・ダンペッツォを見下ろせるようになります。教会の鐘楼が中心部に高く聳えています。何度か市街地を行ったりきたりしましたが、今夜の宿はバイパスのオーストリー寄りにある「ホテル”ナタリー”」に決めました。このホテルがこの旅を振り返ってみると最高のホテルでした。無垢の白木で作られた室内、きれいなトイレとバスルーム、部屋の外は広いベランダが取り囲んでいます。
ホテルの主人の息子さんでしょうか、わかりやすい英語を話してくれ助かります。とりあえずワインを注文すると「地下にワイン蔵があるからそこで自分で選んでください」という。ワイン蔵へ連れて行かれ、いろいろとワインの解説をしてくれます。しかしワイン通ではない私は良くわかりません。適当に選ぶと部屋へ持っていき、うやうやしくコルクを抜いてコルクの香りを嗅いでくださいというんです青年が。
何だかわかんないけど「Good」とお愛想を言っておきました。飲んだワインのラベルに記載されたURLにリンクを張っておきます。
ホテルの窓からはトファナ山群が茜色に染まりながら夕暮れを迎えています。母と二人でコルチナの町へ散歩に出てみました。石畳の道を中心部へと歩いていきます。
大きなスーパーマーケットがありました。日本でいえばイトーヨーカ堂のようなものです。海外の見知らぬ土地でマーケットへ行くのは楽しみです。食料品・雑貨・衣類などを見ていると観光客向けの土産物屋では感じることの出来ない、地元の人たちの暮らしぶりがなんとなく想像できるからです。

11月23日
“コルチナ・ダンペッツォ〜インスブルック〜リヒテンシュタイン〜マイエンフェルト”

目覚めると外は雪。これではミズリーナ湖やらラバレド方面は無理でしょう。雪道でのタイヤのグリップを試すために食事前に雪の積もったコルチナ市街地を一周してみました。一応スノータイヤなので大丈夫のようです。朝食をとったダイニングがまた素晴らしい!木の重厚な造り、調度品の一つ一つもセンスがよくお袋も大満足です。
今日イタリアを離れる予定なので、一昨日のヴェローナでの高速料金をポストオフィスで払ってしまったほうがいいでしょう。ホテルの青年にポストオフィスの場所を尋ねると、CityMapを出してくれ、懇切丁寧に教えてくれました。8:50分にチェックアウトしポストオフィスで高速料金の支払いを済ませ、駐車場に入れてある車に戻りました。駐車場では露天市場が店を広げており手編みのセーターなどが2〜3,000円で売っています。ですがサイズが大きすぎて買えませんでした。代わりに洋ナシのラ・フランスを買いました。
51号線で峠を越えてオーストリーのインスブルックへ向かいます。路面は圧雪状態で運転は慎重にならざるを得ません。小さなフィアット「プント」はがんばります。馬力はなくともABS付きでスノータイヤ、たいしたものです。間もなくオーストリーとの国境となり、下るにつれて雪も小ぶりになってきました。
インスブルックへの高速道路はもうすぐです。高速道路に入りインスブルックに近づくにつれ再び雪が激しく降り始めました。半端な降雪ではありません。対向車線ではスピンした車が立ち往生していたり、大型トレーラーがゆるい上り坂を登れず何台も止まっています。私は札幌での転勤生活で5シーズンの冬を経験しているんです。これくらいなら何とかなるかな・・・何とかなりません、時速25kmで走るのがやっとというような状態になってきました。インスブルックで途中下車しようかなと思っていたのですが、雪による時間の大幅な遅れで断念することにしました。できれば今日中にグリンデルワルトまでいけたらいいなぁと期待していたんですがトンでもありません。どこに泊まろうか思案しましたが、時間が時間です。今日の宿泊場所はハイジの里としてつとに有名な「マイエンフェルト」にしましょう。そうなると一旦、高速をフェルトキルヒで降りてリヒテンシュタインを横断しなければなりません。その頃から雪が止み、路面の雪もシャーベット状になってきました。交通量が多いメインストリートはぬれたアスファルトが露出するようになりました。やっと一安心です。リヒテンシュタインでついに日が暮れてしまいました。真っ暗になったマイエンフェルトに到着です。「ホテル”ハイジーホフ”」がピカ一のお奨めホテルと本に書いてあります。こんなに暗くなって見つけることが出来るんだろうかとちょっぴり不安でしたが、要所要所に案内板があって、難なく「ホテル”ハイジーホフ”」へたどり着くことが出来ました。今日もやれやれといったところです。このホテルの部屋にはそれぞれ名前が付いています。ハイジの部屋だのアルムおんじの部屋だの・・・。私たちは二階の「アルムおんじの部屋」に案内されました。こざっぱりしたバス付きの部屋です。部屋の前の大きなテラスにも雪が積もっています。お袋は車の中では眠っているらしく、あまり疲れを感じていないようで一安心です。今日の雪道には本当に神経をすり減らされました。
早速一階のレストランに行って、お袋はホットミルク、そして私はビールを飲みました。あぁ幸せ!

