2002年ゴールデンウィーク

春の北鎌尾根

北アルプス
燕〜貧乏沢〜北鎌尾根〜槍ケ岳
2002/4/27〜5/1

5月1日22時30分。
たった今、家に帰り着いた。軽度の凍傷を負った指先のジンジンとした痺れがキーボードを打ちながらも、ほんの28時間前の記憶をはっきりと呼び戻させてくれる。偶然出会った土橋さんと齋藤さんの三人で北鎌平から槍の穂先経由で肩の小屋へと逃げ込むまでの5時間のことが・・・。

計画の始まり

今年の五月連休は三日間の出勤日を挟んで前半・後半に分かれている。例年通り後半の四日間は家族全員で那須へキャンプの予定だが、前半の三日間が困った。当初は家族でどこかへ山登りにでも行こうということになっていたが、長女・次女・女房それぞれに行事が入っており一緒に行けないことになった。
唯一フリースケジュールである小学校5年生の息子は、二泊三日ともなると母親がいないと元気が出ない。
悩みに悩んだが「よし今年のゴールデンウィークの前半は久しぶりにお父さん一人で楽しませてもらおう」という手前勝手な結論に達した。ではどこに登ろうか?何か手ごろなルートはないかなぁと物色していると、ありましたぴったりのやつが、難しすぎず、かといって安易でもない。倉庫で埃をかぶった数足の冬靴の中からアゾロをチョイスし、準備を開始した。女房は不安げに計画を眺めていた。

4月26日

新宿23時50分発急行アルプス。昔は23時55分発の夜行普通列車があったが今はこれにとって替わられている。連休初日にもかかわらず、列車はガラガラでリクライニングシート二座席分を一人で占領しゆったりと穂高まで向かうことができた。不安がないといえば嘘になるが、緊張感といったものはほとんど感じない。まるで仕事で出張にでも行くような気分だ。

4月27日

JR穂高駅から中房温泉までは乗合バスというのがあったが、5人まとまったのでタクシーで入る。登山口では雲が山々をおおっていたが合戦尾根を登っていくうちにいつしか五月晴れの快晴となり始めた。
軽量化したつもりだったが、ゴールデンウィークは冬と春が同居した厄介な季節。冬と春の装備を備えなければならない。ザックは冬用の大型シュラフを筆頭にずっしりと22kg。途中何があっても対処できるよう充分にして不足のないクライミングギアと燃料・食料。
「これからどこまで行くの?」 
「槍の方まで・・・」 
「そりゃご苦労なことだなぁ、俺達は小屋泊まりで燕岳往復だからそんなに急いで登ったってやることがないんだぁ」
途中で「丹沢山岳会」の刺繍の入ったカッターシャツを着用した50年配の二人の登山者と楽しく話しながら登る。
合戦小屋でアイゼンを装着したが、二三歩登ってゼイゼイと病人のような息遣いで我ながら情けない。燕山荘に到着する頃には疲労困憊の体たらくだった。
燕山荘の冬期小屋入り口前の稜線にザックを投げ出し、しばし呆然となる。はぁ疲れた。ここまではたくさんの登山者がいるがここから槍ケ岳方面への稜線へ踏み出そうという登山者は誰もいない。だれか行くパーティーはいないのかなぁとグズグズ30分もあたりを見回していたがあきらめてアイゼンをはずし歩き始める。
蛙岩は冬期ルートの狭い穴に大きなザックがつかえて苦労した。誰もいないし、誰もこない。大下りの頭で再び昼寝。なんと心地よい青空よ!うとうとしていると遠くから話し声が聞こえる。燕岳方面を見ると二パーティーがやって来る。青年二人組と中年二人組。
青年二人組との会話
「君たち元気がいいね」
「あはは・・・どこへ行くんですか?」
「ちょっと槍の方へ・・・」
「僕たちは常念岳です」
二パーティー共に追い抜かれる。為右衛門吊岩を過ぎたところで中年組に追いついた。ここでビバークするとのこと。そうだよねこれから大天井岳まで行くのはしんどいもんね。できれば私もビバークしたいな。
切り通し岩の手前で大天井ヒュッテへのトラバース道をしげしげとながめると、なんだかやばそうな雪壁のトラバースが見える。こんな重荷であのトラバースができるんだろうか?少々不安になる。できれば運は北鎌尾根まで使い果たしたくない。
傍らにいる青年組に正直につぶやくと「冬は直登ルートを使うって書いてありましたよ」と明るく答えてくれた。
直登ルート?なんだそれ?直登ってのはダイレクトあるいはデイレッティシマっていう意味だろうけどそんなの聞いたことがない。大天荘への夏ルートも雪壁にさえぎられている。つまり切り通し岩から右へのトラバースも左へのトラバースへも途中に厄介な雪壁が障害となって立ちはだかっており、まっすぐ大天井岳の頂上へ行くしかないということを意味して「直登ルート」といっているらしかった。
北鎌尾根のルートに関しては「岳人396号」を初めとして各種文献を探りある程度の研究を済ませていたが表銀座コースの冬ルートに関しては何の調査もしていなかったのだ。今日の予定は大天井ヒュッテを経由して貧乏沢を下降する予定だったがこの瞬間にもくろみは崩れ去った。大天井岳の頂上を経由するなんてぞっとする・・・トホホ。風は冷たく難儀な直登ルートは続く。夜行列車の寝不足もたたりふらふらだ。青年組の後を追いながらやっとのことで大天井岳頂上経由で大天荘前の幕営地へ到着した。
ここ大天荘前の幕営地は標高2,900mの吹きさらしで雪が飛ばされ、地面が露出している。あわよくば冬期小屋を利用したいと思っていたが冬期小屋の戸をあけると悲惨なくらいに雪が吹き込み使用に耐えない。奥穂の冬期小屋のような快適な環境は望むべくもなかった。
青年組はすでに冬用の外張り付き天幕を張り終え愉快そうだ。楽しくてしかたがないのだろう。あんな日が私にもあったなぁとうらやましい限りだ。疲れて雪を溶かしての調理も大変な重労働に感じる。フリーズドライの豚汁やスープを飲んで、今山行の目玉ディナー「レジネッレ・アラビアータ」の登場である。職場近くの「カルフール幕張店」のイタリアンフェスタで1袋138円で購入した「7分で本場イタリアの味」である。まずくはないが辛い!羽毛服を着込み厳冬期用のシュラフに潜り込んでもしばらくは足先が冷え切っており寝付かれなかったが1時間後にはぽかぽかとぬくもり始めいつしか深い眠りに落ち込んでいった。

