2011年 夏 ヨーロッパアルプス

  

 

8月16日(日)快晴 シャモニ・フォルクラ峠・マルティニ・ヴィスプ・ターシュ・ツエルマット

良い天気だ。
一昨日、フランクフルト空港に到着した時には悪天のサイクルに入ったのではないかと心配したが、昨日の午後から好天のそれへと入ったようだ。
キャンプ場に移動パン屋さんがやってきた。キャンプしている人たちが行列して焼き立てのパンを買う。妻も並んでパンを買った。表面がカリッとしていて中はしっとりとやわらかい。病みつきになりそうなくらい美味しい。ツェルマットへ向かって車を発進させる。まずはマルティニだ。
鉄道線路に沿ってワインディングロードをゆっくりと登っていく。針葉樹と草原、そして点在する岩場がかもし出す風景はヨーロッパらしくてなんとも言えず素敵だ。フォルクラ峠を越えフランスからスイス領内へと下っていく。急峻な斜面には一面ブドウ畑が広がっている。マルティニでは線路脇にあるホームセンターに立ち寄って飲料水を買い求める。オートキャンプ用のテントが安い。渡欧してからこのようなテントを買い求めるというのもいいかなと一瞬思う。マルティニからヴィスプを目指す。
レンタカーにはGPSがついていないからミシュランの地図を見ながら妻がナビゲートしてくれる。道を間違えてはいけないと妻は真剣だ。それがとてもおかしくてうれしい。つまり一方的に私に案内してもらうのではなく、妻も一緒になってこの旅の成就に取り組んでいる、そう感じられてとてもうれしいのだ。
ヨーロッパの田舎道には信号というものがなく、交差点はロータリーになっている。慣れるまで少しばかり戸惑った。
ヴィスプの駅は思い出深い場所だ。
1991年ヴィスプ駅のホームで岡山クライマースクラブの近藤邦彦さんに声をかけてもらったことがある。お互い贅肉のない引き締まった体躯で真っ黒に雪焼けしていたからクライマーであることがすぐにわかり話しかけてくれたのだと思う。近藤さんだと気付いたのは5分くらいたってからだった。近藤さんはアイガーミッテルレギ山稜のガイド山行を終え、シャモニへ移動する途中だった。一緒のボックスシートに座ってシャモニまでご一緒させていただき、奥鐘のこと、冬季パチンコ北鎌下降のこと、そして今野和義さんのこと、話は尽きなかった。
さて、車はザーツフェーへの道を左に分けマッタータールへと入っていく。サッカーファンならご存知かと思うがザーツフェーは2010年ワールドカップ南アフリカ大会に際し日本代表が直前合宿を行った地である。ニュースでこれを知った時、少なからず驚いた覚えがある。のんびりと車を走らせていくと前方にはブライトホルンとクラインマッターホルンが見えはじめた。そしてまもなくターシュに到着。ここで車を駐車場に止め登山電車でツェルマットへ入ることになる。駐車場の係員とマッターホルンのガイドが幸いにもツェルマットへ入る用事があるとのことで大型バンの荷台に乗せてくれることになった。
自動車の乗り入れが禁じられているツェルマットへどのようにして入るのだろうかと少し不安を抱きつつ乗車。
16時少し前にツェルマット到着。キャンプ場の50mほど手前が自動車禁止の境界線となっているようだ。ここで車から降りる。重い荷をひきずるようにして運んだが目前がキャンプ場だったので助かった。
さて、ツェルマットのキャンプ場だが若干快適性に劣る。サイトが少し傾斜しているし、車が入れないのでオートキャンプが出来ない。すなわち家族連れで長期滞在する客を目的に設置されているのではなく、主にクライマー向けのキャンプ場という位置づけに近い。もちろんサニタリー等は申し分なく完備されており、虫もいないから、山なれた者にとっては楽園だ。鈴木謙造君もこのキャンプ場で過ごしていたんだなと少しばかり感傷的になってしまう。
サニタリーの裏手にテントを張り終えるとすでに夕方。ツェルマットの街中へ妻を案内する。橋の欄干には聖母子像がある。そうツェルマットはスイス領だけれどもローマカトリック教会の村なのだ。大きな御聖堂の前には泉があって広場になっており、入り口には十字架のイエスキリスト像がある。
キャンプ場からもマッターホルンの頂上部を望むことができるが、谷の奥へと進んでいくと徐々にその全容が明らかになっていく。すでにあの山頂に立ったことのある私にとっても、その姿には圧倒されるような感動を禁じえない。谷の奥にあるロープウェイ駅の位置を確認してから川沿いに戻る。川沿いから少し右岸にあがったところにある小さな売店で買い物。フルーツ、サラダ、ソーセージとワイン、そしてミネストローネにパスタで夕食とする。

