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山・仲間・思い出

佐倉高校山岳部OB会
鹿山会登攀倶楽部創立の頃

千葉県立佐倉高等学校へ入学し岩崎良信・砂田栄作・Y・S・Tそして私の6名の1年生が山岳部へ入ったのは昭和46年(1971年)春であった。
なぜ山岳部に入ったのか? 
砂田と岩崎は山好きの姉様の影響だったと聞く。
YとSはボーイスカウトからの延長だったようだ。Tは動機が不明。
私は中学2年の国語の教科書に載っていた槙有恒のアイガー東山稜を当時千葉山岳会に所属していた担任の山田先生に習い、その影響だったような気がする。
はじめて山岳部の練習に出た日のことは今でも忘れない。砂田のあとについてグランドに出て田中さん、大木さん、島さん、山田さんという中学生から見ればもうオッサンとも思える先輩達と山岳部の生活が始まった。
同期には、背は低いが不敵な面構えで一目おいていた岩崎。
ボーイスカウトあがりでお坊っちゃん風のY・S。それとT。
そして小学校以来の幼馴染みで、おとなしいが思慮深く体力は馬なみの砂田。
2年生のプロフィールは、
現在では想像もできないが、ヒステリックですべてに山が最優先、しかも佐倉高校の山岳部に入部したのはグランドジョラス北壁を登るための通過点、としか考えていなかった山の求道者、大木友康さん。
意地の悪い練習で1年生をいじめぬき、いつも不平を言い続けていた不幸なYさん。
当時、やっと出まわり始めた裏出し皮のノルディカをはいていた文学青年、Sさん。
話し好きでいつも我々1年生の相談相手になってくれた風間さん。
そして唯一1年生の立場になって、いろいろ面倒をみてくれた生徒会長のやさしい佐久間さん。
最上級生の3年生には紳士的で、のんきで、いかにもたよれる兄貴という田中さん。
ニヒルで、ちょっと残酷なところのある、林さん。
人格円満でいつもニコニコの横瀬さん。
顧問の先生には、あの大木さんですら絶対服従で、先生というよりも山の大先輩として尊敬していたウラカベこと浦壁先生。
通称ノスケと呼ばれ、どちらかといえば山田さんタイプの地学担当の鈴木先生。
私の担任でもあって、馬ヅラで登山を趣味としていた、やさしく理解のあった長友先生。
そして顧問ではなかったが、山岳部の相談役ともいうべき鹿山会会員(すなわち、佐倉高校卒業生)で、いざという時の後見人であるオヤジこと宍戸先生。
今、思い出しても頬がゆるんでくるようなメンツであった。
初夏を迎え、夕暮れ時の練習で汗まみれになった体に薫風が爽やかに吹きぬけるようになった頃、私にとって第一回目の山行が近づいてきた。
装備を買い揃えなければならない。多大なる出費を強いられる母には申し訳なく思ったが、田中さんに薦められて秋葉原のニッピンへ買いに行った。
6000円の黒の表皮の登山靴、ワサビ色のビニロンヤッケ、ナイロンポンチョ、72cmのキスリング、黒の山シャツと黒の純毛サージのニッカボッカ、ポリタン、白いニッカホースと赤いソックス、そしてプロセブンシュラフ。
買って帰った日、うれしくて机の上に山靴を置き、シュラフに入ってよろこんでいたら知らぬまにシュラフに入ったまま眠りこけ、気がついたら朝だった。
そしてやってきた夏山予備山行の谷川連峰縦走。
私の数々の山行の中でもベストテンに入る山行。本当にバテた。山がこんなに苦しいものだとは知らなかった。蓬峠へ着くまでの疲労は、10年たった今でも思い出せる。今でこそ50Kgのザックで冬の沢渡から上高地へと、しかたなしに歩く私達だが、当時まだ子供とも言える15才の少年が30Kgのキスリングで雨の中フラフラになって谷川連峰を縦走したということは今思えば驚きである。
当時の山仲間は口を揃えて言う。
「あの時の谷川はバテた」と。
ヒステリックにどなる大木さんのあとについて雨の中ドロまみれの登山道をポンチョをひきずりながら、はいずりまわる山。
正直に告白すれば山が好きなどとは、みじんも思わなかった。
日常のトレーニングも厳しかった。毎日10Kmのランニングと200回の腹筋、それが終って山岳部の屋上へ帰ってくると通称『階段』(砂を詰めたキスリングを背負って5階の山岳部部室まで往復すること)、テント張りのタイム競争、コンロ着火のタイム競争、さらに土曜日にはスペシャルと称して30Kmのランニング等々、おそらく高校のどのクラブよりもハードなトレーニングであったろう。おかげで1500mのラップタイム、入学時6分10秒。2年時では4分台で皆んな走っていた。