11月24日
“マイエンフェルト〜ルツェルン〜インターラーケン〜グリンデルワルト”

6時に目覚め、窓から外を見るとまだ真っ暗でマイエンフェルトの村の灯りが見下ろせます。空はどんよりと曇っているようで、星ひとつ見えません。
朝食のチーズがおいしく大満足ですが、またもやスイスフランがありません。チップが払えないのです。でももう大丈夫です。VISAカードで現金を引き出す方法を知っていますからね。車でマイエンフェルトの村の銀行へ行き現金を手に入れ、日本に電話を入れておきました。
さて雪のない時期ですとここから峠越えでグリンデルワルトへ向かうことも出来るのですが、こんな状態ではおそらく峠は閉鎖中でしょう。ぐるっと大きく迂回して高速道路経由でグリンデルワルトへ入るほうが無難でしょう。時速120kmでひたすら走りました。途中ルツェルンに立ち寄りたかったのですがぐっと我慢して・・・。
インターラーケンの駅前のマーケットに立ち寄り休憩。新婚旅行でインターラーケンに来たことがある妹を喜ばせようと妹に電話しました。うれしそうにしていました。ここからグリンデルワルトはもう目と鼻の先です。どんどん道は登っていきます。グリンデルワルトへ到着すると雪は一層深く、冬景色です。
10年前にアイガー北壁行の時に泊まった「ホテル”べルビュー”」に今夜の宿を求めました。この10年に「ホテル”ベルビュー”」の傷みは激しく、床が「鴬張り」とでも言うのでしょうかキイキイ鳴ります。時間的にも早いので登山電車でユングフラウヨッホにでも行きたいところなのですが、あいにく天候が芳しくなくアイガーは厚い雲に覆われています。ユングフラウヨッホは明日に行くことにして今日はグリンデルワルトでのんびりすることにしましょう。近くのマーケットや土産物屋に行ったりしてブラブラしていました。19:00になって一階のレストランで夕食です。この「ホテル”ベルビュー”」は大正10年に槇有恒氏がアイガー東山稜(ミッテルレギ山稜)を初登攀したときに常宿としていた「日本の登山愛好家」にとっては忘れようにも忘れられない由緒あるホテルで、レストランの壁面にも槇氏の写真が飾ってあります。うれしくなりますね。槇氏の写真の近くのテーブルに着いて、夕食です。トマト風味のチーズフォンディユを注文しました。
小雪の舞う街灯に照らされた通りには、待降節を間近にひかえ、すでにクリスマスデコレーションがしゃれたホテルの窓を飾っています。街灯の灯りにしんしんと降る雪を眺めていると、まるで「雪の降る街」を思わせるような風情です。

11月25日
“クリンデルワルト〜ベルン〜ローザンヌ〜ジュネーブ〜シャモニ”