8月17日(日)快晴 ツエルマット・クラインマッターホルン・ブライトホルン・ツエルマット

今日は、妻に初めての4000m峰を体験させようとブライトホルンを往復する予定である。時間的にもゆとりがあるのでのんびり出発する。ブライトホルンはヨーロッパアルプスの中では最も容易に登ることのできる4000m峰といわれ、標高に起因する高度障害と荒れた時の厳しさを除けばゴールデンウィークに涸沢から白出乗越へ登るよりも容易であろう。
ツェルマットの村はずれにあるロープウエイ駅から6人乗りのテレキャビンに乗る。3日間有効のチケットは98CHF。マッターホルンエクスプレスと名づけられたロープウエイは最新式のもので、シュワルツゼーは途中の通過駅のひとつに変更されていた。
途中で100人乗りのゴンドラに乗り換えてクラインマッターホルン駅に到着。すでに標高3800mだが出発前に幾度か富士山へ登っておいた効果がはっきりと自覚できる。
イタリア側にもスキーリフトが整備され、スノーボードを担いでいる客もいる。駅舎は最近新しくなったようで屋根は全面ソーラーパネルだ。レストランとみやげ物屋などが入っている。またエレベーターとトンネルを利用して氷河の内部を見学できるようになっている。駅舎の出口でゴアテックスの上下を着込み、入念に日焼け止めクリームを塗って歩き始める。
傾斜は平坦でクレバスもない。広大な斜面を登っていくと程なく山頂に到着した。近くにはマッターホルンやモンテローザが聳え立ち、モンブランもイタリア側に岩稜を従えてすぐそこだ。
駅舎に戻ってレストランでスパゲッティを食べた。一皿18CHF。おおよそ1800円だけれどお金では買うことのできない価値がある。食後、エレベーターで地下へ下りて氷河見学をしたが寒かった。
ツェルマットに戻って山岳博物館を見学する。博物館はカトリック教会の御聖堂前の広場の地下に移設されていた。ウィンパーの切れたザイルの現物を初めて見た。1865年7月14日カレルとの熾烈な初登頂争いに勝利したウィンパー隊7名だったが、下山途中にそのうちの一人が滑落。ザイルにつながっていた7名全員が引き込まれたが、ザイルが切れたことにより、ウィンパーを含む3名が助かり、4名が北壁を1000m墜落した。少しでも山をかじったことのある人なら誰でも例外なく知っている有名な話である。その現物が目の前にある。ロープの細さに驚いた。
さて、明日の予定だが、まずはマッターホルンに取り付いてみることにする。今の妻のスピードではとても頂上まではいけないが、頑張ればソルベイヒュッテくらいまでならいけるかもしれない。仮にソルベイヒュッテまでたどり着かなかったとしてもマッターホルンの難しさを全身で受け止めることのできるガイドレス登山にはそれなりに意味があると思う。
そのマッターホルンの難しさとは何だろうか。それは高度障害とルートファインディングの難しさに代表されると思う。特にソルベイヒュッテまでの間は、どこでも登れるように見えるが、登攀ライン以外は岩がもろく墜落の危険性が高い。広大な斜面の中で登れるラインは一本しかないと覚悟しておいたほうが良いと思う。日本の山とは異なり岩にマークなどは皆無。初見でラインを見つけることは簡単ではない。かの女流クライマーの先駆けである若山美子氏も新婚旅行のマッターホルンで新郎と共に墜死しているのだ。そこで一般の人向けには登攀ラインを知っているガイドの登場となる。ガイドレスで初見ともなるとマッターホルンのハードルはかなり高いといわざるを得ない。
ただ、標高差1000mを2時間以内で軽々と登りきることのできる体力があって、事前にモンブラン登頂を済ませて高所順応が完了していれば、結果としては簡単に登れてしまうのも事実だ。それはなぜかといえば、客を案内するガイドパーティーに勝るスピードで余裕を持って登ることができればガイドたちがたどるラインを見てから登ればよいからだ。
1991年に私が単独で登った時は、まさにそれで、モンブランを一人で往復したあと、グリンデルワルトへ向かい、アイガー北壁の単独登攀に敗退。失意の内にグリンデルワルトから移動してきて昼過ぎにツェルマット駅に到着。駅のコインロッカーに余分な荷物を預けて、直径7mmの30mの補助ロープだけを持って、その日の内にヘルンリ小屋へ上がって一泊。翌日早い時刻に山頂まで達し、ツェルマットへ戻ってホテルバンホフに宿泊した。あの夜、私はマッターホルンの一般ルートを登ってしまったことに自己嫌悪が募りビールを飲んで毛布にもぐりこんだのだった。

