1988欧州アルプス

グランド・ジョラス北壁ウォーカー側稜

この記録は昔の山行記録の中から転載したものである。長年にわたりあこがれていたグランドジョラス北壁のウォーカー側稜であったため、感情移入の激しい文章となっている。
通常グランドジョラスの北壁はノンビバークあるいは1ビバークで登られるものであり、そういった意味では2ビバークを要したこのクライミングは良いスタイルとは言えないものである。しかしながら実動6日間という短期間で、初めての海外旅行、しかもアルプス初見。そのうえ高所順応する間もなく、現地到着の翌々日に登攀を開始したことを考えると、やむを得ない結果だったかなと振り返ってみて思う。
この山行の3年後にリフレッシュ休暇21日間を利用し、アイガー北壁にソロで取付き敗退しているのだが、このことについてはいまだに心の整理がつかない。それは30年後になるかも知れないが、冷静に自分を見つめることが出来るようになった時点で書き記してみたい。

1988年8月6日朝が明けた。憧れが現実になる日がやってきた

今日は全く素晴らしい天気だ。
砂田と成田へ向かう快速電車に乗っていても、これから欧州アルプスに行くことがピンと来ない。無理もない、なにせほんの1時間前まで、履いて行くお気に入りのズボンの胴回りが激しい減量でブカブカになり(83cm→74cm)、やむなく急遽イトーヨーカドーへ新しいズボンを買いに走り、女房に裾上げをしてもらうというようなドタバタを演じていたという始末。2才の娘・敦子は異様な雰囲気に興奮して、ザックの回りをキャーキャーいいながら走り回っていた。
それにしてもいよいよヨーロッパかと思うとさすがに5時前に目が覚めた。何日も前にすべての準備が終っていたのにもかかわらず、又もやザックの中身を引きずり出し、再点検せずにはいられなかった。大きな山行の時は、いつでも何か重大な忘れ物でもしているのではないかと気になるものだ。
JR成田駅で、空港へのバスに乗り込んで、荷物棚を利用して何回か1本指懸垂をして見たが、すんなりと出来て安堵した。
成田空港では、いちいちバスを降りて荷物のチェック。浮き浮きした気持ちで、南ウイングの大韓航空のカウンター前まで行った。いたるところにザックが置いてあり、アルプスに行く人の多いことを知らされた。私たちもひとまずザックを壁際におろし、岩崎を待つ。2時間程遅れて岩崎もやって来た。
ここで今回の航空券を旅行会社から貰う手筈になっているが、大韓航空カウンターの前で待つように説明書にあるので、唯ひたすら待つ。14時40分を過ぎてさすがに不安になり、旅行会社に電話すると
『ツアー窓口に行ったか』
と聞く。説明書にはツアー窓口に行くようには一切記載されておらず、これは旅行会社が不親切であった。すったもんだしながらも、やっとで航空券を手に入れ、すぐに荷物を預ける。20Kgを多少オーバーしているので、何かクレームがつくのではないかと不安だったが、
『登山目的なのにピッケルを持っていないのはなぜだ』
以外には、何も言われなかった。他の登山客は、殆どがピッケルをザックにくくり付けている。私たちはクライミングギアの殆どを、シャモニで現地調達予定だったので、ザイルすら持っていなかった。
ザックを預けて、目の前の階段を降りて行くと、いよいよ出国手続き。なぜかハラハラ、ドキドキ。出入国カードを事前に書いてあったので、パスポートを見せるだけでOK。あっという間に出発の準備が終ってしまって拍子抜け。
何か浮ついた気持ちになっていることを自分でも感じていた。足が地に着いていないのだ。それは岩ちゃんも砂田も同じらしい。声がうわずっている。

長距離夜間飛行

大韓航空機[エアバスA300]が出発したのは、定刻より若干遅れて15時50分。
機内では離陸後まもなく食事が出た。案じていたより豪華な食事だった。食事を摂りながら
『出発できただけで、今回の欧州アルプス行の目的の半分は、達成されたようなものだな』
と岩ちゃんと話した。
ソウルの金甫空港では、ボーイング747に乗り換えまで、2時間も待ったが、待合室の大きなウインドウから暮れ行く遙かな山の端をぼんやり見ていると、旅の始まりを胸にずっしりと感じて、満更でもなかった。ソウルの金甫空港は、今年のオリンピックに備えてか、超近代的な建物であった。オリンピックのテロに神経を使う大韓航空は、搭乗にも検査が厳重で、しばらく並ばねばならなかった。
韓国時間20時40分、ボーイング747は南回りの航路へ飛び立った。もう夜の8時を超えており、上空へ出ても、残照が西の空にかすかに赤く染まっているだけだった。
機内から下を見た。下は海なのか真っ暗闇で、とことどころに見える光の点は、船舶の灯だろうか。窮屈な座席で、足を少しでも納まりのいい位置にしようとあれこれ苦心したが、結局あきらめた。そのうち機内のライトも消え、長い長いバーレーンへの10時間が始まった。
バーレーンは深夜の到着となった。バーレーンで思い出すのは金賢姫。しかも私たちが乗っているのは大韓航空機。不安な気持ちで空港に降りると、むっとする程暑く、異国に来たなぁと心細くなる程だ。何となく薄暗い感じの空港ロビーには、アラブ人の兵隊らしき男が監視している。それでも初めて見る異国情緒に、恐る恐るビデオをレコーディングしようとしたら、禁止された。口から心臓が飛び出そうなくらい怯えてしまった。日本では考えもつかないような、お国の事情が何となく想像できる事件だった。
ボーイング747は、ここで腹一杯ジェット燃料を喰らい、再び漆黒の砂漠の夜へ飛び立った。砂漠には往年のオイルマネーに潤った時代に建てられたのか、街灯に照らされた美しい住宅街が望まれた。しかしそれも束の間、いくら目を凝らしても、つかみ所のない暗闇が芒洋と広がる、砂漠の夜が再び続くだけだった。
ジェッダを経由してボーイング747は闇の中を飛び続けていたが、眼下はおそらくアフリカ大陸の砂漠なのか。
しばらくして、ようやく遙かかなたに黎明を迎え、徐々に上空も明るさを増してきた。美しい夜明けが始まり、はたして地上は砂漠だったことが判明した。機が地中海に近付くにつれ、砂漠には薄い雲が地上スレスレにたなびき、聖書に広がる世界を思い浮べてしまった。地中海の上空に達した時には、太陽がきらきらと海面を照らしているのが、窓から眺められた。
機内で朝食にサウジアラビアのジュースや水が出て、日本から遠くはなれて来たことを実感しながら岩崎と談笑していると、いつの間にか窓の下には氷河の山々がぽつりぽつりと見え始めていた。
さぁ、チューリッヒは近いぞ。
機はぐんぐん高度を落していく。真下に中世ヨーロッパの面影を残す村々がミニチュアのように展開している。ヨーロッパの村々は教会を中心に発展したと聞く。シュバルツヴァルトの深い森に最初に斧を入れ、自給自足の生活を始めたのは修道士だったと聞く。どれが教会か指摘は出来ないが、想像すると胸が膨らむのを覚える。

8月7日9時30分、チューリッヒに到着

欧州の第1歩が始まった。飛行機で同乗した雨宮節さんと、話しながら入国審査所に向かった。入国審査はパスポートを見せるだけ、渡航目的なども一切聞かれない。あっけにとられる程簡単だった。
ツェルマット方面へ向う雨宮さん達と別れ、いよいよ3人だけの旅が始まった。手荷物を受け取ってから出口が解らず、右往左往してしまったりする所が、パックツアーなどでは経験できない楽しさでもある。空港内でさっそく1万円をスイスフランに両替しておいた。のっけから駅に行くのに苦労した。
さて、ジュネーブ行きの切符を買おうとするが、話しが通じない。ジュネーブをジュニーバと発音するとは、知らなかった。ジュニーバまで51スイスフラン(5000円)だった。
10時40分、地下のホームに見慣れない欧州の列車が入線してくると、いよいよ旅の始まりを実感する。列車は2等だが、日本のグリーンカーに匹敵するほど快適だ。座席も広いし、窓もパノラマカーのようだ。窓の外に広がる景色の一つ一つが珍しく、3人で時差も忘れて見入っていた。美しく広がる葡萄畑、赤い花を花壇にいっぱい咲かせている農家、のんびりと草をはむ牛。18年間も思い入れていただけに、夢のような景色に感ずる。

素敵な街ジュネーブ

ベルン、ローザンヌを過ぎ、レマン湖のほとりジュネーブ・コルナヴァン駅に到着したのは、予定通り13時58分。ここまではすこぶる順調だ。
駅前に出て、シャモニへのバス停を探しつつ、モンブラン通りをレマン湖へと向かった。英国教会の広場にあるバス・ターミナルで発車時刻を確認すると、事前に調べてあったとうり、朝8時30分と夕方17時35分のたった2本しかない。ガイドブックには、シャモニへの日帰り観光バスに便乗すれば良いような事を書いてあるが、日帰り観光バスも当然の事ながら朝の出発になっており、夕方の定期便に乗るしかないようだ。そんなことが確認できるまで、街の警官に聞いたり、チケット売り場のお嬢さんに聞いたり、散々苦労した。ジュネーブを17時35分に出発すると、シャモニ到着は20時を過ぎてしまう。ホテルの予約もしていないのに、そんなに遅くシャモニに着いて大丈夫なのだろうか不安なので、観光案内所でシャモニのホテル予約をここで出来ないかと交渉してみたが、ここはスイスでありフランス領内のホテル予約は無理と言われてしまった。「仕方がない、最悪の場合シャモニで野宿」と腹を据えた。
バスの出発まで3時間もあるので、ジュネーブの街をブラブラする。腹が減ったのでスタンドでスナックとハイネケンを飲む。そして日本へ電話を入れておいた。ダイヤル直通だった。街は祭りの最中のようで、パレードなども繰り出して大変な賑いだ。レマン湖の辺で巨大な噴水に見取れ、モンブラン広場の芝生で寝転んだりして、夕方になるのを待った。
さて、シャモニへ入るのにもっといい方法が、トーマスクック時刻表には載っている。それはコルナヴァン駅に到着後、すぐにタクシーでジュネーブにあるもう一つの駅:オー・ヴィーヴ駅へ行って、14時34分発のシャモニ行きの列車に乗り込む、というものだ。これだと17時11分にシャモニに到着する。しかし今となっては、後の祭り。観光バスに便乗するという計画を立てた我々が悪いのだ。
やっとでバスは出発した。乗客は我々以外には5〜6人しか乗っていない。一日に2本しかないバスなのに、たったこれだけの乗客とは意外な感じがする。バスはハイデッカータイプの大型観光バスなのにエアコンが装備されておらず、温室効果で暑苦しかった。
宗教革命のカルビンによって、世界中に名のとどろいた都市ジュネーブは、石作りの古風な建物が目に付く素敵な街だ。その街角をバスは左へ右へ何度も曲がり[Chamonix−Mont−Blanc ]と書かれた道標にしたがって、憧れのシャモニへ向かっていく。道標を一つ過ぎるたびに、シャモニに近付いていくかと思うと、胸が熱くなった。ジュネーブはフランスとの国境に近い街なので、ほどなくフランスとの国境に着いた。しかし、パスポートのチェックもなく、バス停に止まっただけだった。EC内の移動は、あまりうるさいことは言わないようだ。バスは、田舎道をビュンビュン飛ばし、中世の面影を残す田舎街:サランジュで運転手が30分も休憩。我々乗客もカフェテラスでハイネケンを飲んだ。カフェテラスからは、ドロミテ風の岩峰がガスを中腹にまとい、そそり立っているのが望まれた。快晴なら初めてモンブランが見えるはずだが、あいにく前方は雲がかかり、その姿は望めない。