当然、同期の仲間は次々に脱落していった。練習に出てこなくなった。
大木さんは当時ロードワークの途中の急坂で全員にスパートをかけさせ、こう言ったものだった。
「グランドジョラスに登る為だ!」
今思えば噴飯物であるがあの時はマジメに受けとめていたのだ。
狂人・大木さん。山に行けばさらに超狂人となる。何度登山靴で蹴られたことだろう。このようにして屠殺場へ向うブタのような気持で山に行っていた私を決定的に変える山行が2年生の7月に待っていた。
夏山合宿−−−裏銀座から槍・穂高連峰縦走。
あれ程のハードトレーニングをこなしてきたのにバテたのだ。
当時の佐倉高校山岳部では年間の最大目標を夏山合宿においていた。毎月の山行もすべては夏山合宿の為であり日々のトレーニングもまたしかりであった。
だから校内で天幕設営の訓練を行なう、すると先輩達は、「そんなもんでは夏山合宿には通用しない。」
山でバテる。「夏山合宿はこんなものではすまない。」
なにからなにまで日々夏山合宿の為であり、だれもがそう信じ込んでいた。
山岳部には掟があり夏山合宿を無事終了して初めて山男として認められるというものだった。夏山合宿を終了していない者は当然、個人山行は禁止であった。
事実、当時の夏山合宿はすさまじく2日行程を1日で歩いた、夜8時まで連続15時間歩いた、一日中水を一滴も飲めなかった等々、山の極限状態を充分に味あわせてくれる内容を持っていた。
一昨年の合宿では7Kgの体重減少をみたと林さんは言っていた。
その晴れの舞台、夏山合宿第1日目のブナ立て尾根、雨の中で両足の腿とふくらはぎのすべてが痙攣し、四つん這いになって登った烏帽子小屋。
今でもはっきりと思い出せる。ウラカベ先生がバテまくる私に言った言葉、「賀来でもこんなものか。」−−−−む・惨い!
結局30Kgのキスリングを誰の助けもかりずに文字どうりドロだらけになって背負いとおしたのだ。
初めての経験だった。
猛烈なトレーニングを積み万全の態勢で臨んだ夏山合宿、そしてそれに充分こたえてくれたブナ立て尾根。
なにごとかをなし得、すべてを出し切った時に知る放心状態にも似た充実感と達成感。生まれて初めての苦しみとそれを自分の力だけで乗り切った時の喜び。
大きな収穫だった。
夏山合宿が終ってもその強烈な印象は、どうしても頭からはなれなかった。
あの充実感をもう一度味わいたい。あんな山行をまたしてみたい。そう思って山行を重ねに重ねた。その年の夏休みの入山日数は20日を越えた。
しかしどうしてもあの夏山合宿には、かなわなかった。イベント"夏山合宿"という目的に向う緊張感がないのだった。  それでは緊張感のある山行はないか?
色々やってみた。沢登りにも行ってみた。丹沢の水無川本谷では死にぞこなったりもした。怖かった。
しかし違う。夏山合宿とは何かが違っていた。
そんな中で、エピソードがある。今思い出すと笑い出してしまうようなとっておきのやつが。昭和48年の正月、砂田と冬山登山を八ヶ岳で計画したことがあった。それで各人、冬休み前に学割の申請を高校に出した。私は目的欄に「旅行の為」と記入した。ところが砂田は何と「冬山登山の為」と書いたのだ。高校生にとって冬山登山は御法度。すぐに職員室に呼ばれた。誰に呼ばれたかって?−−−−−担任の先生、そう続和夫先生なのだ。例の能面のような表情で静かにしゃべり始め、いきなり机をバンと叩いて「絶対に許さん!」と怒鳴った。
今思うと本当に申し訳ないしだいである。高校の教師だって仕事で私に冬山登山の中止を勧告しているのだ。それなのに当時の私はまったく山に取りつかれていた。担任の教師の言葉に心を動かされるような状態ではなかった。平然としている私に続先生も業をにやして「登るなら退学届けを出してから登れ。」と言ってプィとあっちをむいてしまった。
職員室を出ると岩崎が心配そうにかけよってきた。すぐに山岳部の部室に戻り砂田に言った。「あそこまで言われれば何がなんでも登る。」
本当に困った生徒だったのである。