4時に目が覚めてしまいました。街は真っ暗です。散歩に出かけました。10年前にきたときには頭の中はアイガー北壁で一杯で登攀に関係ないところには行っていないのです。「ホテル”ベルビュー”」の前の通りを雪を踏みしめながら登っていきます。すでに朝食の準備を始めている家でしょうか煙突から白い煙が上がっています。プロテスタントの教会の前まで行ってみました。よく旅行会社のツアーパンフレットの写真でヴェッターホルンを背景にしている教会です。真っ暗で雪が降っていますから今は何も見えません。
さて、そろそろ帰国のことが心配になり始めました。そうですリコンファームをまだしていないのです。最近の航空会社はリコンファーム不要になっていますが、スカンジナビア航空がどうだったかを確認せずに来てしまったのです。コペンハーゲンのスカンジナビア航空事務所に何度も国際電話をかけるのですが通じません。東京のスカンジナビア航空事務所に電話しても休日のため通話できません。もしリコンファームが必要だったら帰国できないかもしれないというピンチです。とんでもない地雷を抱えてしまったわけです。でもまぁアイガー北壁で墜落死するわけでもなし、何とかなるでしょう。
ユングフラウヨッホへは一日待ったのですが、一向に天候は好転しません。仕方がありません。ひどい天気ですが行ってみることにしましょう。10:19発のクライネシャイデック行きの登山電車に乗り込みました。アプト式の登山電車はグングン高度を稼いでいきます。一瞬でしたがアイガーにかかっていた雲が上がり第三雪田あたりまで望めました。思い出したくないのですが、思い出しますね1991年のアイガー北壁ソロ敗退のことを・・・。
アイガーバンド駅でアイガー北壁をのぞく事が出来ました。トニークルツの悲劇を思い出してしまいます。ツーリストにとってはアイガーはただの崖に過ぎませんが、登攀史を知る私にとってはただの崖では済まされません。吹き上げる雪の渦に息を呑むほどです。
ユングフラウヨッホは近代的な設備の整った、そうですね有楽町の「国際フォーラム」のような感じです。「国際フォーラム」は、ちょっと誇張しすぎですが、すごいでしょこんな高山にこれほどまでの設備の整った建築物があるなんて。外は真っ白で何も見えません。一度展望台に出たのですが、お袋のショールがすんでのところで飛ばされそうになり早々に室内に逃げ込みました。氷河をくりぬいた氷の宮殿なる名所を見て廻り、セルフサービスのレストランで昼食をとりました。中国人と韓国人が団体できていました。早々に昼食を切り上げ、駅に行ってみると3分の差で登山電車が出発したあとでした。仕方がないので、ロビーでボーっと雪の渦を眺めながら次の電車を待ちます。ここで今回の旅行で初めて日本人に会いました。初老のご夫婦です。お袋は初めて出会う日本人に喜んで「なんぞ話かけたい」というようなそぶりです。
14:00の列車に乗ることが出来ました。下りは上りよりもスピードが遅くグリンデルワルトに戻ったのは15:30でした。
さてスカンジナビア航空に電話でもしてみるか・・・。
今回は一発でつながりました。
「リコンファームは不要です」
ほっとしましたね。
16:00グリンデルワルトを後にしました。今日は何が何でもシャモニまで戻るぞ!と気合を入れて出発です。11月25日はルイラシュナルの命日なんです。出来ることなら明るいうちにシャモニの墓地に墓参りに行きたかったのですが、たぶん今日は真っ暗になってからのシャモニ到着になりそうです。
インターラーケンから高速道路に入り後はただひたすら時速130kmで一心不乱になって走り続けました。ローザンヌ、ジュネーブを経由してあっと驚く19:30にシャモニへ入ることが出来ました。バロ通りの旧シャムスポーツの隣にある「ホテル”クロ・ブランシュ”」に一夜の宿をとることにしました。初めて利用するホテルですが概観は中々Goodです。二階の二号室に通されました。この部屋のキーが曲者でした。外出して戻ってくるとカギが開かないのです。「ドアが開かないよ」とホテルの女将に言うと彼女は問題なくカギを開けることが出来るのです。部屋の内部から外に出るときも同じです。私が開けようとすると開かないんです。結局カギを開ける秘密を習得することができ事なきを得たのですが、きっと傷みが激しいのでしょう。ただし部屋は今回の旅行の中で最も広くゆったりとしたものでした。