CHAMONIX−MONT−BLANC

ここから狭い谷の中にバスが入っていくと、左手におそらく石灰岩と思われる大岩壁が見え始めた。衝立岩位はありそうな壁が、何キロもえんえんと続く。
そして不意に右にボゾン氷河が見え、広い道路を左折したかと思うと、家並みの中に入って行った。
ここがシャモニか?
ウィンドゥから見える建物は、写真で知っている国鉄シャモニ駅のようだ。胸が張り裂けそうだ。
バスは駅前で停車し、乗客は一斉に降車し始めた。
憧れのシャモニに着いたと思うだけで、バスの中で膝が震え出してしまうのを押えることは、出来なかった。バスのトランクから大きなザックを引きずり出し、ひとまず駅前に並べた。
もう20時近いのに、今日のホテルも予約していない。こんな異国で不安でたまらない。岩ちゃんにザックの見張りをしてもらうことにして、砂田と二人で大急ぎで観光協会へホテルの紹介を頼みに行った。
手元のブルーガイドブックスを頼りに、ツーリスト・オフィスを探した。やっとでサン・ミッシェル教会の近くにあるオフィスを見つけた。しかしもう20時10分、オフィスのドアは締まっていた。案内時間は19時30分までだった。がっかりだ。
今日の宿はどうしようと暗くなる。岩ちゃんの待つシャモニの駅へ戻る途中、フランス山岳会の前にある二ツ星ホテル『ポアント:イザベル』が偶然目に止まったので、かけあって見ることにした。
恐る恐る中に入り、フロントのにこやかな40歳位の女性に宿泊したい旨を伝えると、どうやら英語が通じ、1泊バス・トイレ付で朝夕食込み:3人665フランの部屋が予約できた。
大袈裟ではなく感激だった。
シャモニ駅で待つ仲間を連れてくるからといって、小躍りしながら大急ぎで駅まで戻った。岩ちゃんに事情を話し、さっそく我々のシャモニにおけるベースキャンプとなるホテル『ポアント:イザベル』へチェックイン。フロントで夕食は20時30分と教えてもらい、部屋へ向かった。
しかしよくよく考えて見ると、2食付で1泊一人邦貨4650円とは、少々安すぎる気がする。「安かろう悪かろうの部屋ではなかろうか?」と心配になってきた。暗い廊下をたどって、われらが部屋の前に立ち、期待と不安の気持ちでドアを開けて、中に入った。
夕闇のほの暗い部屋の突き当たりにベランダがあり、その大きな窓いっぱいに残照に紅く染まったモンブランが広がっていた。
電灯をつけた。
入り口左手には、等身大の鏡が3面あり、鏡の裏は洋ダンスになっている。右手は独立したトイレと大きなバスルーム。床は落ち着いた色調のふかふかの絨毯。寝室にはベッドが三つ。ベランダ側の窓に小さなテーブルと椅子が2脚。ベランダに出て見ると重厚な木の手摺。正面にはモンブラン、下はミッシェル・クロ通りを楽しそうに行き交う人達。
ほっと一息ついて、さっそく夕食の準備が出来ているとのことで、1階のレストラン:マーモットに降りる。夕食は勿論フルコースだ。初めての町シャモニで、初めての夕食。素晴らしかった。
食後は夜のシャモニをふらふらしたが、人々は深夜まで外でくつろいでいる。スネルスポーツの前まで行って、ショーウインドーを覗いて見たが、どれも日本より安かった。
ホテルへの帰り道、バルマとソーシュールの銅像の近辺まで行くと、川から冷気が漂って来て肌寒い位だ。氷河から流れ出る冷たい水が、多量に流れているせいだ。
時差ぼけを心配していたが、今日一日緊張の連続だったせいか、眠気は催さなかった。おかげで今晩はぐっすり眠ることが出来るだろう。

8月8日シャモニ第1日目は、5時前に目が覚めてしまった

二人はまだ寝ている。一人でベランダ際の椅子に腰掛け、外を見ていた。しばらくは暗かったが、目の前のモンブランがしだいにピンクに染まり、素敵な夜明けが始まった。シャモニの駅前通りも、まだ人けはなく寝静まっている。他の2人も、まもなく起き出した。
3人でベランダに出て、シャモニの朝を黙って見ていた。
今日は午前中に装備の調達と山岳保険の申込みを済ませ、午後から高度調整を目的にロープウェイでミディ針峰に登る予定だ。
朝食は8時からなので、しばらく時間がある。朝の散歩をかねて、テレイの墓参りに行くことにした。
ホテルから目の前の花壇に沿ってモンブラン広場へ出て、国立登山スキー学校の前で、モンタンベール登山電車駅方面へ右折し、登山鉄道の踏み切りを渡ると、正面にモンブランを背景に墓地が見えた。
シャモニの谷で生涯を閉じたアルピニスト達の墓がある。
シャモニを訪れる世界中のアルピニストの誰もが、ここでアルピニズムの偉大なる先達の冥福を祈るのが習わしだ。
ウィンパーの墓はすぐに見つかった。美しい花の咲き乱れるテレイの墓も。しばらくしてあざみの生い茂るラシュナルの墓も。
幼い少年の日からあこがれ続けたアルプスの山々。ラシュナルの墓に手を合わせながら、よくぞやって来たと、しみじみ思いに耽ってしまった。
アルプスへのあこがれはテレイの、そしてラシュナル、レビュファの書物によって始まった。レビュファの映画『星にのばされたザイル』を大木友康さんと何度観たことだろう。テレイの『無償の征服者』で、ラシュナルとグランド・ジョラス北壁を登ることを、モアヌ針峰山頂で決意するシーンに、何度感動を覚えたことだろう。エルゾークの『処女峰アンナプルナ』に、涙を流しながら読み耽った少年の日の思い出。
胸に十字を切りながら回想した。かなうことならば師とあがめる大木友康さんとここにたたずみたかった・・・。
『ポアント:イザベル』に帰り着くと、朝食だった。
熱いカフェオレとクロワッサン、フランスパン。クロワッサンは特においしかった。
朝食後、さっそくスネルスポーツに行く。日本人店員の神田さんが、いろいろと面倒を見てくれる。SOSモンターニュ山岳保険の手続きもしてくれた。現地購入予定のザイル・ピッケル・アイゼン・水筒・ピトン・ガスコンロ等を仕入れる。
みんな日本の半額以下だ。ただし縫製品は、日本と同じで、シュラフ関係は品数も少なく、カバーは良いものがなかった。しかしクライミング・ギアは素晴らしく、品数も多いいし、日本に輸入されていないものも多い。ザイルはダブル用は 8.2ミリが主流で、長さは全て90m以上。シングル用に限って45mや50mがある。
ザイルはジョアニーの 8.2ミリの90mを購入した。ジョアニーのザイルは現在、日本ではお目にかかることが出来ない。私たちが山登りを始めた頃は、盛んに輸入されていて、モンクレールの羽毛製品やミレーのザックと並んで、憧れの舶来品だったのだ。非常に懐かしくて、迷わず購入を決めたという次第。
ピッケルは、シャルレのパルサーのハンマーヘッドを、ブレードに交換して、使うことにした。
ピトンはアングル2本に厚手のロストアローを1本、これは神田さんに相談したら選んでくれた。
コンロはEPIガスコンロにしたが、これは日本製と違って物凄く火力が強い。コンロはシャモニで買って正解だった。

ミディ針峰へ

購入した装備をかついでホテルに戻ると、11時過ぎだ。
12時ごろやっと支度ができて、ロープウェイ駅まで行く。長蛇の列で切符を買うのに1時間半、更に乗るのに2時間。観光バスで到着したツアー客が途中で割り込んでくるからだ。
待ちくたびれて15時半、やっとでゴンドラに乗ることが出来た。50人位は乗れそうな大きなゴンドラだ。針葉樹林を突っ切ってぐんぐん登る。途中の支柱を通過する時に、ゴンドラの速さを改めて知った。
中間の乗り継ぎ駅プラン・ド・レギーユは、既に森林限界を越えた氷河末端に位置している。真正面にミディが聳え立ち、驚いた。仰ぎ見る障壁の高さは、この地点から標高差1500m。しかも山頂駅までの間、支柱が一本もない。太い鋼索がどんどん山頂めがけて伸びて行き、最後は目を凝らすと、蜘蛛の糸のように細く光って山頂駅に繋っている。母親が幼い子供にジャンパーとオーバーズボンを履かせている。山頂へ向かう準備をしているのだが、何とも微笑ましい。
ミディ山頂へのロープウェイは、あまりに雄大な景観の中を登るせいか、スピードを感じない。
『おぉ、ドリュだ!』
と言う砂田の声に左を見ると、ドリュからベルト針峰、そして間近にシャモニ針峰群。
シャモニ針峰群は、氷河末端に膨大なモレーンを押し出しており、荒れた感じだ。右には変わらずモンブランが聳えているが、角度が変わって、眼下にボゾン氷河が全貌を見せている。
プラン・ド・レギーユから1500mをたった5分で登り切ってしまった。ゴンドラを降りると、ひんやりとした冷たいトンネルを進んで、山頂展望台へエレベーターで登った。展望台のテラスに出ると、天気も穏やかで、グランド・ジョラスやモンブラン、グランカピュサンなど書物の上でのみ知っていた山々が、現実のものとして目の前に広がっている。

