2011年 夏

富士宮口

富士山

2011/07/02

「雲湧く浅間大社奥宮」
山頂より撮影


富士山へ最後に登ったのは1991年3月だったように思う。
日本山岳協会が主催する「指導員の教育と研修」と名づけられた氷雪技術研修会に講師として参加したものだった。講師陣はそもそものスタンディングアックスビレイの考案者である日本山岳会の松永敏郎さん、冬富士の国内第一人者である東芝府中山岳部の増子春雄さん、ベルニナ山岳会の堀江栄治さん、昭和山岳会の小野寺斉さん、現在AGS-Jのガイド松元邦夫さんなど錚々たるメンバーだった。一方で参加者もすごい顔ぶれで広島の平田さんがいたのには参ってしまった。
講師陣の中で一番の年少者である私はスタンディングアックスビレイなどオーソドックスな氷雪技術を繰り返し実演し、高価なゴアテックスのアウターがロープの摩擦で融けぼろぼろに裂けてしまった記憶がある。問題はコンティニュアスの講習で、顔をあげられないような激しいブリザードの氷の斜面で行われる予告なき滑落シュミレーションは真剣に取り組まざるを得なかった。硬い氷の斜面の滑落を大阪方式のコンティニュアスで百発百中で止める私に講習に参加したメンバーは驚嘆してくれたが、すべてうまく行ったのは滑落を想定していたからだと思う。
それから遭難者を搬出したこともある。夜間にヘッドランプを灯して馬返しへとスノーボートを牽くそれは、まるで葬送のようだった。
このように富士山にも、少ないながらもいくつかの思い出がある。

