2001年秋

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初秋の北岳

バットレス第四尾根
2001/9/22から9/24

南アルプス 北岳-----標高3,192m言わずとしれた日本第二位の標高を誇るボリュームある山体。
ここ数年にわたり家族を連れて毎年槍・穂高を中心に登山を続けてきたが、標高第三位3,190mの奥穂高岳の山頂で子供に聞かれた。
「日本で一番高い山は富士山だよね。二番目の山ってどこ?」
「北岳だよ、奥穂高より2m高いんだ」
「それじゃ奥穂高岳とほとんどおんなじだね」
今夏に前穂高岳北尾根を登ったときにX・Yのコルから北岳が望見できた。
「あれが北岳だよ」
「日本で二番目に高い山なんだよね」
「そうだよ」
仕方がない、いつの日にか北岳に登らざるをえまい。
穂高連峰は入下山を考えると三連休ではちょっと窮屈なスケジュールだが、北岳の往復に絞れば三連休でおつりが来る。
「お父さん、また山に行きたいね」
「そうだね、それじゃ今度の三連休にお母さんと一緒に北岳に登ろうか」
「うん、行こう」
このような経緯で小学4年生の息子と女房を連れて初秋の北岳に登ることになった。
では、どのルートから登るか?
昨年、子供たちは「槍穂高連峰縦走」を経験し、今年の夏は日本の登山史に輝く名門ルート「前穂高岳北尾根」を登った。今更、大樺沢経由でもあるまい。となれば、山登りをする人のあこがれのルート、そう北岳バットレス経由がよかろう。
ただし、北岳バットレスはもっとも容易な第四尾根にしても本格的なクライミングルートであり、ビレイシステムに習熟していることが最低条件となる。本番クライミングの経験が全くない女房はビレイシステムなる物を知らない。会社から帰宅して真夜中、自宅に設置してある人工岩壁で女房に本番クライミングのビレイシステムを教える。理解力の高い彼女はすぐに理解してくれた。まぁ少々不安だが、現場で再チェックしながら登ることにしよう。
おりしも秋の移動性高気圧が大きく張り出す気配を見せており、素晴らしい登山に期待が高まった。
塾があるためにお留守番となった中学生の娘二人は
「いいなぁ。行きたいな。帰ってきたらお話を聞かせてね」
と弟に頼んでいた。

9月22日

朝7:00うらやましがる娘二人と心配そうに見送る私の母に元気良く手を振る小学4年生の孫。アクセルを緩やかに踏みながら四街道をデリカで出発。
笹子トンネルの手前では小雨さえ降っていたが甲府盆地に入ると青空が広がっている。真正面に見える北岳を含む南アルプス白根三山は雲に隠れているが天候はこれから良くなることだろう。案の定、南アルプススーパー林道に入ると雲もどこかへ消え去り、文字どおりの快晴となった。
13:15広河原に到着。運良く駐車場に空きスペースがあり車を駐車させることができた。
今回の登山は初日に白根御池まで上がり、そこをベースキャンプとして北岳バットレス第四尾根経由で北岳に登頂しようという計画である。
従って登攀用具一式がザックの中に入っている。今回も私のザックは 32kgの重量となりひざがプルプルする。実は今年の1月に86kgあった体重を減量によって71kgまでしぼったので、さぞかし楽に登ることができるだろうと楽しみにしていた。楽しみにしていた割には苦しい登りだった。薄暗くなる前の16:30に標高2,234mの白根御池へたどり着くことができた。ザックの重量と年齢を考慮すれば、三時間で登れたとはまぁまぁかな。
白根御池の幕営地は数十張りの天幕で埋まり、大変な混雑である。下地が斜めに傾いている場所しか空いていない。やむを得ず、斜めの斜面に天幕を張る。
非常に寒い。この寒気を予想していた私たち家族は全員ダウンジャケットを持参していたので震えずにすんだが、おそらく明日の朝は氷がはるだろう。
北岳バットレスには三日月がかかり満天の星空だった。