11月26日
“シャモニ”

またまた4時に目が覚めました。今日はロープウェイでミディへあがりエルブロンネルからアントレーブを往復しようと7:00に朝食をとり、いよいよ出発。フロントの女将に「今日はミディに行こうと思っているんだ」というと「あら残念ね、ロープウェイは運休中よ」
え?
ミディ・フレンド側稜で今年7月25日に神に召された愛すべき鈴木謙造君のために神に祈ろうと思っていたのにがっくりです。今回の旅はシーズンオフということもあり、ある意味すいていて良かったともいえるのですが、反面休業中のホテルや施設も多く、当ての外れることたびたびでした。その極めつけがロープウェイの休業です。
さて、私にとってのシャモニの楽しみの一つに登山用品の買いまくり!というのがあります。9:00にスネルスポーツへいってみると休業日でした。これまたがっかり。明日は帰国しなければならず、ジュネーブ発12時の飛行機に搭乗しなければならないのです。お楽しみの登山用品は何一つ手に入れることが出来ないのでしょうか?ちょっと冒険ですが、明日の朝9:00のスネルスポーツ開店と同時に店に入り、15分で買い物を済ますことができれば、ジュネーブの飛行機に間に合うかもしれません。そうすることに決めました。
仕方がないので、今日一日はシャモニの街の散歩で暇つぶすことにしました。一旦部屋へ戻りゆっくり休んでから車でうろうろしました。ひょっとしてルージュ方面へのロープウェイは運行中ではないかと淡い期待を抱いて行ってみましたが、やはりだめでした。レストランロビンソンへ行ったり、プラの小聖堂へ行ったり聖ミシェル教会のステンドグラスを見に行ったりのんびりと過ごしました。プラの小聖堂からはドリュを望むことができました。この構図はよく絵葉書やパンフレットのモチーフになり、おなじみのものです。
一旦ホテルへ戻って隣のマーケットでハムとワインを買って部屋で飲みました。ワインは一本100円で、びっくり!
午後からテレイとラシュナルの墓参りに行ってみました。昨日はラシュナルの命日でしたが、お墓には誰も訪れた形跡はなく、ちょっぴりさみしい思いがしました。ラシュナルがバレーブランシュでクレバスに落ちてなくなったのは1955年11月25日ですから46年前のことです。ラシュナルの奥さんがご健在であれば・・・とも思います。墓地の塀にジャン・マルク・ボアヴァンのプレートがありました。ボアヴァンも気の毒な最後でした。ヴェネズエラのエンジェルフォールでのベースジャンプ中に亡くなったのです。あのパラシュートをつけて崖を飛び降りるというスポーツです。マスコミの見ている前でパラシュートが引っかかり墜落。みなが駆けつけた時にはまだ、息があったそうです。
14:00になってツーリストオフィスへ行き、予定通り明日ジュネーブを出発できそうだと女房へ電話を入れました。
雅子さまのご出産はまだか?と聞きましたがまだだそうです。
日暮れまでシャモニの街をお袋と歩き回りました。
今日は今回のヨーロッパ旅行最後の夕食なのでちょっと素敵なレストランで食事をすることにしました。「ホテル”クロ・ブランシュ”」にはレストランが併設されています。もちろんどんなホテルにもレストランは併設されているのですが、ここはシャモニの街の中でひときわ目立つ存在なのです。シャモニ国鉄駅から駅前通りとも言うべき「ミッシェル・クロ通り」を進んで突き当たりにある「かがりび」を煌々と燃やしているレストランです。オイルフォンディユを頼みました。先日グリンデルワルトでチーズフォンデュのしつこさにヘキヘキとしていたお袋でしたが、オイルフォンデュなら大丈夫。あっさりしていてきれいに平らげてくれました。