4月28日

月明かりでテントの内部が明るい。通常なら2時起床でがんばるところだが、昨日のハードワークがたたったのか体が鉛のように重く、夜が完全に明けてからシュラフから這い出た。
水筒の中の水は凍結し、外の雪も堅く凍り付いて水を作るのも一苦労だ。安易な朝食インスタントラーメンを作るがあまり食欲がわかない。
青年組は早くも支度を整え「お気をつけて・・・」と楽しそうに常念岳へ向かって出発していった。
テントのフレームのスパイクに付着した泥が堅く凍り付いてはずれず、もたもたしていた瞬間に就寝用のマットが風に吹き飛ばされていった。あぁぁ・・・グスン今日から寒い夜だ。
6時30分、大天井ヒュッテへ向かって歩き始める。
夏の通常ルートを見下ろすと雪もなく問題なさそうに見える。しばらく下ってリブを回り込むと雪のトラバースが待ち構えていた。こりゃだめだと一旦、大天荘まで引き返し、しかたなく大天井岳山頂経由で大天井ヒュッテへ向かう。このルートはノーアイゼンで問題なく下降することができた。
大天井ヒュッテは屋根の部分を残してほぼ雪に没していた。屋根の上に腰を下ろし貧乏沢の最低コルまでの夏のトラバースルートを見るとこれまた広大な雪の斜面になっている。ここから稜線を忠実にたどり、2,766m峰を越えて行かねばならぬようだ。早速ヒュッテ前の急斜面に取り付く。
早くも陽光に照らされて雪はグズグズ状態となりステップが崩れ、時には腰あたりまで埋まってしまう。この労力たるやうんざりするほどだ。膝で雪面にかかる力を分散させながらじりじりと進む。夏なら20分でたどり着ける最低コルまで1時間半もかかってしまいヘナヘナと座り込んでしまった。この表銀座コースは夏であれば人通りの多い縦走路だが、今は誰の足跡も見当たらず、ゴールデンウィークというのに私だけだ。例え北鎌尾根に向かわずとも表銀座コースを槍ヶ岳まで縦走する困難さを改めて実感した。
最低コルから貧乏沢側の這い松の茂みに入り、ザックにどっかりと腰をおろしのんびり一服する。山がよくみえるなぁ!たった一人ぼっちでこんな所にいる自分になんだかうれしくなってニヤニヤしながら貧乏沢の下降を開始する。貧乏沢は案の定、急峻なスロープになっており寝転んですべって行く。途中で岳樺の木に激突しそうになったので自重してゆっくり下る。あっという間に天上沢出合いに到着した。ものの30分もかかっていない。
天上沢は水流が露出しており徒渉の難儀さが思われたがしばらく上流へ向かって歩いていくと危なげなスノーブリッジが懸かっている。水流に落ちたくないので慎重に恐る恐る渡る。
川岸の岩に腰をかけて昼食だ。水がふんだんにあるので早茹でスパゲッティにインスタントミネストローネを絡ませて、食べる。こりゃうまい。
ここから天上沢の水流は完全に雪に埋まりどこでも歩いて行ける。沢筋なので両岸からの雪崩を心配していたが沢幅が広大でその心配は無用だった。時々雪を踏みぬくのが疲労を倍加させてくれる。20分も歩くと前方にかなり大きなデブリが押し出しているのが見える。高さは10m以上ありそうだ。このデブリを押し出しているのが北鎌沢である。正面へ回り込むとゆるく右へカーブしながら稜線へ向かって突き上げているのが見て取れる。全体的に傾斜はさほどでもなく、冬のルンゼ登攀の経験者から見ればただの滑り台という印象であるが、中ほどにはところどころ茶色に汚れた部分があり、上部からの落下物が堆積しているようで要注意である。
アイゼンを付けて早速登り始める。腐り始めた雪にところどころ膝あたりまで落ち込む。この落ち込み方が、調子よく二三歩行くと突然踏み抜き、そしてその繰り返し。腹立たしくなってくる。ついに300mほど登った地点で癇癪を起こしてしまった。誰もいない山の中で癇癪を起こしても何の解決にもならないのだが、本当に腹が立つ。これは早朝の雪のしまっている時間帯に登らねば稜線に出る前にバテきってしまう。時間は14時と早いが、明日の好天を予報していることもあり休養を兼ねて北鎌沢出合へもどり、天幕を設営する。
風もほとんどなくうららかな春の雪原にはられた小さな黄色いテント。天幕の出入り口から空を見上げると白い雲が流れ、谷の奥には槍ヶ岳の穂先が頭を覗かせている。