高度障害

高度障害は私と岩ちゃんは心配ないのだが、標高3000mでも高山病になってしまう砂田が、心配だ。国内で懸命に高度順化の努力をした砂田。頭痛と吐き気に耐えながら、たった一人で何度も富士山を往復したのだ。
毎日のトレーニングによって鍛えられた強靭な肉体は、裸になるとまるでボクサーのようだ。当然、登攀能力も素晴らしい。その砂田が高度障害でこんなに苦労するとは‥‥。高度障害よ!出ないでくれと祈るような気持ちだ。
1時間程展望を満喫したが、砂田は高度障害を訴えないので、ひょっとすると高度順応出来たのかもしれぬ。3人で喜びあう。
充分に展望を満喫したので、南壁の下まで行って見ることにした。トンネルから細い雪稜をたどって、氷河の上に降りた。雪壁を急下降して行ったが、外人クライマーが途中でザイルを出している。こんなところでと思ったら、真下には深いクレバスが口を開けており、ルートは細いスノーブリッジに取られていた。ここでザイルを出したりゼルバンをつけたりと、もたもたしている内に、もう17時になってしまった。最終のゴンドラは17時45分。今日は登攀が主目的ではないので乗り場に戻った。
とにかく砂田が高度障害を訴えないので本当に良かったと、みんなで喜びながら駅舎に戻ると、またもや長蛇の列。帰りも、2時間待たなければ乗れないという。これでは今日もホテルに帰り着くのは、20時を過ぎてしまいそうだ。本当にがっかり。仕方なく屋上のテラスで日光浴をすることにあいなった。時折ガスが太陽を覆い隠し、寒さに震えながら1時間も寝転がっていた。
あまりの寒さに耐えかねて、駅舎内に避難した。駅舎内は私たちと同様、ゴンドラを待つツーリストで、ごった返している。幼い子供連れの家族は気の毒だった。私たちは坐るところもないので、ザックに腰をおろし、膝を抱えて待っていた。
ドイツ人に順番が来たことを教えてもらい、改札口へ移動し、そこでゴンドラの到着するのを待ってると、砂田の様子がおかしい。気分が悪いと訴える。吐きそうだという。真っ青な顔だ。
4時間のタイムラグで、高度障害が現われ始めたようだ。いまにも吐きそうらしい。岩ちゃんにビニール袋を探してもらったが、ない。砂田が自分で持っていた。いつ吐いてもおかしくない様子で、辛そうだ。
「早くゴンドラよ来てくれ」と3人で祈る様な気持ちだった。
何とか吐かずにゴンドラに乗車でき、プラン・ド・レギーユまで高度を下げることが出来た。すると少し気分が楽になったようで、顔に赤味もさしてきた。シャモニに到着した時には、だいぶ良くなってきた様子だった。
砂田は本当に気の毒だ。富士の山頂付近で高度順応が出来なかったので、何度も富士山に足をはこんだのに。本来であれば、ゆっくり高度順応をモンブランあたりで行なうべきなのに、私たちにはその時間的余裕がない。
イザベルで明日からの打ち合わせを行なった。明日から私たちがグランド・ジョラスに行っている間、もう一度砂田はミディに登り、体調がよければモンブラン・ドゥ・タキュル4248mに登って高度順化し、シャモニへ一旦下降。翌10日、再びロープウェイでバレー・ブランシュを越えて、3400mのトリノ小屋で一泊し、イタリアへ下山。そして私たちがジョラスから帰って来るのを待って、3人でドリュを登ることになった。

8月9日今日も快晴だ。グランド・ジョラスへ

いつものおいしいクロワッサンで朝食を済ませ、私と岩ちゃんはザックを背負い、食料の調達に街に出た。スネルの近くにあった肉屋でハムを1Kg仕入れ、9時にスネルスポーツで入山届けを出した。
これからウォーカーかと思うと緊張するが、天候は最高。
国鉄駅前からプラ方面にかかる陸橋を渡ると、モンタンベール登山電車の駅だ。ミディロープウェイ駅程の長蛇の列はないが、それでもごったがえしていた。ツーリストは往復切符を買うのに、私たちだけが片道切符だ。
モンタンベール行きの赤い登山電車に乗り込む。車両はアプト式で、典型的な登山電車だ。急坂をぐんぐん登り続けて行く。小さなトンネルをくぐる時の肌寒さに、黒部峡谷鉄道を思い出してしまう。シャモニの街がもう遙か下になってしまった。小さなカーブを次々曲がり、電車が減速したなと思ったら、正面にいきなりドリュだ。列車は更に減速してモンタンベール駅に到着。
ホームに入る直前、メール・ド・グラスの突き当たりにグランド・ジョラス北壁が見え、思わず
『グランド・ジョラス!』
と大声を上げてしまった。
モンタンベール駅へ降り立ったわけだが、夢のような気がして、膝ががくがくする。メール・ド・グラスを挟んで対岸には、ご存知『ドリュ』の鋭い円錐が、天に高く聳えたっている。
古典派アルピニストの末裔である私たちにとって、欧州アルプスで最も心挽かれる対象は『グランド・ジョラス北壁』『アイガー北壁』と『ドリュ西壁』そして『理想の山:マッターホルン』のヘルンリ稜からの登頂だ。
その中でも、岩登りの対象として最も優れているのが、目の前に聳え立つ、この『ドリュ』である。
眼下に広がるメール・ド・グラスは『氷の海』という意味の氷河。横ジワを何本も刻みながら、上流へ続いている。
駅のバルコニーは、観光客でごったがえしており、記念写真を撮って、すぐに歩き始めた。しばらくは、ツーリスト達に混じって、遊歩道を足早に歩いて行った。遊歩道は、お花畑の中をグラン・シャルモの山腹へ向かって伸びている。まもなく[レショ氷河方面]の道標で、ツーリスト達とわかれ、階段や鉄梯子で眼下のメール・ド・グラスへ降り立った。
氷河上は一面に小さな石や砂が乗っており、ビブラムでも全く不安なく歩くことができる。おまけにヒドンクレバスもないので、安心だ。決まったルートはないので、適当にジョラス方面へ歩いて行く。
このメール・ド・グラスをたどって、グランド・ジョラスの展望台としてつとに名高いクーベルクル小屋までは、ハイキングコースになっており、幼い子供づれのパーティーが歩いている。自分もいずれ我が子をつれて歩いて見たいな、と娘のことなどを思い出した。
氷河上には時折大きな川が流れており、これの横断に戸惑うこともあった。

小さな小屋

3時間近く歩いてクーベルクル小屋を過ぎて、正面に小さな銀色に光るレショ小屋を見ることができた。
レショ小屋は断崖の小さなテラスにちょこんと乗っている。高差100mはあろうかと言う雪渓を直登し、お花畑を横切って小屋に着いた。小屋はジュラルミン製で、岩壁の小さなテラスを削って、辛うじて建っている。
小屋のテラスに向かって
『ボンジュール!』
と声をかけると、可愛らしい3歳位の男の子が顔を出した。小屋番の奥さんに宿泊の手続きをする。
『フランス山岳会の会員か?』
とイの一番に聞かれた。モンブラン山群の山小屋は、すべてフランス山岳会かイタリア山岳会の経営なので、会員だと宿泊料金が半額になるのである。
『食事はどうするか?』
と聞かれた時は、驚いた。こんな小さな小屋で、食事の用意をしてくれるなどとは、思ってもいなかったからだ。国内で調べた文献にも、レショ小屋は自炊と書かれていた。
さて料金だが、タダみたいなものだ。何と一人69フランス・フラン≒1450円。私たちはフランス山岳会の会員ではないので、この料金だが、会員はいったいいくらなのだろう。
それなのに、他の宿泊客は、全員自炊していた。これも驚きだった。
さて、小屋番の夫妻には、子供が4人もいる。先程、可愛らしい顔をちょこんと見せてくれた男の子は、どうやら末っ子のようだ。人なつこく日本ではお目に掛かれないような可愛さだ。ただ、何日も風呂に入っていないらしく垢まみれだ。我が娘はいつも小綺麗にしているので、その落差に微笑ましくも感じた。他の3人の子供達は小学生くらいか。一生懸命働いている。水汲みやヘリポートへのゴミの集結。これも、今や日本では滅多にお目にかかれない光景である。
夕方になって、フランス山岳会のヘリコプターがやって来て、物資をおろし、ゴミを空輸して行ってしまうと、再び静寂が訪れた。小屋には明日、ウォーカーを登るフランス人とドイツ人と私たち、そしてプチトジョラス北壁へ行くフランス人の4パーティーが同宿である。
しだいに暮れて行く北壁を見ながら、バルコニーでハイネケンを飲んでいると、決して大袈裟ではなく、感慨無量となってしまう。
なにせ煩悩の固まりである私が、毎日50本吸っていた煙草を止め、毎夜欠かしたことのない焼酎の晩酌を止め、毎日指懸垂100回を繰り返して精進してきたのだから、これはもう奇跡というほかはない。それもこれも、少年の頃からの夢が、胸を震わせてくれたからだ。
夕食は、こんな小さな山小屋なのに、フルコースだ。デザートまで付いている。メインに出た腸詰めは、中に内蔵が入っていて、初めて食べる代物だった。解かしたチーズをのせたじゃがいもは、大皿に山盛り出た。腹一杯になるまで食べさせてもらった。
小屋番の奥さんから、明日は何時に起こしたらいいかと聞かれたので『ウォーカーに登る予定』と告げると、それでは1時に起こしましょうということになった。
21時を過ぎても外は暗くならないが、明日のことを考えて、小屋の中に入る。
『どこに寝ても良い』
と小屋の主人が言うので、2段ベットの上段に岩ちゃんと陣取った。しかしこれは失敗だった。窓のない小屋は極端に蒸し暑く、汗びっしょりで、殆ど一睡も出来なかった。4人の子供達はどうするのかなと見ていたら、私たちの下で寝たようだ。