学校から家に帰ってみると母が心配そうに玄関に立っていた。続先生は家にまで電話をかけ「教師生活始まって以来の問題児である」とこぼしたのだそうである。
砂田の家にも電話がかかったそうである。砂田はとても行けぬとあきらめてしまった。「こうなったら単独しかない。」
冗談のように思えるかもしれないがあの頃は「神聖かつ崇高なる山に対して学校生活なる低俗な世界が影響を及ぼすなど、あってはならない」と考えていたのだ。
結局この山行、出発前日になって小学校時代からの友人である花島のバイク事故死によって、やむなく中止となったのであるが、これまた懐かしい思い出である。
ところが、このようにあの夏山合宿の再来を願い急激に先鋭化して行く私と他の部員達が同じ山行でうまく調和して行くはずはなかった。
練習は、さらにエスカレートし大木さん、鈴木さん、私の三人だけで毎日30Kmを走った。こんなひどい練習に並の人間が、ついて来られるわけはない。他の部員達が練習に出て来なくなるのも当然である。そんな部員を当時よくなじったものである。山以外のことに時間や金を使うことに対してがまんが出来なかったのである。
昭和48年4月、私達も3年生になった。このような方針はさらに徹底化された。
コンビナートでのアルバイトで金を稼ぎ山につぎ込んだ。
5月のゴールデンウィークには砂田と2年の佐伯をつれて、授業を無断欠席して南アルプス北岳に行った。
ゴールデンウィーク直後の登山大会などアホらしくて参加する気など起こらなかった。今でもそうだろうが、「あのボーイスカウトに毛がはえたようなハイキングに正統アルピニズムを継承する山岳部が出場するなどふざけるな!」と意気込んでいた。
登山大会に関しては現在でも苦々しく思っている。登山大会が現在の山岳部の部員達を弱体化させている一番の原因であろう。
何故か。今の山岳部員達は大会優勝を第一の目標にして練習をしている。練習とは本来、山に登る、より楽しい山行をする為ではなっかたのか。山が好きで練習しているわけではないので当然山の本も読まない。佐倉高校山岳部の部員だというのに山の知識はほとんど皆無に近い。高校を卒業すると、登山大会はない。従って山もやめる。これが現在の部員達の平均的な姿ではないだろうか。
ちょっとくだらぬ寄り道をしたようだ。さて話を15年前に戻そう。
3年の夏が過ぎる頃にはもう山岳部は空中分解していた。厳しさを求めてがむしゃらな私と部員達の間にはさまれて苦しむ岩崎。
今だからこそ笑い話であるが当時なまぬるいと何度岩崎を罵倒したことか。
そして秋が来た。10月中旬だった。
半年ぶりで山岳部の山行を八ヶ岳で行なった。
山岳部分裂を象徴するかのような計画だった。本隊7名は美濃戸から行者小屋へ。別動隊として私と砂田の2名で立場川本谷から行者小屋へ集結するというものだった。
ところが岩崎はこの山行には参加せず、個人山行を計画していた。同期の小出と二人で場所も同じ八ヶ岳で黒百合平から硫黄岳、横岳を縦走して山岳部が集結予定の行者小屋へという計画であった。
私も一言「岩崎よ、ひとつ一緒に行こうや」と言えばよかったのに「ふん!やりたきゃやれ」と意地を張っていたのだ。
山行初日、本隊と山麓で別れた砂田と私は立場川へと向った。
雨あがりとは言え重たい雲がたれこめ肌寒い晩秋の日だった。
林道を間違えて広河原沢へ迷い込んだりして立場川の核心部『暗峡』にたどりついたのは、もう日没前だった。おまけに暗峡の高巻きルートが発見できず『青ナギ』に突き当り上へ上へと追い上げられてしまった。原生林の中を苦労して登り、真暗になって阿弥陀岳南稜上へと出た。ヘッドランプを頼りに南稜の無名峰までたどりついたが、ここでビバーク。初めて経験したビバークだった。
その頃、行者小屋の本隊は、岩崎もまじえてそれこそ大騒ぎだった。待てど、暮せど私達がやって来ない。陽も暮れ、刻々と時は過ぎる。岩崎は、砂田と私が本当に遭難したのではないかと呆然となった、と言っていた。
翌日、阿弥陀岳のコル直下で捜索に登って来た岩崎、柳沢、斉藤、小出と再会した時はなんとも言えぬ気持で涙が出て来た。
「すまなかった」−−−山の仲間の有難さを骨身にしみて実感した。
行者小屋から美濃戸へと下山しながらの秋の林道は、何年かぶりの同期の仲間と一緒で愉しかった。