4月29日

快晴である。気温もぐっと冷え込んだ。
6時20分露営地を後にする。昨日の折り返し点を過ぎしばらく行くと雪面にステップの痕跡がある。大天井岳からここまで先行者の痕跡は皆無だったのに、いつ追い抜かれたんだろう?それとも昨日私がテントの中で昼寝をしている時に抜いていったのだろうか?このなぞは後程判明するのだが、その時には皆目見当もつかなかった。
しかもこのステップ、微妙に私の歩幅と間隔が違う。やや大股なのだ。その上、立ち止まった形跡がほとんど感じられない。先行者は恐らく30代の油の乗り切ったクライマーではなかろうかと想像を膨らませた。
北鎌沢の最上部は真ん中にインゼルのように小さな尾根が張り出し二股に分かれている。左手のほうが開けていて本流のように見えるが、ステップは尾根の右手の沢をたどっている。
途中二回ほど落石があり、とっさによけながら3時間かけて北鎌のコルに到着。コルは多量の雪で埋まりここでの露営はスノースコップでプラットホームを削り出さねば不可能だ。実際先行者は北鎌のコルの20mほど上にきれいにテラスを切って幕営したようだ。
振り返る北鎌尾根の下半部からの稜線にはトレールはなく、湯俣からの入山者がいないことがはっきりとわかる。連休後半にならぬと入山してこないのだろうか?27日に入山していれば連日の好天に恵まれ、すでに北鎌のコルに達していてもよさそうなものだが、ゴールデンウィークの有名なクラシックルートに人がいないとはちょっと意外な気もする。
美しい雪稜が天狗の腰掛と呼ばれる2749m峰まで続いている。天狗の腰掛の頂上にたどり着くと目の前に独標が良く見えるようになる。今回参考とした文献「岳人396号」のグループ・ド・モレーヌの記録によれば雪さえ繋がっていれば独標は直登ルートが良いとの記述があったので気にしていたが、上手い具合に雪が独標頂上まで繋がっている。天狗の腰掛から独標手前のコルまで雪はなくアイゼンを脱ぐ。踏み跡は明瞭で、まるで一般登山道のようである。独標手前のコルには、だれかが這い松で焚き火をした痕がある。再びアイゼンを装着し独標へと向かう。
この直登ルートだけはロープを出す必要があるかもしれないと事前に予想していたがさほどでもなさそうだ。しばらく登山道を登り、天上沢側へと雪稜をたどり直登ルートを登り始める。
出始めのほぼ垂直の5mの雪壁がポイントのようである。這い松のテラスから五歩ほど左上気味にトラバースし岳樺へしがみつく。ここは雪が腐ってステップが崩れ時には腰まで陥没する。そこから傾斜70度の雪壁を5mほど登るとさらに雪壁は傾斜を増し胸に接するほどになってきた。終了点に手が届きそうだが届かない。右手に這い松があるので三歩右へトラバースし這い松にしがみつきほっとする。これで終わった。あとはなだらかな岩場と這い松と雪面をたどって独標山頂へと向かう。
独標からしばらくは雪がないのでアイゼンを脱ぐ。雪が消えると登山道が露出するので一気に行程がはかどる。おおむね稜線通しに二級を超えないようにルートを選んでいくが、これは簡単なパズルを解くようで結構楽しい作業だ。岩には冬の登山者のアイゼンの引掻き傷が多数残っており、ときにはこれを確認しながらたどっていくと不安なく登ることができる。時々千丈沢を絡みながらノーアイゼンでどんどん進む。プラブーツでも雪がないとこんなに楽なのか・・・雪のない時期に軽登山靴やジョギングシューズで歩いたらどんなに快適であろうかと思った。