8月10日夢のウォーカーに取り付く

暑くてたまらず、一睡も出来ないので、小屋番の奥さんが、朝食の支度を始めたのを、これ幸いと起き上がり、外へ出た。外へ出て、生き返るような気持ちで、深呼吸をした。本当に暑くてたまらなかった。
装備はすべて外に置いてあるので、ヘッドランプの明りを頼りに支度する。
汗がようやくひきかけた頃、朝食の用意が出来たようだ。いつもの通りクロワッサンとカフェオレ。バターをたっぷり塗って食べた。これから何日間か、人間らしい食べ物にありつけないと思うと、堅いフランスパンも美味しく感ずる。
空は満点の星空だが、なまぬるい風が吹いてきて、何となく不気味だ。セラックが崩壊するのではないか?天候悪化の前兆ではないか?と不安にかられる。本当にこれから『ウォーカー側稜』を登るのであろうか。
2時に歩き始める。フランス人とドイツ人は30分先行した。氷河上のルートのとり方は、きのう頭に叩き込んでおいたので、スムーズに登って行ける。傾斜が増して、クレバスが次々に出てくるが、ルートは巧みに縫う様に取られている。
ズタズタのセラック帯を越えると、いよいよウォーカーの取り付きだ。ビレイピンのとれない急峻な氷壁なので、慎重に100m近くもノーザイルで登って行く。岩場に突き当たった。ここで5時だ。
夜明けを待った。さていよいよザイルを結ぶ。ここからは傾斜の緩い脆い岩場だ。レショ小屋から見るとレビュファ・クラック下部の岩場は急峻そうに見えるが、実際には傾斜も緩く、2〜3級で技術的には問題ない。
ルートを慎重に選びながら登って行く。残置ピトンは全くないので、ピナクルにシュリンゲを掛けて、ランナーにして行く。同じようなピッチを、数え切れぬほど登って行く。
岩ちゃんがきわめて調子が悪いとのことで、荷物を私が持つことにする。リードの私は、20個のランナーと90mのザイルを引っ張りあげつつ、ルートを発見し、登らなければならないので、総重量は20Kg近くになる。こんなに荷物を担いで登るトップは、滅多にいないだろう。

レビュファ・クラック

レビュファ・クラックを探しながら、岩壁と氷壁のコンタクト・ラインのミックスを登って行くが、なかなかそれらしきクラックが見つからない。
ランスール方面へ少しトラバースし過ぎたような気がして、1ピッチ程折り返した。
確信は持てないが、それらしき下にやって来た。見上げるとクラックのようではないが、上に残置ピトンとワイヤーストッパーが残置されている。私はレビュファ・クラックは、小川山レイバックのようなハンド・クラックを想像していたが、大間違いだった。クラックと呼べないこともないフレークの隙間だった。
適当に2〜3歩登って見たが20Kgの荷重では、とても体が上がらない。ラバーソールに履き替え、ザックは吊り上げることにしてリードした。セカンドの岩崎もザックを吊り上げた。
クラックが終った地点は上等なテラスで、ここから一旦、少し下り気味に氷壁とミックスを80mトラバース。
途中岩崎がスリップ。幸運にもピナクルにザイルが引っ掛かって、大きな墜落を免れ、事なきを得た。
『75mの凹角』は、岩を回り込んですぐだった。ここは、残置ピトンに恵まれ、ザックを背負ったままで2ピッチにて終了。
上を見上げると、灰色のツルムへの振り子トラバースが間近に見える。ここから氷のチムニーまで氷壁だが、ラバーソールを脱ぐのが面倒臭くて、中央クーロワール側の岩場を20m程登ってみた。小さなハングの下にビレイピンがあるので、これを越えて『バルコン』に行けそうに見える。近くまで寄ってみたが、逆層でしかも難しそうだ。
どうしようかと考え込んでいると、ドイツ人のパーティーが追い付いてきた。彼らもラバーソールを履いていたので、私のいるレッジまでやって来た。しかしやはり正規のルートを登ることにした様で、トップはプラブーツに履き替え、アイゼンを装着して登り始めた。ドイツ人のセカンドはラバーソールに直接アイゼンを縛りつけ登って行った。
その間、私は小さなレッジにしがみついて、1時間も待たなければならず、ほとほと参った。
ドイツ人がルートを空けてくれてから、一旦岩ちゃんのいるテラスまで下降した。
まだ19時だが、この先『灰色のツルム』上部にあるテレイ・テラスまでよいビバーク・サイトは望めそうもなさそうなので、ビバークすることにした。
テラスといっても外傾しており、快適さは望むべくもない。ハーケンを打ち、ピナクルに支点を取って、軽量ツェルトを設営して中に潜り込み、さっそくテラスの氷をガスバーナーで解かして湯を作った。
ガスバーナーをつけると、途端にぬくもりが内部に充満した。登攀には1リットル入りの水筒を各自持ってきていたがあっという間に飲み干してしまい、氷を食べながら渇きを癒してきた。喉が渇き過ぎてべたつき、奥の粘膜が貼り付いて、吐きそうになることがたびたびだったので、砂田に貰った麦茶のティーバックに、生きかえるような美味しさを感じた。氷を小さなコッフェルに3回も解かして麦茶を飲んだ。次は日本からわざわざ持ってきたインスタント味噌汁『しじみ味』を飲んだ。
高山の乾燥した空気の中で、多量の水分を消費してきた肉体に少なくとも一人5リットルの水分を、補給したいところだがやむを得ない。
さて肉屋で買った1kgのハムだ。旨そうなやつをナイフでザックリ切り取りほおばった。まずくはなかったが、塩辛過ぎて二人の口にはあわなかった。
一切れづつ口に入れてやめてしまった。
ツェルトをまくって上を見ると、ドイツ人パーティーのセカンドが『バルコン』から右上の小さなハングを越えて、視界から消えようとしている。
対岸のドリュを見ると、不吉な黒雲がベルト針峰にかかり始め、ときおり黒雲の中で稲光が見える。テレイやカシンたちの記録が映像となってまぶたに浮かぶ。彼ら程のアルピニストでさえも嵐に捕まり、九死に一生を得てこのウォーカーを脱出しているのだ。
考えても仕方がないと諦め、ずり落ちそうになる体を時々引き上げながら、待ち遠しい朝をひたすら待った。

8月11日灰色のツルムを越え、褐色のツルムへ

暗闇の中で、へたに支度をすると、装備を落したり、思わぬ不覚をとるので、薄明るくなるのを待った。
ベルト針峰方面には薄雲がかかっていて心配だ。6時登攀を再開する。最初からアイゼンをつけて氷壁を直上し、『氷のチムニー』へ入り、『振り子トラバース』そして懸垂下降。『バルコン』に立つ。
『バルコン』から、右手頭上にある氷に覆われた小さなハングをA0で越えたら、いいテラスがあった。水平で、しかも一枚岩でマッタイラ。畳一帖くらいはある。昨夜はここでビバークすれば良かったと、地団駄踏んだがしょうがない。ドイツ人達はここでビバークしたようだ。
脆い岩場を1ピッチ登って、いよいよ『灰色のツルム』だ。硬いプラスティックブーツの先端で細かなホールドに立ちこむ動作の連続。1ピッチ目はさすがに辛く、途中でザックを降ろして空身でリードせざるを得なかった。45mザイルを伸ばしたが、テラスがないので小さなレッジでアブミビレー。しかもザイルの重さと、ランナーの摩擦で、体を引き上げるのに苦労した。
更に1ピッチ辛い登攀が続いたが、40mで脆いがやさしい岩場となり、ピッチを切る。やさしいが脆い岩場にザイルを45m伸ばすと、ピエールアランがビバークしたテラスにたどり着いた。がっちりした岩場ではないが、分散すればかなりの人数がビバーク出来そうだ。
ここは殆ど、中央クーロワールの一部といってもいいような位置であり、ウォーカー側稜に戻る為には、左に聳える垂壁を登っていかなければならない。
第4登したテレイとラシュナルがここから、中央クーロワールをたどり、クーロワールを遮断している氷瀑の垂れ下がったハングを越え、カシン達とは異なったオリジナルルートをたどり、稜線へ抜けたのも、暴風雪の中では無理もないとつくづく納得した。
ノーマルな感覚の持ち主なら、左の垂壁を登るなんて、考えもつかないことだろう。赤く錆付いたハーケンが、この圧倒的なフランケにルートを示していなければ、私たちも考え込んでしまったに相違ない。
この垂壁を45mで抜けると、通称『ご婦人の散歩道』と呼ばれるウォーカー側稜の稜線のリッジに出た。久し振りにしっかりとしたピナクルなどがあり、安定した確保が出来た。岩ちゃんは体調が悪そうで、何度も立ち止まって動けなくなってしまう。
残置ピンの少ないリッジを、なるべく稜線に忠実にたどっていった。ハングも迂回せず、なるべくダイレクトに登っていった。そのせいか『ご婦人の散歩道』とは信じ難いほどの技術的高難度ピッチが連続した。
2ピッチで待望の『三角雪田』の下にやって来た。上にはウォーカー側稜最後の難関『褐色のツルム』の岩塔が聳え立っている。
ここは傾斜が緩く、雪田の雪解け水がスラブの表面を流れている。思わず岩に口を押し付け、流れてくる雪解け水をすすり飲んだ。何と旨いことか。
雪田は『褐色のツルム』に食い込むチムニーに伸びているが、いかにも脆そうである。ここからはよく見えないが、雪田は途中から稜線の左側へ回り込むように分流しているようだ。左側へ分流している雪田を目指すことにして、ザイルを伸ばす。
急峻な氷壁をピッケル1本で駆け登る。勿論、ノーピンだ。40mで露岩にハーケンを打ち込み、ピッチを切った。岩ちゃんは時間を稼ごうと、ノーアイゼンで登り始めたようだが、スリップ。ザイルにテンションがかかる。
ここより更に右手の岩場と氷壁のコンタクトラインに、ザイルを30m伸ばし、右手の岩場に乗り上がって、ハーケン2本を打ち込みビレー。外傾したスラブでの確保は不安定で緊張した。
上はハング帯が進路を遮断しており、ルートを決めかねていると、左手前方のハング下に赤いシュリンゲが見える。一瞬そこがルートか?と思ったが、その上のハングが大き過ぎて、登れるとは思えない。赤いシュリンゲは、単なるビレイ点に過ぎないようだ。頭上のハング帯の一番張り出しの小さく、且つ残置ハーケンのある箇所を狙ってフリーで登っていった。
A0で越えて上を見ると、国内で充分に研究し検討をしていた『褐色のツルム』の脆いチムニーが、想像していた通りの姿でそそり立っていた。
過去の記録によれば、このチムニーは脆くて、しかもハーケンがうまく打てない『危険なピッチ』と書かれている。しかし今シーズンは連日の晴天で氷雪が解け、それが午後になって凍り付く、ということを何日か繰り返した為に、氷瀑のようになっている。ノーアイゼンでは登りにくかったが、脆い岩がすべて氷でコンクリートされ、危険度は著しく減少していた。
しかも、誰がフィックスしたのか、古いザイルが氷に埋まっている。時にはこの古いザイルを使って、夢中で2ピッチ、80m登った。
岩ちゃんをビレイしていると、ガスに包まれ、雪も降り出した。このような状態になってくると、調子の悪い岩ちゃんも死に物狂いで、凄いスピードで登ってくる。
もう何となく薄暗くなってきた。時計を見れば21時30分を過ぎている。今日は登れるだけ登って、少しでも頂上に近いところまで登っておこうと、覚悟を決めた。そのためには、多少条件の悪いビバークも甘受せねばなるまい。
ビレイ点から10mほど登ったところで、右から短い凹角が5m間隔で2本入ってきた。これが正規ルートだ。どちらを登ってもよいのだ。上の凹角を大急ぎで登り、大まかなピナクルが林立する『褐色のツルム』下の岩場をトラバースしていく。その豪快さはヨセミテを彷彿とさせる程だ。ここから雪のついたバンドを更に10mトラバースすれば、山頂へ向かう凹角へ出られるところまで来た。
もう真っ暗だ。岩とアイゼンがぶつかり火花が散っている。火花が見えるような暗さでは、今日の行動も中止せざるを得ない。
この下には氷に覆われた小さなレッジがあることを知っていたので、身を乗り出すと、案の定10m下にぼんやり雪の塊が見える。
岩ちゃんに懸垂下降してもらうと、強風に掻消されそうになりながらも大声で、
『氷が堅くて、ここはビバーク無理だが、このちょっと下に素晴らしいのがある!』
と告げて来た。喜び勇んで下降して見ると、確かに椅子の腰掛け程度の岩棚があった。
標高4,000mでここなら上出来だ!
全装備をザイルに吊るし、セルフビレイをとってバンドに腰掛け、羽毛服を着込みツェルトをかぶった。腰の下にはウレタンマットを敷いているので快適だ。両足は空中にブラブラさせているので、プラブーツを履いたまま。とてもガスバーナーに点火する余裕はないが、それでも一応風が遮断されほっとした。
薄闇にドリュ方面に黒雲が見え、次第にそれが拡がり、遂に夜半、苞がツェルトを叩き始めた。遂に嵐に捕まったかと観念し、夜明けを待ちながらうとうとした。