8月18日(日)快晴 ツエルマット・シュワルツゼー・ヘルンリヒュッテ

気持ちの良い朝だ。わざと遠回りをして川沿いの道から古い木造の街並みの坂道を登っていく。まるで絵葉書のような風景だ。
カトリック教会前の広場にある泉の冷たい水を水筒に満たす。こうして泉の水を飲んでいる光景をみるとアルプスの少女ハイジを連想してしまう私。
昨日と同じマッターホルンエクスプレスに乗車しシュワルツゼーで途中下車する。シュワルツゼーとは黒い湖という意味で、直径50メートルほどの美しい湖がアルプスの山々を湖面に映して佇んでいる。身支度をしてとりあえずシュワルツゼーのほとりに建つカトリックの小聖堂へと向かう。聖堂の前には大きなイエスの十字架がある。聖堂には誰もおらずドアには鍵がかかっていない。十字を切って聖堂の中に入り山行の無事を神にとりなしてくださるよう聖母マリアに天使祝詞で祈る。ちなみにシュワルツゼーの小聖堂を礼拝堂と紹介する例がガイドブックなどにあるがカトリックでは礼拝堂という表現はほとんどされないから本来は聖堂というべきだろう。
シュワルツゼーをあとにし、ジグザクに急斜面を登っていく。草原となった斜面には羊が放牧されている。イエスの十字架に羊の群れとは印象深い風景である。
岩場につけられた鉄製の桟道を伝いひとしきり急坂を登りきると、正面にマッターホルン北壁を見ながら稜線の右側の水平道となる。ヘルンリヒュッテまでの道は道標も整備され北アルプスの稜線のようだ。シュワルツゼーからハイキングで訪れるひとも少なくない。
水平道をしばらくたどっていくとヘルンリヒュッテ直下の最後の急斜面だ。忍耐強くゆっくり登っていくとヘルンリヒュッテのテラスに出た。すでに標高3000mを越えているこの場所は小屋がなければとても殺伐としたところで、気温も低くセーターを着込まないとガタガタと震えだしそうだ。テラスでスパゲッティとワインを注文する。なんという幸せな気分だろう。しばらくして小屋の中に入り指定されたベッドルームへ。二段ベッドの上段に陣取るが毛布がしゃれている。
一服してから、明日の偵察に行く。外に出てマッターホルンを見上げると、山頂部分に雲がかかっている。小屋の裏手にある取り付き点の前に立つ。そこには聖母子像が取り付き点を見守るように建っていた。フィックスロープを利用しながら少し上まで登ってみるが、1991年の記憶はほとんど残っていなかった。今回はマッターホルン全体に雪が付着しており、良いコンディションではないせいか他の登山客も少ない。ヘルンリヒュッテはガラガラにすいている。
偵察から戻ってみると夕食だ。厚切りのハムとソーセージのグリルと溶けたチーズを乗せたジャガイモにキャベツの漬物。そしてスープにパン。それからデザート。
就寝前にもう一度外に出てマッターホルンを見ると厚い雲に覆われ、下降中のパーティーのヘッドランプの明かりがいくつか見えた。