しばらくのあいだどんどんピッチを上げて進んだが、再び雪稜に行く手を阻まれた。初めて天上沢側の雪壁を下降気味にトラバースしなければならない。アイゼンを装着し二〜三歩踏み出すと腰まで雪が陥没しうんざりさせられた。腰まで雪に埋まったままで、休憩していると前方のP14の稜線にキラリと光るものが見えた。先行者のピッケルが太陽を反射して光ったのだろう。先行者が視界の中にいると思うだけで何となくほっとする。このトラバースは一歩進んで膝まで陥没し三歩進んで腰まで陥没するというフテクサレたくなるような数十メートルだった。
たどり着いた小さなコルからステップは更に天上沢側をトラバースしているが、こんな疲れるトラバースはうんざりだ。小さなコルから稜線を乗り越し千丈沢側へ進むと、こちら側にも先行者のステップが続いている。どうやら先行者は二パーティーいるようだ。
今振り返ってみると、この後に続く急峻な雪壁のトラバースの三連発、この手の雪壁は通常は確保下で行われるたぐいのものであってそういった意味では、本単独行のハイライトだったように思える。
雪壁が胸につくようなトラバースの三連発をこなしガラ場を稜線に向かって登りなおす。気持ちの良い雪稜をたどり槍ケ岳を見上げる。シャモニ針峰群のようでもあり中々見栄えがする。もうすでに17時をまわっており、日没までに山頂を踏むことは絶望的になってきた。ヘッドランプを灯してのエレキ戦は必定だなとあきらめゆっくり登る。
ところがである!北鎌平の手前のコルに二人の先行者が設営の準備をしているのが見える。ラッキー!一人ぼっちの幕営も避けられるし、エレキ戦も避けられる。ラジオの天気予報は明日からの荒天を報じていたが、大天井岳から初めて登山者と会話を交わせる事に喜びを隠すことはできなかった。喜々としながら近づいていく。
「わぁーうれしい、久しぶりの登山者。隣にテントを張ってもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ。こっちにいいサイトがありますよ」
と彼等二人の登山者と言葉を交わして意外な感じがした。予想していたよりもかなりの年配者だったのである。
残雪期の北鎌尾根は技術より体力が優先されるとの認識だった。実際に登ってみての実感も体力勝負のルートに他ならないが、かといって単純に体力があるだけでは危険なルートである。そのようなルートに年配者?しかもザックは特大サイズ。
「ここで相棒が写真を撮りたいと言うもので、アハハ・・・」
とリラックスした感じで一人が言う。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
「千葉です」
「私たちも千葉なんですょ。千葉市と東金」
「えっ私は四街道です」
千葉市の土橋さんと東金の齋藤さんだった。ご両人は60歳と59歳。土橋さんは今年の3月に定年を迎えたという。
これを後ほど聞いて心底驚いた。私よりも14歳も年配者。私が60歳になったときにご両人のように果たして登ることができるだろうか?
46歳の私が中年登山者だとすると、二人は正真正銘の高年登山者といったところだ。
明日の天候が心配だがラジオの天気予報では「曇り」とのことで、槍ケ岳山頂まで標高差200m程度なのでなんとかなるだろうとシュラフにもぐりこむ。夜10時を過ぎてから突如風が強くなり始めた。テントのフレームが大きくしなり横殴りの雨が叩きつけ始めた。あきらめるような心持で眠りこけた。