8月12日ウォーカーに立つ

薄曇りの朝がやって来た。いつ本格的な嵐がやって来てもおかしくないような雲行きだ。少しでも嵐がやって来るのがあとになるように祈りながらツェルトをたたむ。
装備を点検しながら、一つ一つゼルバンに付けていると、岩ちゃんが過って私のピッケルを落してしまった。
二日間の登攀で血のベットリついたピッケルは、カラーンと鳴って、1000m下のレショ氷河に吸い込まれていった。トップ最優先ということで、岩ちゃんのピッケルを貸してもらい6時、登攀を開始する。
昨日の続きのピナクルまで登りかえし、雪の付いたハング下のバンドを10mトラバースしてピッチを切った。ここから岩場を回り込むと、頂上へ抜ける凹角だ。
易しいはずだがベルグラに覆われ、意外にもてこずった。これを80m、更に左の岩稜に移って、これに沿って80m登ると、やっと山頂の稜線を縁取る雪庇が見えてきた。
先程から右上にはウィンパー・ピークが見えていたが、ウォーカー・ピークへもあと2ピッチのようだ。
調べた文献には、ここから浅い凹角を登っていくように書いてある。右手に見えるウィンパー・ピークの稜線のコルに突き上げる浅い凹角は、易しそうに見えるが、ベルグラが張り付いていて『危険』だ。ここから頭上に見えている脆そうな岩で構成されたピークを目指すことに決め、ルンゼ状を登っていった。
ルンゼ状を登り切ると、左にウォーカー・ピークの大きな雪庇がすぐそこに見え、立ち止まると、稜線直下の3mの雪壁下だった。
いよいよ終了点直下だ。アイゼンは履いていないが、ピッケルのピックを打ち込み、マントリングで手首を返すと、上体がどっとイタリア側へ倒れ込んだ。
遂にウォーカーを完登した。ピッケルを持った両手を頭上に挙げ、
『ウォーカーを登ったぞ!』
と大声で叫びながら雪の上を転げまわった。
ピッケルを足元の堅い雪に根元まで打ち込んで、岩ちゃんを迎えた。岩ちゃんが雪庇の上に体を乗り出し、私と同じように上半身をイタリア側へ倒し込んだ時、それを受け止めるようにして二人で抱き合った。
一つのルートを登り終って、歓びをこれ程までに素直に表現できたのは、18年間でこれが初めてだった。本来であれば師である大木友康さんと分かち合うべき喜びの瞬間。あなたの憧れを後輩である私たちが今実現しましたと・・・。
我にかえり、岩崎と共に互いに感謝の言葉を贈って、健闘をたたえあったのは、10時40分だった。
さて、終了点の近辺を見まわした。穏やかな雪原が霧の中に続いている。足元には2〜3の小さな露岩が雪面から顔を出している。ウォーカー・ピークの最高点は左手に20mくらいのところにあり、雪庇に覆われた冬の谷川岳トマの耳山頂のようだ。岩ちゃんと下降にかかる前に、最高点4208mを踏んでおいた。大きな雪庇が北壁側に張り出しているので、ちょっと怖かった。
余計な装備をザックにしまい、露岩のくぼみにたまっている小さな岩屑を、記念にダウン・ジャケットのポケットに入れた。

長い下降

これから下降であるが、深い霧に包まれ難渋しそうだ。
国内の冬期登攀ルートであれば、夏に登攀経験がなくとも、地形の細部まで知っているので『風雪でも何とかなる』という安心感があるが、ここは地形を一度も見たことのない、外国の山だ。しかも地形図と実際のスケールが、まだ感覚に馴染んでいない。
こんな状態の中で視界が効かぬとなると、本来のやさしいルートを外れて、とんでもないセラック帯や落石の通路に迷い込んでしまうとも限らない。登攀ルートの技術的難度は、事前のトレーニングで対処できるので、難しい方がかえって興味をそそるのだが、この手の下降ルートの困難度は、えてして危険度を大きくはらんでいるのが通例だ。
だから、『灰色のツルム』を越えたあたりから、すでにイタリア側への下降を心配し始めていた。
さていよいよ問題の下降を開始する。
私たちは、ウィンパー・ピークからイタリア側へ落ちている『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』を下降することにしていたが、一旦ウィンパー・ピークまで登るのがおっくうなので、目の前の雪原を下降気味にトラバースして、『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』へ出ようともくろんだ。これは大失敗だった。歩き始めてすぐに強烈な苞が顔面を叩き付け始め、濃いガスで見通しがきかない。このまま突っ込んで、スリップし霧の下のビルディングのようなセラック地帯に落ちたら、お陀仏間違いなしだ。なにせ一つの氷の断面が高さ50mはあろうかというようなブロックがごろごろして、しかも、それが底の見えないクレバスに引っ掛かっているのが、普通だからだ。
自分達がしていることの恐ろしさに気づき、震えあがった。
さっそく、一旦戻ってウィンパー・ピーク経由で行くことにした。ガスの中をポツリポツリと、雪面を見ながら登っていると、3月の穂高の稜線を歩いているようだ。
ウィンパーの山頂は、雪が風で吹き飛ばされるのか、岩屑が露出している。風は強いがウォーカー・ピークからウィンパー・ピークまでの稜線は、穏やかな曲面を描いており、大きなヘリでも充分に着陸出来る広さを持っている。ルートの目鼻がつくまではビバークも辞さぬと腹を決め、ウィンパーの山頂からイタリア側を見ながら、ガスの一瞬の切れ間を伺っていると、しばらくしてほんの10秒ほど見通しが効いた。下降すべき『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』の地形を頭に叩き込むには、それでも充分だった。
岩稜は大まかな岩で構成されており、一つ一つの乗越はかなりの労力を要求されそうだ。右手を見ると脆そうだが、傾斜の緩いルンゼが下へ続いている。ルンゼのド真ん中を下降するには、落石の危険が高いので、『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』とのフランケを下降していくことにした。
浮石だらけの岩場をどんどん下降していったが、このまま下降するとウィンパー・クーロワールのクレバスに出てしまいそうな気がして、一旦『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』の稜線上に戻った。突き出た岩の突端に岩ちゃんと腰掛け、ガスの切れるのを待つ。

フェレの谷

しばらくするとガスがパァーと散って、イタリアのフェレの谷までが眼下にひろがった。フェレの谷に見える小さな村がプランパンシュウだろうか。
20代の頃、いろいろとグランド・ジョラス北壁のルートを研究しながら、登攀後たどり着くというイタリアのフェレの谷にある小さな村『プランパンシュウ』をどんな素敵な村だろうかと夢見たものだった。
ここからは、多大な労力を要求されるが、しばらくは稜線を忠実にたどることにした。
ここまで来てルートを失って大怪我をしたくないので、面倒だがザイルを再び出してきっちり懸垂下降もした。しばらくでガスの下に出たようで、急に見通しがきき始めた。振り返ると、ここから上はガスに覆われ、きっとガスの中は悪天候に見まわれているに違いない。
左下の氷河には、一般ルートからの登頂者が刻んだステップが一列に見る。見通しさえきけば、氷河に降りてステップ沿いに下ったほうが楽なので、そうした。
ステップは、崩壊が進む大セラック地帯の手前で再び『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』に戻って消えていった。そこから再び岩稜伝いに細いフィックスロープを頼りに100m近く下降。『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』はここで氷河に埋もれ消え去る。
危なっかしい岩稜を緊張の連続でこなし『ウィンパー・ピークのやさしい岩稜』末端に降り立った。ここから、右手にウィンパー・クーロワールを挟んで下っているルポゾワール稜へルートは続いているので、ウィンパー・クーロワールをアイゼンをつけて走ってトラバースした。勿論上部からの落石とセラックの崩壊が襲ってくるかもしれないからだ。
トラバースし終ったルポゾワール稜の上部は、平坦な雪原で、岩ちゃんと久し振りにザックをおろし一息ついた。ガスも稜線の上部にかかっているだけで、ここは夏の高山特有の直射日光が容赦なく照りつけ、顔をあぶっている。
気温の上昇によって水分を多量に含み始めた雪を頬張る。口に含んだ途端、冷たい水が焼けた喉に染みとおっていく。この3日間、口に入れたのはビスケット4枚と日本から持ってきた雪印練乳150gそして麦茶と味噌汁だけだ。それ以外は毎日こうして雪を頬張って過ごしてきた。