9月23日

3時起床、寒い。天幕のエントランスから顔を出し、空を見上げるとプラネタリウムのような夜空が広がっている。水筒の中の水が一部凍結していた。昨夜のうちに用意してあった朝食を簡単に済ませる。息子は寝ぼけていて食欲がないので、ウィーダーインゼリーを飲ませる。
4:00真っ暗な中を懐中電灯の明かりを頼りに北岳バットレスへ向かって出発。
ひとまず、大樺沢二俣を目指す。 30分ほど歩くとエンジン発電機の音が聞こえてきた。こんな所に山小屋はないはずだが?といぶかっていると、大樺沢二俣のトイレの前に出た。これが山岳雑誌にも掲載されていた大樺沢二俣のトイレか。このトイレが設置される以前は万を超える登山者による糞尿はすべて大樺沢へ垂れ流ししていたわけだ。すごいね。数万人の糞尿?すさまじい量だ。おえー!
だが、このトイレは税金で設置された物。本当にこれでいいのかな?糞尿を垂れ流した私たち登山者が経費を負担すべき代物なのでは? ヨーロッパアルプスのモンブラン山群では、フランス山岳会に年会費6,000円を支払えば誰でも入会でき、それを原資にして山小屋を運営することにより山小屋の宿泊料金は食事付きで1,500円、さらにヘリコプターによる監視・捜索・救助やゴミの搬出も同時に行っている。だからモンブラン山群を登るときに6,000円を支払わないのはかえって損というような仕組みになっている。決して強制的に入山料を徴収するのではなく登山者に十分メリットがある制度の導入が必要なのではないのかな?
大樺沢のトイレのエンジン発電機の低音を聞きながらそんなことを思った。
懐中電灯に照らされる大樺沢にはまだ雪渓が残っている。その右側の登山道を霜柱を踏みしめゆっくり登っていく。
前回、北岳バットレスを訪れたのはかれこれ20年以上も前のこと。しかもその時は雨の中での日帰りクライミングだった。はっきりとアプローチを覚えていない。暗闇で右往左往することを恐れ、バットレス沢の出合いで夜明けを待つ。
夜と朝の境目が美しいグラデーションとなって天を覆う。懐中電灯をザックにしまい、ヘルメットを装着し、バットレス沢とc沢の間の尾根を登り始める。ハッキリとした登山道状態になっており歩きやすい。
見上げると朝日に照らされて北岳バットレスが真っ赤に染まっている。
b沢の大滝に7時到着。
すでに複数のパーティーが先行して取り付いており、待つ。みるからに初心者と思われる女性登山者。そして私たちの直前にはおじさんクライマー4人組み。私たちのすぐ後には一人できている男。
「ソロですか?」
「ええ」
「これからどこへ?」
「中央稜へ」
「ソロなら先に登って下さい」
「えっ?ありがとうございます」
2ヶ月前の7月25日にヨーロッパアルプスのミディ北壁でソロクライミング中に墜落死した鈴木謙造君を思い出した。あの好青年鈴木謙造君が死んだなんて今でも信じれられないし、反面あれだけの過激なクライミングをしていたのだからいつかこのような結末が来るのでは?と案じてもいた。
複雑な気持ちでソロクライマーを見送る。
8:00クライミング開始。
岩も硬く、難易度も低い。しかしながら先行パーティーの中にへたくそなやつがいるらしい。派手な落石を引き起こしてくれた。
「ラク!」という声が岩壁に響き、それと同時に漬物石のような岩の固まりがうなりをあげて落ちてくる。周りの岩に破片を飛び散らせながら弾丸のように飛んでくる。息子や女房に当たるのではないかと心配して背筋が寒くなった。
山仲間とのクライミングだったら、すかざず
「バカヤロー、このへたくそが、てめぇそこで待ってろ!」
とどなりかえす所だが、今日は私も少し上品だ。
2ピッチでb沢大滝を終了。
「手を掛けるところも、足を掛けるところもないのにどうやってお父さんは登ったの?」
「テクニックだよ」
息子にとってはそのように感じられたらしい。自宅の前傾したクライミングボードではデッドポイントやランジなどの信じられないようなパフォーマンスを演じてくれるというのに。
b沢をコンティニュアスで少し登り、落石の巣となっているc沢を横断する。赤ペンキで「4オネ」などと書いてある。だれが書いたんだろう。それだけ迷う人が多いのかな。
少しじめじめした第四尾根一ピッチ目に取り付く。階段状のフェイスクライミングをたった10m登り、あとは踏み跡を30mトラバース・・・。あっけない。