4月30日

夜中の2時頃になっても一向に風雨は収まらず、外を見るとテントの張り綱に着氷が発達し直径10cmの氷の棒のようになっている。槍ケ岳への岩場もベルグラがはりついて最悪のコンディションになってしまった。今日は停滞だ。停滞の日は食料の消耗を極力抑えるために寝袋に入って寝転んでいるに限る。
明るくなってから土橋さんが
「2時までに天候が回復しなかったら停滞します」
とテントのベンチレータから口を出して叫んでいる。
「私も停滞します」
と大声を出して応えた。
みぞれ交じりの風雨が雨だけに変わったが、風は相変わらず強くテントのフレームが折れそうだ。雨具を着こんで背中でテントを支える。しかし冷たい雨はテントの布地を通して背中を冷やす。たまらなくなって雨具の下に羽毛服を着込み更にテントを背中で支え続ける。そんなことを11時頃まで続けていたが、しだいにどうでも良くなってきた。過去もっとすさまじい風に何度も遭遇したことがある。あるときなどテントを固定するための2tの過重に耐えられるはずのクライミング用のナイロンテープが強風で岩に擦れ、ブチッという音と共に切れたこともある。
ラジオではこれから寒冷前線が通過しさらに荒れると予報しているが、あらためてシュラフに入りなおしフテ寝を決め込む。
12時を過ぎて土橋さんの声が聞こえる。
「この風なら歩けないこともないので出発しようと思うんですが・・・」
こんなところでたった一人で残りたくない。
「私も行きます!私は岩登りが得意なので岩場ならリードしますから・・・」
と大声で応えた。
大急ぎで出発の支度を始める。支度ができて外に出ると土橋さんがやってきて天幕の撤収を手伝ってくれた。一人では天幕が吹き飛ばされていたかもしれないような状況だった。私も土橋さんの撤収を手伝う。齋藤さんのザックには大型三脚が括り付けられ、撮影機材などで膨れ上がっており、山岳写真の撮影とは、まったくもって体力勝負の難事業だとつくづく思わされた。
13時20分頃になって三人で出発。北鎌平へは目の前の岩場を登って行けばすぐのようにも見えるが土橋さんは
「ここから千丈沢をトラバースして登ると北鎌平のちょっと先へ出ることができるんですよ」
といっている。
「なるほどそういうルートのとり方もあるのかぁ」
と聞いていたが、反面そんなことまで知っているとは北鎌尾根の生き字引のような人だと感心してしまった。さっそく土橋さん齋藤さんそして私の順番で登り始める。
雨がほほを叩き水をたっぷりと含んだ雪はぬかるみ登りづらい。視界はきかないが、生き字引の土橋さんが先行するのでまったく不安がない。しばらく登ると確かに北鎌平の先に到着した。ここからしばらく稜線伝いに登り、途中から左へのトラバースを行う。トラバースは出だしで小さな雪庇を下るのだがこれがやばい。ロープをだして確実に行く。大きな岩の庇の下まで土橋さんが行き齋藤さんが続く。
土橋さんを確保しながら齋藤さんに恐る恐る尋ねた
「まさかとは思いますが今日もテントじゃぁないですよね」
元々別パーティーなのでお互いがどこに泊まろうとも関係ないといえば関係ないのだが・・・。
齋藤さんは笑いながら
「アハハ・・・まさか小屋でビールに決まってますよ」
「それを聞いて安心しました、あぁよかった」
だんだん傾斜も強くなってきた。持参したハンガロンの手袋は20年以上使っている年代物で指先が擦り切れ第一間接が露出している。何度も指を丸めて暖め直す。岩のピッチになると自然に私がリードする。岩であれば小さなホールドでも岩が崩落しない限り落ちることはないので安心して登れる。
足元の雪から空缶が露出し始め、いよいよ頂上が近づいてきたようだ。北鎌尾根が初めての私に土橋さんは気を使ってくれて槍ケ岳の穂先へのリードを私にさせてくれる。ありがたくリードさせてもらう。
齋藤さんが私のところへやってきて、
「白杭ですね。もう山頂はすぐそこですよ。夏ならば一般登山者がここまで下りてくるほどなんですよ」
という。
こんな不安定なところでも雪がなければ簡単なんだろう・・・。
18時、白杭から10mほど登ると槍ケ岳山頂の祠にたどり着いた。