8月19日(日)快晴 ヘルンリヒュッテ・ヘルンリ稜・ソルベイヒュッテ・ヘルンリヒュッテ・シュワルツゼー

ヘルンリヒュッテの朝は戦場の様にあわただしい。もっとも本当の戦場は九十九式艦上爆撃機のパイロットだった父の話でしか知らないが・・・。
ヘルンリヒュッテのほとんどの客はガイド登山で、彼らは手早く朝食を摂り次々に出発していく。
山頂まで行く予定でない私たちも一緒に朝食を摂る。朝食はかなり質素だ。硬い黒パンとコーヒーだけ。バターやジャムを硬いパンに塗ってコーヒーで流し込むといった感じだ。おっとりした性格の妻の食事が済むのを見守るようにして待つ。結局、小屋を出発したのは私たちが最後だった。
ヘッドランプの明かりを頼りに取り付き点の前に立った。妻とロープで結び合い、見上げる聖母子像に小さく祈ってから登り始めた。
こまめに岩角などにロープをまわしながらタイトロープ方式で登っていく。この「こまめに岩角にロープをまわしながら・・・」というのはとても大切なことだ。
すでにガイド登山の連中はとっくの昔に登って行ってしまい、私たち夫婦だけでルートを見極めながら登っていく。困難な岩壁ルートにおけるルートファインディングは登攀可能ラインを読み取るということだが、マッターホルンの場合は岩の落ちつくしたトレースをひたすら追うという感じで、一般登山道のそれに近い。しかし草木一本生えていない高所だからトレースの痕跡は顕著ではない。暗闇の中でヘッドランプを頼りにかすかな摩擦痕を見逃さないようにして登っていく。ルートファインディングがとても難しい。
徐々に夜が明けていく。見上げると頂上部は相変わらず厚い雲の中だ。ヘッドランプを消しところどころでスタカットに切り替えながらもろい岩場を登っていく。
ルート上に雪があらわれた。この数日の内に積もった雪だがすでに硬く凍り付いている。
辛抱強く登っていくとようやくはるかかなたにソルベイヒュッテが見え始めた。
まだ相当な標高差がある。やがてモズレイスラブに到着。ここで始めてピンによる確保を行うことができた。1991年に登ったときにはビレイなしで駆けあがった岩場だが今日はスタカットで慎重に登って行く。すでに登頂を終えたガイドパーティーが下降してくる。あるいは天候が悪いので登頂を中止したのかもしれない。
モズレイスラブを登りきるとソルベイヒュッテである。小さなテラスにやっとへばりついている避難小屋だ。
「今日はここまでにしよう」と妻に言うとほっとしたような表情でうなずいた。
ソルベイヒュッテはきちんと整理されており、緊急用の無線機も常備されている。バーナーで湯を沸かして日本から持ち込んだ「カップヌードルリフィルどん兵衛天ぷらそば」を食べる。
「ウマイ!」
そんなにゆっくりもしていられない。早速下降に移る。
モズレイスラブは懸垂下降。下降し終わった時にあやまってATCガイドを落としてしまった。傾斜がゆるいので途中で止まったが、ルートを外れると極端に岩がもろくなるので、回収に行くのは危険だ。
そうこうしている内にガスが降りてきて雪が降り始めた。厄介な塩梅になってきた。岩場に雪が積もり、ますますトレースの見極めが難しくなってきた。登ってきたときの記憶を頼りに懸命に下降を続ける。
しばらくして雪がやみほっとするが、気を緩めると死亡事故になるので緊張を持続させなければならない。妻をビレイしながらの下降は単独のときよりもはるかに難しく気疲れする。
ようやくヘルンリヒュッテに戻ってきたときには本当に安堵した。すでに夕方なのでヘルンリヒュッテでもう一泊しても良いのだけれど、できればツェルマットまで戻ってシャワーを浴びたい。ひょっとしてロープウエイの最終便には間に合わないかもしれないが預けておいたパスポートを返却してもらいシュワルツゼーへと下降を始める。
放牧された綿羊が鈴をならしながら草をはんでいる姿を間近に見て妻はとても喜んでいる。そう、まるでアルプスの少女ハイジの世界にいるかのようだ。
遠くに見えるロープウエイにはすでにゴンドラの姿はなく最終便は終わってしまったようだ。さてどうしよう。最悪の場合はツエルトも持っていることだしどうということはないとも思うが、やっぱりシャワーを浴びたいし、ビールを飲みたい。ひょっとするとシュワルツゼーのレストランがホテルを営んでいるかもしれないと気が付いた。
夕暮れ時をむかえて静まり返った「Hotel Restaurant Shwarszee」だったが名称の通りホテルとしても営業していた。早速宿泊を掛け合ってみると空室があるという。大喜びで手続きをする。オーナーのおじさんは「部屋にはシャワーがあるよ」と私の期待を先取りするように補足してくれた。
部屋は2階の8号室。ツェルマット側の大きなテラスに面したすばらしい部屋。最近改装されたようでシャワールームなども最新式のモダンなつくりだった。
登山靴を脱いでテラスに干し、サンダルに履き替える。すぐに夕食ということなので、シャワーを浴びる暇もなく1階のレストランへ急いだ。
レストランの展望は抜群である。モンテローザやリスカム、ミシャベル山群がパノラマのように展開している。フルコースのディナーにビールと赤ワインを注文した。
夕食後、やっとシャワーを浴びることができた。ついでに着ていたシャツとズボンを洗う。最近の山用衣料品は高機能化学繊維でできているので短時間ですぐに乾くのである。
この時期のヨーロッパでは真っ暗になるのは21時頃。テラスに出て妻と寄り添いながら夕暮れの山々を眺めた。