そんな私達もついに卒業を迎えた。
卒業して山岳部の同期はそれこそバラバラになった。岩崎は消息不明、砂田は全寮制の予備校へ、他の者も大学受験浪人となって山から遠ざかって行った。
私も浪人の浮き目をみたが山への渇望はいっこうに衰えをみせず山へとかよっていた。おかげで同期の中で私だけ二浪を味わうはめとなってしまった。
昭和51年、私も皆に遅れること1年、大学生となった。
ある時、ひょんなことから岩崎と再会した。渋谷代々木八幡の新聞配達店で住み込み従業員として働きながら明治に行っていた。
「もう完全に山から足を洗って"堅気"になった」と言って山に誘っても乗って来なかった。私はよく新聞店の二階に遊びに行っていた。その頃の岩崎は山のかわりに夜の新宿や渋谷で明け方まで遊び歩くのを唯一の楽しみとしていた。それ以外は部屋でゴロ寝だった。
私もそのころ池袋に下宿し学費を稼ぐ為、夜間は工事現場のボーリングマシン職人として働いていた。山に登ることを止める父や母を無視して家を飛び出し経済的な援助を一切打ち切られていたのだった。
ある日、岩崎を強引に山へと誘った。
昭和51年4月29日だった。丹沢・新茅ノ沢。
この山行がきっかけとなった。以後二人は堰を切ったように山に行きだした。
当時私は国電浜松町駅構内の工事現場だったので作業が深夜から明け方までだった。日曜日の未明、現場から急いで下宿に帰りザックをかついで新宿駅南口へ向う。
岩崎は日曜日の朝刊を配り終わって駆けつける。
二人で毎週のごとく丹沢や奥多摩へ行った。
山行のすべてが沢登りで、どこどこの大滝を直登しようとザイルを持って行くのだった。日曜日は夕刊がないので岩崎もおそくまで山にいられた。丹沢や奥多摩の稜線で「いつまでも都会の雑踏に帰りたくないなぁ」と二人でタバコをくゆらせながら夕陽をよく眺めていたものだった。
そんなある日、私の下宿が要町三丁目だったせいもあって立教の山岳部へ入っていると噂に聞いていた大木さんを訪ねてみることにした。
大木友康---私にとってアルピニズムの論理的、精神的な支柱であり、私の登山感に決定的な影響を及ぼした尊敬すべき人。それだけに畏敬の念から生ずる印象とそれに伴う厳しい登山理念に対する恐れ。膨大な山岳書読破に裏付けられたアルピニズムに対する深い造詣と理想。私が唯一、師としてあがめ得る人。これまで山に打ち込んでいたのもひとえに大木さんに褒められたいとの気持ちがあったことは否定できない。そのような存在が大木友康さんであった。
それだけに冷酷で無情の山のヒトラー大木友康さんに会うのは少し怖かった。
ところが訪ねてみると大木さんは昨年の6月に北穂沢で滑落した他人を助けようとして事故に巻き込まれ頭骸骨陥没、股関節脱臼の重傷を負い1年間も入院し最近退院、自宅療養中とのことだった。
「大木はもうダメになってしまったんだよ」と言った部員の言葉にガク然。
宗吾霊堂前の大木さんの自宅を訪ねてみると松葉杖をつきながら出て来た大木さんの変わりはてた姿。そこには昔の面影はまったく失せていた。
医者からは「もう二度と2本足で歩くことは出来ないだろう」という宣告、そして長い闘病生活の間にお母さんを白血病で失ってまさに失意のドン底であった。
高校時代、鬼のようだった大木さんを知る私は、いいようもない寂しさがこみあげてきた。
「そろそろ大学に復学しなければ......。」
幸い私の下宿「野村荘」は立教から近かったので一緒に住むことにした。 
それから二人の共同生活が小さな二帖半の部屋で1年間続いた。岩崎はそんな部屋にほんとうによく来てくれた。3日に一度は夕刊を配り終ってから駆けつけて来るのだった。明け方、朝刊を配らねばならない時刻まで大木さんを囲んで山の話しに没頭するのだった。足が治ったらどこの山へ行きたい?との問いに「大島亮吉が登った三頭山に登りたい」と大木さんは答えた
その頃は工事職人としての腕もまだ良くなかったので私の日当は低かった。山行の費用と学費を払うと生活費は、いくらも残らなかった。仕事が少ない月は食費をきりつめて山行費用を捻出した。ヘルマンブールの「8000mの上と下」に共感を覚えたのもこの頃だった。
秋のある時など1本30円の大根を10本程買ってきて大根の煮つけを作り毎日、朝・昼・晩と大根だけを一週間食べた。食事の時間になり鍋の蓋をあけると今日も大根、二人で顔を見合せ大笑いしたものだった。