11月27日
“シャモニ〜ジュネーブ〜コペンハーゲン”

今日はいよいよ帰国の日です。
8時30分にチェックアウトし、車でスネルスポーツへ行きました。店の前で開店を待ちます。8時50分頃神田さんがやってきていっしょに開店を待ちます。神田さんは自分で店のカギを持っているのに8時59分になるまでドアを開けてくれません。神田さんには事情を話してあるので、開店と同時に二人で地下一階の登山用品売り場に行き「70lリットルのザック一つ!何でもいいから早く!それからシモンのヘルメット二つ。以上」ってな具合で9時15分に買い物が完了しました。
さぁてジュネーブに向かって出発です。飛行機の出発時間は11時55分ですから10時半にはジュネーブに到着しておきたいところです。高速道路を突っ走ります。高速道路の分岐点を一度でも間違えたらアウトです。神経を集中して道路標識を目で追いながら140kmの高速走行は結構緊張します。ジュネーブ空港手前の国境免税手続所に10時過ぎに到着しました。走って免税手続所へ行くと今までほとんど出くわしたこともない日本人の男の子が三人も並んで、のんびりやっています。こっちは時間がないのであせってきます。手続きが完了して書類をポストに投函し、走って車に戻りました。時計を見ると10時20分、ぎりぎりの時間です。
車をジュネーブ空港の構内に滑り込ませます。レンタカーの返却口を示す標識があったのでそれに沿ってカーブを下っていくと地下駐車場へと導かれました。ゲートがありました。ところがゲートが開きません。VISAカードを差し込んでもだめ!進入路を間違えたのかと思い、もう一度空港内を一巡しました。しかしながらまたもや同じ所に導かれてしまうのです。仕方がないのでボタンを押して相手が出るのを待ちました。相手が出たその瞬間、マイクに向かって大声で「Open the Gate!」と怒鳴りました。そのとたんゲートが開き地下駐車場へ入ることが出来ました。ほんとうにやれやれといった感じです。
ハーツにレンタカーを返却しなければなりません。地下駐車場内にはハーツレンタカーの従業員が見えます。車を出発したときと同じ場所に止め、ハーツレンタカーの従業員を探します。ところがさっきまでいたのに見当たらないのです。10時30分を過ぎていました。
地下駐車場内にハーツレンタカー従業員詰め所があって、そこにも誰もいません。詰め所の張り紙を呼んでみると「不在時は窓口へ」と書いてあります。車のチェックなどしなくていいんでしょうか?といぶかりますがまぁいいでしょう。こっちは急いでいるんですから。車に戻り大急ぎでトランクから荷物を引っ張り出し、パッキングをしなおします。一階のハーツの窓口に行くとあっさり返却完了。
大急ぎでスカンジナビア航空カウンターまで行き、搭乗手続きが完了したとき本当にほっとしました。10時40分を回っていました。
ジュネーブ空港では久しぶりに数十人の日本人を見ることが出来ました。搭乗直前に日本へ電話をしてみるともう女房は寝ていて、受験勉強中の長女が電話に出ました。お土産を楽しみにしていることでしょう。
明日の朝には懐かしい我が家です。


どうなることやらと出発した今回の旅行。海外旅行は初めてのお袋でしたが、心配した食事と疲れもさほどでもなく、「また行きたい」と意気軒昂です。
レンタカーを利用しての気ままな旅は、ハプニングも多いのですが、これが楽しいと感じることのできる人には応えられないものとなるでしょう。そうですハプニングといったってお金と多少の英語ができれば、なんとかなるものです。昔ニューヨークで財布をすられたことがありますが、そのときはがっかりしましたが、いい思い出です。クライミングと違ってハプニングで死ぬわけではないのですから。