アルプスの少女ハイジ

見下ろすフェレの谷は牧草地帯なのか、のどかな丘陵地帯が対岸に広がっている。アルプスの少女ハイジに出てくる『アルムおんじ』の小屋が本当にありそうな風景だ。
誰に教えてもらうことも出来ず、砂田や岩崎と手探りの状態で冬期登攀を始めた頃、アルプスの少女ハイジの主題歌をよく歌いながら、沢渡から横尾まで歩いたものだったなぁと思い出した。ある時など釜トンネルであまりのツララの多さと暗闇についイタズラごころを催し、岩ちゃんを脅したことがあったっけなぁ。岩ちゃんは真に受けて『勘弁しちくろよ〜』と怯えていたっけ。
視界がきくようになって、あたりの様子がわかるようになると、アルプスのスケールが感覚的に馴染めるようになってきた。
右手を見るとロシュフォール山稜のカンジーオ・ビバーク小屋がすぐ近くに見え、国内で恐れていた程の巨大なスケールではないことが実感された。
ここからルポゾワール稜は、再び岩稜となり忠実に下った。稜線上はところどころ、雪稜になっており、アイゼンを履くのを面倒臭がった私は、急峻な雪稜で進退極まりそうになって、肝を冷やした。
このルポゾワール稜を下降し終ると、安定した氷河に降り立ち、当面の危険からは脱出したことになる。そう思うと早く眼下に見える氷河に降り立ちたいが、意外にも岩稜は難しく、簡単には下降出来ない。穂高の稜線と同じように技術的には易しくとも、もし落ちれば即死だ。脆くて冷や汗をかいたりしながら、やっとの思いで氷河の雪面に降り立った時は本当にほっとした。
平坦な氷河に降り立ってからは、『壜の形をしたロニヨン』の右側を走るようにして下って行った。長かったがどんどん下った。時には下にクレバスがないことを確認して滑って下ったりした。いい加減足がもつれ始めた頃、岩場の影からいきなりボカラーテ小屋の屋根の上に出た。

山小屋のミネストローネ

小屋は絶壁の上に建っていた。石作りの立派な小屋だ。テラスからはもうプランパンシュウがはっきり見える。バルコニーにはテレホンの看板がかかっているので、どうやら電話が出来るようだ。小屋のバルコニーでザックをおろし、恐る恐る中に入って見た。眩しい氷河からいきなり暗い小屋の中に入ったので、しばらくは真っ暗に感じて何にも見えなかった。
『ハロー』
と声を掛けると金髪の青年が出てきた。
『シャモニへは、この電話で通話出来るか?』
と聞くと出来るそうだ。さっそく心配しているに違いない砂田を安心させる為にシャモニのスネル・スポーツに電話を入れた。
出てきた神田さんがポアント・イザベルの砂田に連絡しておいてくれるとのことで一安心。
さて、腹が減ってふらふらだ。体内の血糖値を急速に回復させ、水分を補給するには、砂糖のたっぷり入った、ファンタ・オレンジが良かろうと2本頼んだ。少しずつ味わいながら飲み干してから
『何か料理はできないか?』
『スープならあるが‥‥』
さっそく注文した。出てきたのは野菜の沢山入った美味しいスープ:ミネストローネだった。スープを飲んでいると小屋の青年が、
『ウォーカーを登ったのか?』
と聞く。
このフェレの谷にとってグランド・ジョラス北壁ウォーカー側稜からイタリアへ入ってくるのは、やはり特別のことのようで、祝福された。
ミネストローネはきれいにたいらげた。岩ちゃんは食欲がないと、ほとんど口を付けただけで、残してしまったので彼の分までいただいてしまった。
ボカラーテ小屋を出る時、バルコニーにいたイタリアの娘さんに、挨拶した。
『グッバイ!』
『チャオ!』
かえってきたこたえに、イタリアだなぁと実感した。
小屋のバルコニーから断崖を太いフィックスロープを頼りに下降した。よくもこんなところに小屋を建てたものだと感心する程の高さだった。断崖の下に立って、氷河から流れ出る水を飲み一息ついた。
ボカラーテ小屋で氷河が終るので、ここからはヨーロッパ・アルプスにおけるハイキング・コースである。日本では、さしずめ北アルプスの稜線縦走といった感じである。氷河の名残の雪渓を越え、穏やかに広がる台地をジグザグを切りながら徐々に下降して行く。岩屑の荒れた斜面は、北アルプスの3000mの稜線のようで、一塊になった奇麗な高山植物が点々と咲いている。それが澄み切ったような青や紫で、灰色の岩屑の斜面の中で目に沁みるようだ。
だいぶ前から天候悪化が予想されるような雲行きだったが、遂に崩れ始めたようだ。大粒の雨が雷とともに渇いた大地を濡らし始めた。冷たい雨粒が、焼けてほ照った体にかえって気持ちよく感じられた。
ハイキング・コースは渇いた灰色の台地の端まで行くと、突然高差100mはありそうな巨大な滝となって、下のアルプ地帯へと続いている。滝の下の草地では羊がのんびり草をはんでいる。鉄梯子を幾つも下って、増水した川を渡り、草地の広がるアルプ地帯へやっとたどり着いた。きれいなお花畑が続き、背の低い針葉樹林もちらほら混じり始めた。土砂降りとなった雨の中を二人でトボトボ歩いた。風も強くなって、雷鳴も激しくなってきたようだ。

山のロザリア

プランパンシュウの村が間近になり、家々の屋根を見ながら林の中を歩いて行くと、大きな木立に囲まれた古いカトリック教会の前に出た。屋根は薄い板のような石を張ってある。扉は堅く締まって中を覗いたが暗かった。まったく絵葉書の世界のようだ。
恩師が好きだった『山のロザリア』。きっとこんな美しい山の村を唄った歌であったろうか。
髪の毛から滴がぽたぽた落ち、全身ずぶぬれになって、プランパンシュウの村に入った。
小さな村で、数軒の古いホテルと民家が軒を連ねているだけだ。家々では夕食の準備なのか、開け放たれた勝手口から、食器のぶつかる音と白熱灯の明りが漏れてくる。
そういった家の軒からも雨垂れが一斉に落ちている。
村の路地をあてもなく曲がって行くと、ホテルのコックさんが声をかけてくれた。
『どうした!』
『シャモニまで帰りたい。タクシーを呼んで欲しいのだが‥‥』
『呼んであげるから中に入って休みなさい』
と優しい言葉。
大きな山荘風の重厚なホテルだった。日本では信じ難い程の低料金で、最高の部屋に宿泊出来るに違いない。時間さえあれば、是非泊まって行きたいところだ。一階は小さなしゃれたレストランになっており、入り口の外にザックと雨具を置いて中に入った。
さっそくハイネケンをオーダー。祝杯を挙げる。疲れた体を癒すようにアルコールがしみわたって行く。ふと壁を見ると、先程まで私たちが登っていたグランド・ジョラス北壁の大きなパネル写真が飾ってある。
もう既に思い出となってしまった登攀の一つ一つを懐かしい気持ちで語っていると、後ろのボックスにいた年配のドイツ人が、
『グランド・ジョラスから来たのではないか?』
と話しに割り込んで来た。
『そうだが』
『ウォーカーか?』
『そうだ、ウォーカーだ』
『オォ!やっぱりそうだったか。私は、今日ウィンパー・ピークの上から登攀中の君たちを見ていたんだよ』
そういえば頂上の150m程下のリッジを登攀中に山頂から私にコールしている外人パーティーがいた。その時は、てっきりウォーカー側稜の先行パーティーだと思っていたが、あれがこのドイツ人だったようだ。ドイツ人と話していると、今度はカウンターでビールを飲んでいたイタリア人が、
『ウォーカーを登ったのか』
とまたまた話しに加わって来た。
大ジョッキ1杯が150円という驚くべき低価格のハイネケンを2杯程飲み干したところで、タクシーがやって来た。タクシーはシャモニから呼んだものだった。ちょっと大きめのプジョーだ。
雨の中をプランパンシュウをあとにする。暗い夜道を走りアントレーヴからモンブラントンネルに入りシャモニに帰り着いたのは22時過ぎだった。
シャモニの駅前で降ろしてもらい450フランに500フランを渡して礼をいった。

砂田の心配

我が家にたどり着いたような足取りでロビーを入るとホテルの女主人が心配していた。
『ミスター・カク‥‥』
といって安心したようにうなずいていた。
暗い廊下をたどって砂田の待つ部屋のドアを開けると砂田がびっくりしたような顔をして立っていた。
一日下山が遅れ、さぞかし砂田は心配したことであろう。
『あぁ良かった。戻って来た。』
これが砂田の第一声だった。
『てっきり事故だと思い、いよいよ明日ヘリコプターを飛ばすのかと観念していた』
『あぁ本当によかった。帰って来て』
砂田には心配をかけてしまった。神田さんからの連絡も届いていなかったらしい。本当にすまなかったと岩ちゃんと頭を下げた。
何はともあれ長いウォーカーの登攀が終った今日が終り、3人とも深い眠りに落ちていった.

8月13日シャモニの休日

習慣で5時に目が覚めたが、岩ちゃんも砂田もぐっすり眠っているようで、再び眠りに落ちていった。
明るくなって目が覚めた。すでに8時を回っていた。
本来今日は、3人でドリュ・アメリカンダイレクトに行く予定だったがとても無理だ。時間の遅さもさる事ながらジョラスの疲れで全身が鉛のように重い。
せっかくモンブラン・ドゥ・タキュルやトリノ小屋まで登って、高度順化をして来た砂田には、本当に申し訳なかった。
それなのに砂田は
『タキュルにだって登ったし充分満足しているよ』
といってくれる。
という訳で、砂田の好意に甘え、シャモニ観光に今日一日をあてることになった。
まず、最優先でスネルスポーツの神田さんのところへ行き、下山の報告をせねばならないだろう。
9時開店を待って、スネル・スポーツへ。
悪い癖でまたまた装備を買い漁ってしまった。
スネルを出てからスーパーマーケットに行ってみた。グレープジュースや果物を買って、広場のベンチでシャモニ針峰群やルージュの針峰群を見ながら食べた。果物は非常に安く、1Kgのプラムが邦貨200円位だった。ミディー・ロープウェイ駅近くのレストランの2階で、それぞれ自宅に電話した。2〜300円で充分に通話が出来る。国際通話料金も欧州から日本へかけると安いのだ。
一旦ホテルへかえり、ウォーカーへ持っていった装備をバルコニーに並べた。
プラスティック・ブーツを見て驚いた。私のブーツは新品だったのに、アウター・シェルが深くえぐれて摩耗している。特に爪先は、細かいフット・ホールドに乗り続けたので摩耗が著しい。1970年冬にウォーカーを登った小西政継氏が著書の中で、登山靴は1日で擦り切れて爪先に穴があくので、グラスファイバーを張ることを奨めているが、納得した。
ザイルやテープ・シュリンゲも、ケバ立ちが激しく、金属製登攀ギアの摩耗もひどい。カラビナにはえぐれたような傷のついたものもある。アイゼンの爪は小指のように丸まってしまっている。とても一回の登攀で消耗したとは信じ難いくらいだ。
装備の整理が一段落したところで、プラの村へ『ドリュ』を見に行こう!ということになった。
のんびりホテル・アルピナの前のモンブラン広場に出ていくと、土曜市が開かれている。ちょっと素敵な陶器などが並んでいて、欲しくなった。衣類は原色を使ったハデハデなものが多かった。
べらぼうな上天気に空を仰ぐと、鮮やかなパラパントが幾つも飛んでいる。シャモニの夏の風物詩にさえなっている。見ている間にもルージュの岩峰から次々とテイクオフしている。
ホテル・アルピナの先の十字路を右へ曲がりのんびり歩いていく。
町外れでの不動産屋の前で立ち止まった。シャモニで売りに出ている別荘が、写真とともにウィンドウに貼られている。見れば案の定、安い。信じられない。邦貨1千万円も出せば、世界の山岳リゾート[シャモニ]に自分の別荘が持てるのだ。安い物件になると2百万円以下のものもあるようだ。
1年前に購入した自宅に隣接する猫のヒタイほどの土地が、1600万円したのがアホラシク思えてくる。
日本ではリゾートの別荘は、それを利用して余暇を楽しむ人が購入するのではなく、金儲けの為の投資対象という傾向が強いので、べらぼうに高くなってしまうのだろう。余暇の増大が、心身の本来の豊かさの実現の為に有効利用されにくい日本の現実を、改めて再認識せざるを得なかった。
お昼頃の直射日光はさすがに暑い。木陰を拾いながら歩いていく道の両側にも、別荘やら小さなホテルやらが建ち並んでいる。シャモニ駅から10分も歩くと、ぐっと静かなホテルが点在している。またの機会には、こんな小さなホテルもいいね、と三人で話した。
別荘地の間をしばらく歩いている内に、どうも空腹で、レストランを探すことになった。
国道に出て、シャモニ方面に戻りながら『ブーシェの森』まで来たら、小さな看板が懸かっていた。