日曜になると大木さんは宗吾に帰り月曜の夕方やって来る。
月曜日の夕方、ぼんやりと下宿の窓から、そろそろ大木さんが来る時刻だがと路地を見ていると夕もやの中を大木さんがオレンジ色のレビュファザックを背負って松葉杖をつきながらゆっくり歩いて来る。
部屋にはハーモニカが一つあった。夕暮れ時、私が大学から帰ってきて部屋の下の路地から窓を見上げるとハーモニカの音色が小さく聴こえてくる。もう暗いのに電燈もつけずに一人で[子ギツネコンコン]の歌を吹いているのだ。大木さんがもう帰っているんだなと急ぎ足で部屋に駆け込んで電燈をつけると、大木さんは目に涙を一杯にためているのだった。
やがてその年も暮れ、昭和52年を迎えた。
いよいよ大木さんの再検査が行なわれた。股関節が完全に回復しているかを確認する為だった。この検査如何で大木さんの関節は二度と90度以上には上がらなくなるというものだった。ところが放射線による検査で完全に機能が回復していることが解った。
医者は「奇跡的だ」といったそうである。
そして6月ついに松葉杖をとり自分の二本足で立つことができた。すでに大木さんの闘病生活は2年にも及んでいた。
そして私も池袋の下宿を引きはらい自宅にもどった。岩崎も家の畑仕事を手伝うため3年間にも及ぶ新聞配達生活をやめ印西の自宅に帰っていた。
四街道の自宅に戻ると再び昔の仲間が集まりだした。山からすっかり足を洗った人間も多かったが、意外にも細々と山登りを続けている人間も少なくなかった。
砂田は早稲田のWV部に入部していたし、鈴木さんはあいかわらずマイペースで夏に冬にアルプスを駆けめぐっていた。佐久間さんは岩登り講習会などに出て夢を追っていた。山田さんは岩登りゲレンデなどにひっそりと通っていた。
昔の仲間達で再び山に登りだした。大木さんも足慣らしを始めた。そうだこの頃にあの越沢バットレスや八ヶ岳地獄谷権現沢右俣のルンゼ群を登ったんだっけ。
こうして皆で愉しく登っていた。
秋になった。母校佐倉高山岳部より文化祭の知らせがあった。
鍋山の山岳部はいわば私達の心のふる里でもあった。7人で懐かしく訪問した。もう高校時代に戻ったような騒ぎだった。なにせ高校を卒業して以来のことだった。
佐久間さんが「これだけ昔の仲間が集まったんだから、ひとつ正式にクラブでも創ったらどうだろう。」と切り出した。すでに皆そのつもりだったので話はすんなりとまとまった。
名称は色々出たが私の案で『鹿山会登攀クラブ』に決まった。
その場ですぐに創立山行の計画が練られた。来週の体育の日を挟んだ3連休に懐かしい八ヶ岳の大同心で行なおうということになった。
昭和52年10月のことであった。本当に愉しい山行だった。
昭和56年には初めての新人、中村勇・早野富夫を迎えた。昭和57年には千葉県山岳連盟に加盟した。
創立時にはロッククライミング・オンリーだったが、今では皆、愉しく沢歩きやスキーなど本当に幅の広い山行が出来得るようになるまで考え方が成長した。
結婚して子供のできた仲間もいる。歳をとって仕事の上でも責任ある立場に着きつつある仲間もいる。そうそう山にもいけなくなった仲間もいる。しかしそれでもいっこうに変らぬ仲間達である。
それは鹿山会登攀倶楽部が山岳会である前に佐倉高校山岳部の同窓会であるからだ。
鍋山の山岳部の部室を心のふる里とした私達の強烈な同族意識から成り立っているからに外ならない。
仲間があって山がある。私達のクラブはそういうクラブである。

さぁ金曜日の夜には大木さんに会いに行こう。そして心の充電をしよう。

そして春だったら、スキーをかついで一ノ倉岳に登ろう。芝倉沢を滑降しよう。

夏には黒部川のゴルジュに泳ぎに行こう。イワナを釣ろう。奥鐘山西壁のベースキャンプには温泉もあるぞ。

秋になった。あの乾いた岩肌がそろそろ懐かしくなって来ただろう。そうだ久しぶりに足尾のチャンピオン岩稜に登ってみよう。なんてったってあそこから望む日光の紅葉は素晴らしいんだ。

冬が来た。冬期登攀やスキーもいいけど加波山の一本杉峠の岩場で陽なたぼっこもいいもんだ。先週、大木さんが開いたルートを今度は君も登ってみよう。

さぁ早く行こう。月曜日からは又、街での生活が待っているのだから。