たどり着いたところは広いテラス。富士山が真正面に雪を戴いて見える。初冠雪があったようだ。
テラスに着いてみると、すでに数パーティーが順番待ちをしており、その中には先ほどb沢の大滝で私たちの前を登っていたおじさん4人組の内の先行の二人の顔も見える。しばらくして残りの二人もやってきた。
北岳バットレスを一生のうちで一度でいいから登りたいと願っている登山者は数知れない。そのために精進しやっとの思いでやってきた憧れのバットレス。ところが登りついてみるとテラスに小学生がちょこんと座っている。しかもその小学生は自分たちよりも後に登りはじめたはず。申し訳ないような気がしてくるが、彼らがルートの取り方を間違えたに過ぎない。
順番を待つことしばし、おじさん4人組の先行二人と遅れた二人の間にはさまれる様にして私たちの順番がやってきた。
先行の二人が登り終わったあと、遅れた二人に
「先に行ってもいいですよ」
「え?」
「だって同じパーティーなんでしょう」
「ありがとうございます」
その後、このおじさん4人組とはビレイポイントでくっついたり離れたりを繰り返した。
さて、2ピッチ目は少し難しい。スリッパタイプのクライミングシューズをはいている私はクラックに足を入れるのが苦痛であった。
そのあとは走るようにして登る。私の登り方が速すぎるので、女房はロープを繰り出すのが間に合わない。しかしながらいくら速く登っても先行パーティーが多くビレイポイントが空くまで何度も途中で待つような状況。日没までに安全圏へたどりつくことができるんだろうかと少々不安になる。
今回のクライミングは三人で登るので45mのロープを二本用意し、それぞれを女房と息子に結んである。もちろん二本とも私にもつながれている。まず最初に私が登り、ツインロープ形式でカラビナにクリップし、息子がセカンドで続く。 しかし子連れの三人パーティーでのツインロープは失敗だった。ツインロープではロープがよじれるのを制御しにくい、正確にいえば2本のロープを1本のロープとみなして扱うために多少のよじれは関係ないのだ。このよじれが子連れの三人パーティーでは厄介な問題となる。子供はロープを跨いだり潜ったりというのが上手にできず、往生した。むしろよじれが許されないダブルロープであれば、右と左に正確にロープを振り分けながら登るのでこのようなトラブルは避けられたであろうと反省した。
さて、息子が私のところまでたどり着くのを待って、最後にギアを回収しながら女房がフォローする。女房が私の所へ登りつくと、女房が回収したギアを受け取り、すぐに私が次のピッチを登り始める。これの繰り返しである。女房はギアを渡した後で1分くらいは休むのではないかと期待しているようだが、そういうことは終了点までありえない。ギアを渡された瞬間に私は次のピッチへ向かう。呼吸を整える時間さえ与えられていない。ところが前方は交通渋滞中、フットホールドに立ち込み長いときにはそのままで30分以上待つこともあり、ビレイポイントのテラスで女房をもう少し休ませてやればよかったかなと思ったりもしたが、これまた後続のパーティーがテラス直下で待っており、テラスを早く開放しなければならない。すぐに登り始めるのはある意味しかたがないのだ。
いずれにしても、通常の登山道を利用した登山と異なり、数百メートル、長くてもせいぜい千メートル程度しかないクライミングでは終了点までいかに集中力を維持し続けることができるかが生死を別ける。凝縮された緊張と集中。フリークライミングともなると、このような緊張と集中がたった20mの中に凝縮されているのである。山登りの価値はこの生死を分けるという緊張感の質と量で決まる。これがクライミングいや"登山"の醍醐味なのかもしれない。
さて、ちまたで第四尾根の核心部とも言われる5ピッチ目の取り付きのテラスに到着した。
ここから「マッチ箱」と命名された巨大な岩塔のてっぺんへ向かう。このピッチはスパイスの効いた出だしの三角形の垂直のフェイスから、岩の堅いナイフの刃のようなリッジを馬乗りになりながら登る。例えてみれば東京タワーを二段重ねて、その最上部で斜めの平均台に馬乗りになって這い登るようなものだ。まぎれもなくバットレス第四尾根のハイライトともいうべき個所である。
「マッチ箱」のピークは青柳健がいうところの「天の匂い」のする場所だ。天を突き刺すように聳える岩の柱とさえぎるものさえない空間。