三人で堅い握手をしたが、ものすごい風と雨で一秒たりともこんなところにたたずんでいたくない。とにかく寒いというよりも痛い。
そんな中でも土橋さんが
「せっかくだから写真を撮りましょう」といって私の防水カメラで撮影してくれた。
叩きつける風雨にまともに顔を上げていられない。山頂からの鉄梯子にも冬のベーリング海の漁船のように氷が張り付きこれを土橋さんが蹴落としながら下る。
すでに出発してから5時間が経過している。悪天候の中をよくもまぁ5時間も行動したものだと感心してしまう。
齋藤さんと
「もうすぐビールですね」
と話しながら鎖場を下っていく。
下を見るとガスを通して見慣れた槍ケ岳肩の小屋のヘリポートが見える。やっと小屋にたどり着いたようだ。
飛び込むようにして小屋の中にはいった。先行した土橋さんがコーヒーを注文してくれていてすぐにコーヒーが振舞われた。プラスチックブーツの中は水がたまっており、靴下を絞ると水が滴った。小屋の従業員が石油の温風バーナーをつけてくれ、ラーメンを作ってくれ、三人で缶ビールを開けて乾杯する。アルコールに弱い土橋さんも一緒にビールを飲む。偶然知り合った三人だったがまるで最初からパーティーを組んで登っていたかのようだ。
さて二日間用意していた予備日のうちの一日を食いつぶしたので女房はさぞかし心配していることだろう。土橋さんや齋藤さんの携帯電話は北鎌平手前のテントサイトから通話できたというが、同じドコモなのに私の電話はアンテナが三本立つにもかかわらず、電話をかけると圏外となってしまい女房に連絡することができなかったのだ。この手のトラブルはある程度予測していたので、財布の中にしのばせていたテレフォンカードで、小屋の衛星電話を使用して下山の遅れを知らせた。心配していた女房はほっとしていた様子だった。電話口で小学校5年生の長男が私と話をしたいと騒いでいる。10秒ほど息子と話をする。
ビールを飲みながら今回の土橋さん、齋藤さんのコースについて詳しく話しを聞いた。それによると彼らは上高地から入山してその日のうちに槍沢ロッジを経由し水俣乗越へ上がって幕営。翌日天上沢を下降して北鎌沢経由で北鎌尾根に取り付いたとのこと。どうりで貧乏沢から北鎌沢出合までトレースがなかったはずである。さらに詳しく聞くと貧乏沢経由よりも水俣乗越経由の方が良いという。たしかに湯俣から水俣乗越までは廃道となっているが、残雪期は歩きやすいのでお勧めのコース取りとのこと。彼らは昨年の秋にも同じコースで北鎌尾根を登っている。雪のない時期でも水俣乗越からの出だしの下りをしばらく注意すれば、さほど問題なく北鎌沢の出合までいけるという。
さらに土橋さんは冬の北鎌尾根をお気に入りらしく再三に渡り単独でアタックを繰り返しているという。今年の正月には痛い目にもあったそうで、
「この年になると厳冬期の北鎌尾根はやっぱり単独では無理かもしれないなぁ」
と笑っている。
いったい単独で北鎌尾根を春夏秋冬にわたって何回登っているのだろう?生き字引な訳である。
この土橋さんについてくる齋藤さんも齋藤さんである。山岳写真同人「四季」に所属している彼は、プロ用写真機材を一切合財背負って、土橋さんに遅れることなく山行をこなしているが、大型三脚をどっしり構えて、ベストショットの瞬間をひたすら忍耐で待ち続けるという時間的余裕を中々許してもらえず、10分とか20分とかで撮影しなければならないという。しかし、このようなバリエーションルートから撮影された本格的な山岳写真というのはそんなに多くないはずだ。
それにしても60歳になってこの驚嘆すべき体力。土橋さんの日々のトレーニングについて質問した。土橋さんはランニングとウェイトトレーニングを行なっているという。そうだろうトレーニング抜きにしてこのような山行は考えられない。
21時30分まで温風バーナーで衣類を乾燥させ食堂二階の山鳩という名の部屋へ落ち着く。暖房の効いた食堂の真上なので暖かい。強い風で山小屋全体がゴーゴーとうなっている。こんな天候下で山小屋に逃げ込むことができ何という幸せ。今日は午前中目いっぱい昼寝をしたせいか眠気を催さない。それでも窓に叩きつける雨音をきいているうちにいつしか眠りに落ちていった。

