2002年春

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春の丹沢

水無川本谷
2002/4/6
参加者:賀来素直(小学校5年)、賀来素明

今年は春が早い。3月下旬から初夏のような陽気が続いた。
春分の日の飛び石連休に休暇をとり父の墓参りをかねて大分中津に帰省した折り、足を延ばして竹田の岡城を訪れた。桜が満開だった。
無機質な人工都市、幕張の高層ビルディングにある職場のオフィスから見下ろせる隣のビルの庭のつつじもすでに赤い絨毯のようである。
「今年のゴールデンウィークはどこへ行こう」という話題が職場でもちらほら聞こえる時期となった。そんな話題を聞いていると「あぁ山へ行きたい」との想いがどうしようもなく膨れ上がってくる。
金曜日の夜、帰宅して晩酌をしながら山のことにあれこれと思いをめぐらす。日曜日には所用があって家にいなければならないが、それにしても山に行きたいものだ。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、はたと思いついた。そうだ、丹沢へ行こう。水無川周辺なら四街道から140kmに過ぎない。朝4時に出発すれば、事故渋滞さえなければ7時には登山口に到着でき、山中で7時間過ごしたとしても明るいうちに自宅へ帰着できる。
「モト君、あした山へ行かないか?」
「うん、行く!」
「よし、じゃぁ明日の朝は4時に出発だ!」
さてどこへ行こう?そうだ水無川本谷にでも行ってみよう。1972年に始めての単独行で登って以来・・・そう30年ぶりに訪れてみよう。
もう夜遅かったが、山道具用の倉庫からギアを引っ張り出し、家にあったお菓子類をザックに詰めてフォレスターに積み込む。

4月6日

目が覚めた。寝ぼけた目で時計を見ると6時50分。
「やばい!早く起きて出発しよう」
速攻でパジャマを脱ぎ捨て、フォレスターを発進させたのは10分後の7時だった。
ところが、事故渋滞などもあり結局、戸沢の登山口に到着したのは11時。どうしようかな新茅ノ沢へ変更しようかな?源次郎沢にしようかな?モミソ沢で我慢しようかな?などと迷う。陽のあるうちの自宅への帰着をきっぱりあきらめ、当初の予定通り「水無川本谷」へ行くことに決める。
それにしても先ほど立ち寄った「大倉」の変貌振りには驚いた。何年位前にこんな近代的な施設に変貌したのだろう。そういえば前回丹沢を訪れたのも思い出せないくらい昔のことだ。これから登ろうとしている水無川本谷も大変貌しているのだろうか。
初夏を思わせるような日差しの中で戸沢の小屋の前の八重桜が満開である。道すがらの林道は芽吹き直前の木々でトンネルのようになり、いやがうえにも心が高揚する。
スミレの咲く登山道を汗ばみながら息子と上流へと向かう。こんなに堰堤があったっけ?というほどに堰堤が連続した。堰堤がある沢は必ずいずこかに古い林道があるものだ。沢へはすぐには入らず林道を拾いながら上流へと進む。巨大な堰堤前で右岸に鎖場がありここが登り口だと教えてくれている。堰堤の銘板を読むと昭和50年代に作られた比較的新しいものだった。
堰堤下で息子とロープを結ぶ。
空にはうす雲がところどころにかかっているが、暖かい日差しに、水音すらもぬるんで聞こえる。のんびり休みながら登っていく。
F1、F2、F3、F4、F5と順調に越え、書策新道が交差。のんびりと岩の上に腰掛けてお菓子を食べる。家に電話をすると谷間なのに通じた。
さて歩きにくい河原をややうんざりするほど歩いて行くと、私にとって忘れがたいF8に到着した。
30年前、そう高校2年生の1972年11月3日のことだった。
佐倉高校山岳部報「恋人」に掲載されている当時の記録をひもといて見ると、その日は9時に大倉のバス停に降り立っていた。戸沢までの長い林道を50分かけて歩き、秋の冷たい小雨がそぼ降る中、水無川本谷に入渓。折りしも渓谷は紅葉の盛りを迎えていた。初めての単独行の切々たる想いが気恥ずかしい様な文体で記述されてはいるが、まったく真摯な記録で今読んでみても「あの日に帰りたい」と思わずにはいられない。そんな始めての単独行は晩秋の冷たい雨に打たれながらもF8までの間の全ての滝を直登することを山は許してくれた。クライミングの恐ろしさを何も知らぬ少年の日の私は、なんのためらいもなくF8の直登を開始した。
過激な山登りの最初の5年。このときの経験を振り返って見るとあのときに死んでいても当然だったように思え、F8が私の墓所のようにも感じられる。
現実の世界に戻ることにしよう。
さて、目の前のF8だが巻くにしても、30年前は直登しているので巻き道を知らない。向かって右にあたる左岸のガレを登るのかな?とも思ったがザレており足場が悪い。ボロボロだ。ピッケルでステップを切りたいくらいだ。登攀用の短いシャフトのピッケルを持ってこなかったことを後悔した。息子を連れてこんな不安定なザレ場を登るわけには行かない。本流を30mほど下降して左岸のスラブを登り始める。安定した岩場であれば、落ちることはない。ところが岩場がところどころ切れて不安定な土の斜面が出現する。これには肝を冷やした。なんだかいやになってきた。潅木帯にたどり着いたときにはほっとした。笹薮もはげしくなってきて暑い。懸垂下降で本流に戻ろうという気も失せた。そのまま藪を登っていく。
表尾根の稜線にでたのはすでに15時。戸沢から4時間が経過していた。いつのまにか青空はどんよりとした高曇りとなり、稜線には冷たい風が吹いていた。左手に見える塔の岳へ向かう。息子はすれ違う中高年の登山者に「えらいねぇ」などと声をかけられ、嬉しそうにしている。塔ノ岳の山頂は冷たい風がビュービューと吹き荒れていた。高曇りの空に富士が良く見えた。逃げ込むように尊仏小屋へはいる。
尊仏小屋は感じのいい小屋である。数ヶ月前に読んだ「山小屋の主人の炉端話」に執筆いていた主人が息子に「本谷登ったのかい?楽しかったろう」と愛嬌のある髭面で話し掛けていた。
16時、息子に防寒着を着せて大倉尾根の下降を開始する。この大倉尾根の下降路の整備にも驚いた。階段状に登山道が整備されているのである。花立で大休止。なんだか疲れたなぁ。丹沢だといっても標高差900mあるんだもの。一ノ倉沢とさほど変わりがない。
天神尾根経由で、息子とよれよれになって戸沢の駐車場にたどり着いたのは17時30分。
黄昏始めた山の大気の中で、戸沢の小屋の八重桜は際立って凛と咲き誇っていた。

※F8は私にクライミングの本当の恐ろしさを教えてくれた。この時F8が教えてくれた恐ろしさは、今でもふと夢に見るほどのものだった。その後、30年にわたり山登りを続けてきた私だがF8が教えてくれたことは、本当のことだとその後修羅場をいくつか経験してつくづく実感している。

----次に水無川本谷を訪れる人のために----

F8を30年ぶりに訪れて思いました。水無川本谷は本流をF1からF5までたどり、書策新道が交差する地点で遡行を打ち切って書策新道を利用して稜線に出るもよし、戸沢に下山するもよし、そうすることにより更に「インタレスト・グレード」の高い山行となるのではないかと感じました。
もしピークハントにこだわらない、あるいはこの手の山登りをハイキングと同列に扱うことができるというのであれば、このプランをお奨めいたします。F1からF5までの遡行に滝登りの醍醐味が凝縮されており、F6以降はあまり楽しいとは感じませんでしたから・・・。