『レストラン・ロビンソン』

どんなレストランかは予備知識が全くないのでわからぬが、とにかくいって見ることにした。ドリュを振り返りながら森の中の砂利道を歩いていると、アルプスのシャーレ風の一軒家『レストラン・ロビンソン』の前にたどり着いた。
庭の木陰には、パラソルとテーブルセットが並べられ、みんな外で食事をしているようだ。心地よい風が吹いて来てテーブルクロスやパラソルが揺れている。
砂利道に面した樹木に紙が貼ってある。メニューすなわち定食が67フランとのこと。邦貨1400円が安いのか高いのかは、内容にもよるのだが、細かいことはわからない。
『入ってみっか!』
といつもの軽い気持ちで芝生を踏んで庭を横切り、空いているテーブルに付いた。庭の奥には子供用のジャングルジムなどもあって楽しそうな歓声が聞こえている。ジャングルジムの上には大きなナナカマドの木が枝を張って、赤い実が風に揺れていた。
上品な年配のご婦人がオーダーを取りにやって来た。メニューを注文し、葡萄酒(ロゼ)も頼んだ。
野外の涼しい木陰で、ワインを飲みながらフランス料理。最高の思い出の一つになった。
葡萄酒にホロ酔い気分になり、ポアント・イザベルに帰り着いた。
ベランダには、今朝がた並べておいた装備が、カラカラに乾燥していた。しばらく皆でベッドに横になる。どっと疲れが出たのか、3人ともそのまま眠りに着いてしまった。
陽が、かげり始めた頃、目が覚めた。
ベランダの大きな窓は開けっ放しにしてあったので、白いレースのカーテンが風にそよいでいた。ベランダ下のミッシェル・クロ通りからは、なごやかなツーリスト達のざわめきが、シャモニの夏のバカンスシーズンのピークを物語っているようで、まんざらでもない。
夕食後、黄昏のシャモニの街に出て見た。ガイド祭が近いせいか、大変な賑いで、ソーシュールの銅像前では大道芸人が黒山の人だかりを作っていた。ミッシェル・クロ通りのフランス山岳会事務所からバルマ広場までの間は、自動車侵入が制限され、石畳にテーブルが並べられ、皆思い思いにビールなどを飲んでいる。ツーリスト達の楽しい笑い声に私たちも浮き浮きしてくるようだ。パカール通りのバーでハイネケンを飲み、マック・カズでハンバーガーを食べ、山岳リゾート・シャモニの夜を私たちも満喫した。

8月14日朝、起き上がれなかった

体温は39度。強烈な風邪の症状だ。ウォーカーの『氷のチムニー』手前のビバークの夜あたりから風邪ぎみだったのは自覚していたが、遂に爆発したようだ。
イタリアのクールメイユールへ行くことになっているが、おとなしく寝ていよう。
砂田と岩ちゃんがイタリアへの遠足に出発したあとは、またしばらく眠った。
午後から喉が無性に渇き、果物が欲しくなったので、プラムを1Kg程買ってきて食べた。口の中で甘い果汁がほとばしり、美味しかった。
だいぶ病状も緩和されたようなので、アルヴ川のほとりのイタリアン・レストランへ食事に行った。間口は狭かったが、奥はアルヴ川に面している。氷河からの雪解け水がゴーゴーと流れ、開け放たれた窓からヒンヤリ冷気が漂ってくる。
お粗末ながら、イタリア料理はスパゲッティしか知らないので、それとビールを注文した。日本人は当然のことながら私だけ。年配の夫婦がアルヴ川に面したテーブルについて食事をしていた。川面から反射する陽の光が、キラキラと、まぶしくふたりの顔を照らしていた。
ホテルにかえり、ベッドで天井を見つめていると、二人が帰ってきた。
まだ17時前だが、心配して早々に切り上げてきたようだ。
岩ちゃんは、思い出深い素敵な村『プランパンシュウ』を砂田に見せたいと、連れて行ったそうだ。お世話になったホテルの可愛い娘さんをカメラに収めようと、もくろんだらしいが出来なかったとのこと。
砂田は、アントレーヴの有名なレストラン『フィリッポ』で一人4000円のバイキングを食ったとかで、大騒ぎである。
一段落して、明日の予定を話し合った。初めの計画では朝のうちにジュネーブへ出て、TGVでパリへ行き、明晩はパリのホテルで一泊するつもりだった。しかし、いよいよシャモニを出なければならぬかと思うと、離れがたい。少しでも出発を遅らせたくなってきた。それに明日はガイド祭りだ。
さっそく「トーマス・クック時刻表」をめくって、パリへの夜行寝台をさがした。シャモニを20:30 に出発して、サン・ジェルヴェで夜行寝台に接続している。明日のパリへの移動は、夜行寝台で行くことに話がまとまった。砂田と岩ちゃんに寝台の予約とチケットの購入をしてきてもらった。
シャモニ最後の晩を、黄昏の街に出てショッピング。ホテルの部屋に戻ってからは日本で暑さにうだっている仲間たちに絵葉書を書いた。
レストラン・マーモットでの夕食も最後かと思うと、ことのほか味わい深かく、楽しくいただいた。
ガイド祭の前夜祭に沸くシャモニは夜更けまで賑っていたが、明日はいよいよシャモニを離れなければならぬ。一応荷物を整理し、パッキングも済ませておいた。

8月15日シャモニ最後の日がやって来た

われわれの青春を祝福するかのように、今日も快晴だ。
ポアント・イザベルでの最後の朝食。お世話になった給仕の青年。彼をビデオに撮影していると『ジャパニーズ・テクノロジー』と言ってカメラを指差していた。
ガイド祭のヘリが空を行き交い、祭りの気分を一層盛り上げている。
祭りに行く前に、スネル・スポーツで免税の書類を神田さんに作成してもらう。最後だからと、ラバーソールを買い足した。何といっても日本の半額以下で買えるのだから。私と岩ちゃんはザックの高級品『ラセール』も買ってしまった。大木友康さんへのお土産は、日本に輸入されていないCAMPのハーネスにした。黒いレーシング・タイツに映える、ショッキング・ピンクだ。これらの品々はスネル・スポーツの神田さんに頼めば、カタログ販売でしかも免税価格で購入することができるそうだ。
土産物屋に並んでいる品々は、日本の観光地と同じ。ほとんどガラクタばかりだ。お土産は、ファッションの本場フランスなので少々値は張るが、衣類がいいようだ。日本ではお目にかかれない色使いのシャツなどが目を引く。街中に素敵なブティックが何軒かある。
昼食はかねてより一度は食して見たいとあこがれていたスイス料理「チーズ・フォンデュ」に決めた。パカール通りにあるスイス料理のレストランに入った。「フォンデュ」がいくつもあるようなので、一番高いメニューを注文した。とはいっても2000円しない。これだけのしゃれたレストランで、これだけの低料金だ。
どんな素晴らしい料理かと楽しみに待っていると、出てきたのは西洋風てんぷらだった。テーブルのコンロにかけられた鍋の油の中に、串に刺した牛肉のかたまりを漬けて、自分で揚げて食べる料理だった。後で知ったことだが、「フォンデュ」には2種類あることを。安いほうが「チーズ・フォンデュ」だった。残念だったがこれはこれで美味しかった。
両手に一杯の土産を抱えてホテルに戻り、最後のパッキング。
思い出の品々を丁寧にザックに詰めて行く。ウォーカーで使ったギア達、スネルで買い求めた山道具、記念品。部屋の窓をいっぱいに開いたまま、支度をしているとガイド祭のにぎやかな雑踏が聞こえてくる。そして屋根の上には、ボゾン氷河に雲を沸き立たせたモンブラン。レースのカーテンを吹きあげる爽やかな風。
もうサン・ミッシェル教会前のセレモニーは終ってしまったろう。午後からは、ガイヤンの岩場でガイド達によるデモンストレーションだが、それにはまにあうだろう。
ザックのスカートを伸ばして、ぎっしり詰め込んで、さっそくチェック・アウトすることにした。
最後に女主人にお礼の一言を言いたかったがあいにくフロントにはいなかった。3人とも心残りだからこそ、わざとあっけなくチェック・アウトするのだ。