さて、その空間を楽しんだら、いよいよ問題の「マッチ箱」からの懸垂下降だ。
女房も息子も懸垂下降のやり方を教えていないからやり方を知らない。そこで、懸垂下降支点に下降器をセットし、二人を吊り下げながらおろすことをあらかじめ決めてあった。
このプランはことのほかうまくいった。ジュバルツカンテを登っていた他のパーティーは、いきなり空中から小学生がやってきたので心底驚いていた。
私は別の意味で驚いた。20年以上前にあった「マッチ箱のコル」が崩壊して消えていたことである。山岳雑誌でコルが崩壊したことを知ってはいたが、これほどまでに完全に消滅しているとは予測していなかった。
懸垂下降後に着地したシュバルツカンテ上部のビレイポイントから終了点までは残すところ2ピッチ。先が見え、日没前に山頂に立てることがはっきりしてほっとする。
ちょうど日が陰りはじめ、光と影の境界線を「マッチ箱」の岩塔を背景にして息子と女房が登ってくる。
おぉフォトジェニック!夢中でシャッターを切る。
終了点に付いたのは15時。
露出感の高いリッジクライミングから開放されて女房はほっとしているようだ。不安定なリングボルト2本だけの終了点で水を飲む。さらにロープをつけたまま40mほど登ると畳六帖ほどもある安定したテラスがあり、そこから北岳山頂へ登山道のような踏み跡が続いている。いわゆる安全圏にたどり着いたわけだ。
ギアをザックにしまい北岳の山頂へ向かう。山頂まで標高差約150m。たった150mだが標高3000mの高所では空気も薄く結構な重労働だ。
息を切らせながら山頂へ躍り出ると西日が全身を包み込んだ。我を忘れてかなたを見る。空気は澄みきり、遠く北アルプスの槍ヶ岳を目視することもできる。
北岳山頂でしばらく休む。30年以上山を登り続けているがこれほどまでに澄み切った秋の空は記憶にない。西日を浴びながら北岳肩の小屋へ向かう。肩の小屋でご褒美として息子に缶ジュースを買って与えた。嬉しそうに飲んでいる。16時肩の小屋を後にする。
さてこれからの下山ルートだが「草すべり」を使う予定だ。西日が強く直射している小太郎尾根の稜線から、日陰の「草すべり」へと下りはじめた。色づき始めた岳樺が長い影を斜面に落としている。
秋の日の下山、ベースキャンプへの下降。子供の頃、遊び疲れた夕暮れ時に家路を急ぐ。吐く息が白く手も冷たい。一番星がまたたく夕焼け空の下で友達と別れ一本道をひたすら歩く。白熱灯に照らされた家に辿り着ければあったかいお風呂とご飯が待っている。父と母が待っている。そんな幼い日のことを思い出しながら路傍に腰を下ろす。息子も女房も吐く息が白い。だいぶ気温が下がってきているようだ。
日没の17:30を経過しても白根御池に着かない。親子三人で力を振り絞ってひたすら歩く。17:45になって白根御池の幕営地を見下ろす地点まで下りついた。
ベースキャンプにたどり着いたのは、真っ暗になる直前の18:00。
この山域でヘルメットをザックに括り付けているということは北岳バットレスを登ったということを意味している。白根御池の幕営地の中を私たちの天幕へ歩いていると、小学生の息子のザックにヘルメットがぶら下がっているのを見た登山者達が騒然となった。なかには「子供が本当に登ったんですか?」と大声を張り上げる人もいた。
白根御池小屋でビールを買い求め女房と二人で乾杯する。確かに寒いが、それでも昨夜に比べると冷え込みはさほど厳しくない。
さすがに14時間行動。全員疲れていた。簡単な夕食を済ませ早々に就寝となった。

9月24日

下山は楽?ところが結構疲れた。昨日の疲労が残っているのだろう。標高2,000mから1,700mへの下りが腰痛を再発させ、きつかった。
帰路の南アルプススーパー林道から北岳を望むと雲一つなく、バットレスに昨日登ったことがすでに遠い過去の事のように思われてならなかった。

帰宅してから私の母が女房に聞いていた。
「あぶない目に会ったんじゃないのかい」
「いいえ、クライミングのビレイシステムは、二重三重に安全が確保されているのでかえって安全でした。むしろ登山道を使った今までの山登りがいかに危険かということがわかって、かえって恐くなりました」
わかってくれましたか、だからビレイシステムの管理下にないアプローチと下降路で事故が起こるんだよ。
参加者:賀来素直(小学4年)、賀来幸子、賀来素明