5月1日

目覚めると霧雨状態だが昨日のような強風は収まっている様子だ。
肩の小屋は北アルプスでも有数の大きな山小屋だが昨夜の宿泊客は6、7人で従業員が9人。夏期の殺人的な混雑時には従業員もあまりの忙しさに殺気立っているほどなのだが、今日の山小屋は嘘のように静まり返り、従業員も優しい。
朝食はとてもおいしく、三杯おかわりして腹一杯食べさせてもらった。食後、お互いのメールアドレスを教え合い、乾燥室に吊るしてあった天幕をきれいにたたみザックに詰め込む。小屋の中の安定した環境下でパッキングをするとザックもコンパクトにまとまる。
8時過ぎになって三人で下山を開始する。槍沢側へ下り始めるといつもの通り嘘のように風がない。途中から寝そべって急斜面を滑って下る。こりゃ楽だ。土橋さんはショートスキーに興味があるらしく盛んにスキーの話題を持ちかけてくる。私は札幌転勤生活で5シーズンほどスキー三昧をしてそこそこの腕前だが、とても山の深雪を滑るほどの技量はないので今一つ話題に乗り切れない。
槍沢ロッジまで来ると大規模な雪崩があったらしく、ロッジの一部が破損していた。帰宅後インターネットで槍沢ロッジのサイトに「風の被害があった」との記述を見たが単なる風とは思えない。何かが通過したように大きな針葉樹や岳樺が根元からそぎ取られるように一掃されているところを見ると赤沢山頂上付近から発生した百年に一度出るかでないかの「ホウ」の可能性も否定できないのではないか?小屋の壊れ方も槍ケ岳側の部分だけが削り取られるように喪失している。
そもそも槍沢ロッジは昔ババ平にあったと聞いているが何度か雪崩で崩壊したり、戦後まもなく心無い登山者の失火にて全焼したりなど紆余曲折を経て現在の針葉樹林帯に再建されたという。そういった意味で今年の大規模な雪崩による被害は関係者に大きな衝撃を与えたであろうことは容易に想像できる。
横尾まで来ると雪も完全に消え、ところどころ雪渓を横断したりはするが夏とほとんど変化のない状況となっており、三人でおしゃべりをしながら楽しく歩く。話をしているうちに土橋さんと私で共通の山仲間がいることがわかり大いに盛り上がる。河童橋について一息いれると穂高は雲が切れ、いつもと変わらぬ姿を私たちに見せてくれた。
一人であずさ号に乗る予定だったが、土橋さんと齋藤さんの好意で、四街道まで乗せていってくれるという。沢渡上の駐車場でバスを降車する時に齋藤さんのザックを持ったが、私のザックよりも重くて驚いてしまった。プロ用のカメラ等が入っているのだ。このザックでよくもまぁ登ったものだ。あらためて感心してしまった。
温泉に三人で入り、おいしいざる蕎麦を賞味し2002年ゴールデンウィークの山行を終えることができた。帰りの車中での土橋さんの孫の話も微笑ましく、本当に楽しかった。