ガイド祭

荷物をシャモニ駅まで運び、構内の片隅に並べて置き、ガイヤンの岩場へ向かった。
しゃれた別荘地の坂道を下っていくと、雄大なモンブラン・ボゾン氷河を背景に美しい池が見える。池の前が有名なガイヤンの岩場!
多くの書物の中で知っていたガイヤン。レビュファも、テレイも、ラシュナルもここで大きな山行の調整をしたのだ。
ガイヤンの入り口では20フランを支払った。これは山で亡くなったガイド達の遺児を養育するための費用に使われる。さて、私たちはガイヤンの池のほとりの芝の上に陣取り、これから始まる本場ガイド達の様々なデモンストレーションを、たっぷりと楽しむことにしよう。
こういった行事のデモンストレータは、20代の若いガイド達だ。会場のアナウンスの説明にあわせて、モンブラン初登頂から現在に至るまでの登山方法の変遷を、観客の前で披露するのだ。
昔の事情をよく知っているわれわれには、懐かしいデモンストレーションである。梯子を使った200年前、そしてドロミテに代表される人工登攀の時代。ボナティに代表されるアルピニズムの頂点の時代。そして最後は高難度フリー・クライミングの時代である。続いてピエロの格好で、岩場を自転車とスキーで滑降するアトラクション。最後に究極の登攀として、フリーソロで一斉にガイヤンの岩場を登り始める若いガイド達。そしておどけた懸垂下降。
と突然、頭上にヘリコプターの轟音。山岳遭難救助のデモンストレーションだ。ヘリから直接、遭難者を引き上げたり、アクロバティックなデモンストレーションが続いた。これらの救助体制の恩恵はSOSモンターニュ山岳保険:1週間約6000円を支払うことによって無料で受けることができるシステムになっている。
ガイヤンのデモが終ってシャモニ駅前へと歩いていると、トラックに乗った若いガイド達にアワをかけられてしまった。
夕食を摂ってもいい時刻になったが、折角なので食べ損なった「チーズ・フォンデュ」をポアント・イザベルのレストラン『マーモット』で食べることにした。給仕のお嬢さんに「チーズ・フォンデュ」の写真を見せ、注文した。ホーローの鍋に解かした苦味のあるチーズに、固いパンを絡ませて、「ふーふー」いいながら食べる。
岩ちゃんは「残念ながらチョット口にあわぬ」と言いながら、バクバク食っている。列車の発車時刻まで30分しかないので、大忙しである。『マーモット』の美しい給仕のお嬢さんに別れを惜しむまま、シャモニ駅へ向かった。

さようならシャモニ

駅舎の中に入る前に、もう一度シャモニの街並をしっかりと見た。近いうちに再びここに立ちたいとしばらく見つめた。ホームへ出て、列車を待っていると、オレンジと白のツートン・カラーの3両編成のディーゼルカーが入線してきた。列車がホームに滑り込む直前、雨がボツボツと降り始めた。
夕立である。
20時38分、ベルが鳴り始めた。ベルが鳴ったままで列車が動き始める。列車はガイヤンの方へと進んでいく。車窓からは、しゃれたレストランの白熱灯の暖かい明りが、次々に見えては消えて行く。雨の中で見る白熱灯の暖かな明りには、懐かしい『プランパンシュウ村』の家々が思い出される。
すぐに列車は、ガイヤンの池のほとりにやってきた。ガイヤンの岩場も、先程までのガイド祭が嘘のように静まりかえっている。
後はもうどんどん景色が流れていく。ボゾン氷河が見えなくなってしまうと、アルプスともお別れ。
35分でディーゼルカーはサン・ジェルヴェに到着し、ここで夜行寝台に乗り換える。待ち合わせが約1時間もある。駅のバーで岩ちゃんとビールを飲む。ここサン・ジェルヴェからモンブラン山群周遊の遊覧飛行機が出ている。ウォーカーを登りながら、何度この遊覧飛行機の訪問を受けたことだろう。有名なグランド・ジョラス北壁ウォーカーバットレスを、ここぞとばかりにお客に見せようと、機体を我々によせてきたものだった。
乗り換えた夜行寝台列車は、電気機関車の牽引であったが、客車自体は私が小学校の頃のブルー・トレインと同じ3段寝台である。しかも暖房が異常な程効いていて、暑くてたまらぬ。同じユニットにフランス人二人とカンボジア人一人が乗り込んできた。
22時20分私たちを乗せたパリ:ベルシー駅行きのミッドナイト・エクスプレスは、サン・ジェルヴェを静かに発車した。

8月16日パリ・シャンゼリゼ・エッフェル塔

あまりの暑さにほとんど眠れなかったが、朝方ようやくウトウトしていると、大都会に到着。パリであった。
人けのないパリ:ベルシー駅に8時到着。日本の雑踏に慣れている身にとっては、ガランとした駅が不思議に感じられる。体中が汗でベトベトで、アヌシー駅構内のシャワールームを使いたかったが、膨大な荷物の処理を考えると遠慮せざるを得ない。駅舎から外に出てみると、大都会の夏にしては涼しい。爽やかな空気だ。
凱旋門の広場(シャルル・ド・ゴール広場)から、シャルル・ド・ゴール空港行きのバスが出ているので、ひとまず行くことにする。
地下鉄入り口から入って改札口前にいってみるが、切符の入手方法が解らない。購入窓口もなければ自動販売機もない。ベルシー駅で買うのかとも思い、戻ってみるが、それらしき物も見当たらない。困り果てて地下鉄駅まで戻ってみると、私服を着た普通のおじさんが切符を配っている。これには面食らった。こんなことは今日だけのことなのか、それともベルシー地下鉄駅はいつもこうなのか?
地下鉄車両は、札幌のそれと同じく振動が少なく小綺麗だった。シャルル・ド・ゴール・エトワールで下車し、地上に出た。目の前は修理中の凱旋門。
腹が減って仕方がない。近くのカフェが開いていたので、いつものコーヒー牛乳でクロワッサンをいただき、ホッ。
バスの発車時刻までしばらく間があるので近辺を散策することにしたいが、ザックが重くて悲鳴を上げそうだ。シャンゼリゼまで出て、ランセルの脇の歩道にザックをきちんとまとめて置かせてもらう。こんなに汚いザックを盗むやからもそうそうは居るまい。
シャンゼリゼを歩いていく。暑くもなく、爽やかな晴天に恵まれ、ウキウキ気分だ。ジョルジュ・サンク通りへ曲がって、セーヌ川へ。私でも知っているジバンシィのショーウィンドゥを覗いたりしながら、歩いて行く。
セーヌに架かるアルマ橋。その欄干に寄りかかってエッフェル塔をのぞむ。
エッフェル塔をこうして現実に見ることができる日がやってこようとは‥‥‥。
『フランスへ行きたしと思えどもフランスはあまりに遠し‥‥』欧州とはかくも遠いものだったのか。
セーヌ川を行き交う観光船の船尾にもフランス国旗。
バスに乗る為にくぐった地下道で、旅の終わりのシーンを美しく飾ってくれたボブ・ディラン。

さようなら凱旋門

エール・フランスのエアポートシャトルでシャルル・ド・ゴール空港へ向かう道すがらは、フランスが農業国であることを、教えてくれる。
シャルル・ド・ゴール空港はエール・フランス専用のターミナルとその他用にはっきり二つに分かれている。
もちろん後者にて下車。
免税手続きに、ザックごとテーブルに置くのを見た係官は、思わず苦笑し、フリーパスであった。

旅の終わり

ボーイング747。
窓から見える麦畑。鉄塔。
ググッと座席に押し付けられるGを感じながら、窓から眺める景色。
鉄塔が、麦畑が‥‥次々と後ろへ飛去って行き、機体は空中へ舞い上がり、我々もフランスを離れた。
思えば長い年月であった。
中学2年の授業で習った槇有恒の[アイガー東山稜]で始まった私の山。
佐倉高校山岳部で洗礼を受けたアルピニズム。
高校一年で大木友康さんに叩き込まれたグランド・ジョラスへの憧れ。
そして知ったリオネル・テレイ、ルイ・ラシュナル、リカルド・カシン‥‥。
その後は、青春のすべてを捧げつくした山の世界。
毎日、早朝5時・6時まで山の本を読み耽った高校時代。ふらふらで登校する私に『シンナー中毒』の烙印を押す担任教師。親類縁者教員だらけにもかかわらず募る人間不信の高校時代。
その中で知った山の仲間。
砂田栄作・岩崎良信と手探りで登り始めたビッグ・ルートの時代。なにもかもが新しい新鮮だった良き日々。
全てを知らなかったからこそ、独自の視点から確立し得た登攀技術・確保技術。
その仲間を募って創立した鹿山会登攀クラブ。私にアルピニズムを教え、グランド・ジョラスを教えてくれた大木さんと歩み続けてきた、砂田、岩崎。
大学時代に通い続けた冬の穂高の集大成として、雪洞だけで踏破した、冬の西穂〜奥穂の思い出深い湯屋三喜雄との一週間。砂田との冬の屏風岩。
奥鐘山をはじめとする国内の超ビッグルートを次々と登り続けた二十代前半。それについてきた中村勇、早野富夫。
その中で知った高難度フリー・クライミングの世界。
アルパイン・クライミングとフリー・クライミングの心の中での葛藤の時代。それが吹っ切れた1981年。
大木さんと初めてヨーロッパ・アルプスへの登山を計画したのもこの年だった。
そして一ノ倉沢での事故。湯屋の確保で辛うじて止まった烏帽子ダイレクト鎌形ハングの宙吊り。
大木さんに担がれ、下った一ノ倉沢の雪渓。
右足首の複雑骨折。
リハビリ後も動かぬ右足首。
ヨーロッパ・アルプスへの断念。
病床の中で燃やし続けたクライミングへの執念。
不自由な足を引きずりながら、小川山、城ヶ崎と先鞭を付け、銚子の課題を次々に解決していった1982年。フリー・クライミングに全てをかけた80年代の前半だった。
そして迎えた私の札幌への転勤。
北海道という大自然の中で、再認識した『沢歩き』の世界。『渓流釣り』の世界。『アウトドア』の世界。
呼応して砂田、岩崎を中心として進められた、大きな渓谷の遡行。黒部上ノ廊下、赤石沢。
シブシブながらつきあってくれた大木さん。
そして結婚。
最後の仕上げに挑んだ北海道日高山脈歴舟川「キムクシュベツ沢」
1987年、札幌から念願の東京への帰還。
と同時に進められた『グランド・ジョラス』への再燃。グランド・ジョラスを登るには、最低でも5.11という認識でトレーニングに励んだ日々。経済的な負担の一助として煙草をやめた87年9月。80kgの体重を落す為に晩酌をやめ、辛かった毎日。
偶然に盛り上がった「日本人は働きすぎ」の諸外国の非難。そして私の勤務先の休日増加。
12日間の短い期間で、偶然にも恵まれた天候。
そしてウォーカーを登り、今日という日を迎えることが出来た私。
果報者の私達。
素晴らしかったシャモニの休日。
シャモニさようなら。
さようならグランド・ジョラス。