8月20日(日)快晴 シュワルツゼー・フーリ・ツエルマット

ホテルシュワルツゼーで良い朝をむかえた。
朝食も一階のレストラン。透明な大気の中で朝日を浴びヴァリスの山々が輝いている。それらが窓から一望できるのである。
朝食はチーズ、ハム、そして妻が剥いてくれたリンゴ。テーブルを見ていて、おやっと気が付いた。大きめのプラスチックのコップにプリントされた「Ovomaltine(オバルチン)」のロゴ。ワンダーのヘッドランプなど40年まえにみんなが有難がったブランドだ。当時は欧州に関連するものなら何でも崇拝する傾向があったように思う。そういえば大倉大八さんが四谷で営んでいた山用品店の名前が「欧州山荘」だったのを思い出す。
さて、ツェルマットまでの下山だが、昨夜のうちからハイキングコースをたどろうと決めていた。
下山のしたくを整え宿泊費の精算を行う。宿泊料は二人でワインなども含めて4万円を超えたけれども、50代半ばになっての新婚旅行だと思えば十分に満足の行くものだった。
9時を少し過ぎたところでホテルシュワルツゼーのドアを開け、羊が草をはむ陽光あふれるアルプの草原に足を踏み出した。真正面に雲ひとつないマッターホルンが全貌を見せている。
さわやかな本物のアルプスの空気を深呼吸して意気揚々と下り始めた。ところどころに十字架があって、ベンチがある。さらに一面の草原を下って、台地の突端まで行くとそこにも十字架がある。下方には農家があって牧草の斜面が広がっているのが見える。まるで絵葉書の世界を歩いているようだ。こんなすばらしいハイキングコースは日本ではありえない。標高をどんどん落としていくと針葉樹の森へと導かれていく。その森の中にところどころに牧草地と農家が点在している。
やがてフーリに到着。快晴なのでアスファルトの上では日差しがことさら強く感じる。やがて車道から再び山道へ入り、すこしづつ高度を落としていく。
ロープウエイから見下ろすことのできた小さな村の小さな聖堂の前にやってきた。まったく風景から建物まで何から何までメルヘンの世界のようだ。
聖堂の中に入って祈りをささげ再び歩き出す。
20分ほどでツェルマットの村はずれにある十字架に到着。ここが村と山の境界だと教えてくれているようだ。
ツェルマットの街中をぶらぶらと歩き、14時半にベースキャンプサイトに帰り着いた。荷を降ろし一休みしてから買出しをかねて再び街へ行く。カトリック教会前の広場では子供たちの運動会が行われていた。村の中を一周する徒競争のようだ。ツェルマットはメインストリートの川側に昔の建物が保存されている。そしてところどころに泉がある。
駅前のコープで果物などを買って、食卓に並べた。