7月2日(土)快晴

金曜日の天気予報では雨ということだったので、今週も筑波山かなと思っていた。
朝、2時に起きて、あらためで天気図を検討すると天候悪化はさほどでもないようだ。
筑波山を念頭に装備の準備をしていたが、あらためて高山仕様の装備に入れ替えて四時半に四街道を出発。
御殿場ICで東名を降り、自衛隊の演習場を突っ切って富士山スカイラインを走る。雨中の登高を覚悟して走行していると、標高2500m付近から上部は雨雲の上に突き抜けており、なんと快晴だった。
富士宮口の新五合目の駐車場にはすでに多くの車がある。私たちもその隙間になんとかいてれもらって装備のチェックを行う。
冬季用の手袋や羽毛服などをザックに詰め込む。
今週の極道仲間のメーリングリストでディスカッションされた水分補給の話題。結局、その道のプロである安藤さんのレポートに膝を打って合点。安藤さんは岳人で頻繁にコースガイドなどを執筆しているが、彼の職業上の専門分野であるこれらのことについてこそ、岳人掲載を編集部の岩城さんたちにお願いしたいくらいだ。
安藤さんのアドバイスに従って4リットルの水を担いで、7時半に登りはじめた。
見上げる富士には、かかる雲もなく火山特有の褐色の斜面が広がっている。富士山は7月1日つまり昨日山開きを終えたばかりで、富士宮口の山小屋は二軒をのぞいて、まだ開業していない。また残雪が残っているので新七合目以上は登山禁止との看板が設置されている。バスケットシューズでやってくる登山客も少なくないので、このような警告も必要なのだろう。
富士山の合目は、新七合目や元祖七合目とあるように各山小屋がそれぞれの都合で勝手に付けたのではないかと疑いたくなるほどに登高の目安にはならない。富士宮口の五合目と六合目は近いが、七合目と八合目の間は遠い。登山とは無縁の多くの人が夏になると富士山を目指す。そしてその多くの人たちが富士山に登るのはその一回限りだ。
そういった登山客を各山小屋が奪い合う。山が開いている二ヶ月間で稼ぐだけ稼ごうと、どんどん客を入れていく。そして無尽蔵とも思えるほどに次から次へと登山客が登ってくる。いつぞやの夏に父と母を連れて登った時には一枚の布団に三人という状態だった。
一緒に奥鐘を登ったことのある石渡健君は富士山の山小屋でアルバイトをしたことがあって、「富士山を嫌いになった」と私に語ったことがある。それは純朴な石渡健君の正直な気持ちだったろう。
しかしながら今日は、そのようなことが嘘のように、各小屋は戸をかたく閉ざして静まりかえっている。あの狂騒が始まるのは再来週あたりからだろう。
妻はゆっくりとしたペースながらも、八合目までは順調だった。山ガールのグループなどを追いぬきながらここまで休憩なしのノンストップで登ってきた妻。これは調子がいいぞと喜んだけれど、このあたりから高度障害が出始めたようだ。
八合目の標高は3200m。この場所は標高としては穂高とさほど変わらないが、時間単位の標高差には桁違いの厳しさがある。
すなわち標高25mの四街道から出発したので、数時間の内に山頂まで一気に3750mも高度を上げることになる。これは国内の他の山岳では例を見ないことで、高度順化が追いつかないのが普通だ。私も軽い頭痛がする。妻も頭痛がかなりするようで「孫悟空の頭のわっかで締め付けられる」ようで、足元が定まらないという。顔色を見ると少し黄色い。吐き気はなく、食欲はあるというので昼食にする。ボイルした多量の野菜をトッピングしたカップ麺。塩分補給を意識して麺つゆまで飲み干した。
八合目からはペースを更に落としゆっくり登っていく。路傍には疲労で死人のように横たわっている人がいる。やがて九合目。ここでもゆっくりと休む。そして九合五勺の小屋までたどり着き休んでいると、妻は高度に順応し始めたようで頭痛も消えたという。浅間大社の手前で50mほど雪が登山道を覆っていたが、雪の影響はここ一箇所だけだった。一週間もすればこの雪も無くなってしまうことだろう。残雪の斜面をキックステップで登り、歩きやすい道を少しばかりたどっていくと、ようやく火口のへりに建つ浅間大社奥宮だ。
この場所は火口周辺では銀座のようなところで社務所と郵便局、そしてみやげ物屋の富士館がある。しかしながら、いずれも戸をかたく閉めている。この場所にいる登山客は20名ほど。彼らの多くがこの場所を山頂だと思っているらしい。誰一人として山頂へ向かおうという人はいない。富士館の下ろされたシャッターの前にザックをデポし、山頂へ向かう。
富士の山頂である剣が峰には、気象庁の測候所がある。リモート観測や気象衛星の発達により、山頂のシンボルでもあった富士山レーダードームは撤去され、無人となった施設が往時をしのばせながら建っている。
気象庁の職員であった作家新田次郎がこの富士山レーダーの建設に重要な役割を果たしたことはNHKのプロジェクトエックスなどでも紹介され、一般にも広く知られている。その測候所の施設に展望台というのが設けられているというのを、初めて知った。さっそく梯子で登ってみたが静岡県側はガスに覆われ展望を得ることはできなかった。
剣が峰から浅間大社奥宮まで戻る途中でがっしりした体格の男性に声をかけられた。上野さんという方で、山渓の連載をみて、ひょっとして私ではないかと思われたとのこと。標高差の最も大きい御殿場口から登ってきたという。相当登り込んでいる様子が伺われる方だった。
浅間大社奥宮で一休みしてから下降にうつる。
富士宮口は登高路と下降路が同一なので、混雑による渋滞が問題となるが、今日は登山客の数も少なく、順調に高度を下げることができ、五合目の駐車場まで2時間少々だった。
富士山スカイラインを車で下っていく。標高2300mから1400mまでの区間は雨雲の中の走行で小雨が降っていた。富士山がこの雨雲を突き抜けていたことを実感した。
通いなれた下北町の「さくらの湯」で汗を流し、家路についた。高速道路の休日限定1000円が解除された為だろうか、高速道路は首都高も含めてガラガラに空いていた。

365km 31.9リットル


2011年7月2日土曜日
五合目 7:33
六合目 7:53
新七合目 8:56
元祖七合目 9:52
八合目 10:44-11:16
九合目 12:10-17
九合五勺 13:06-15
浅間大社奥宮 14:12-16
富士山山頂 14:32-48
浅間大社奥宮 15:05-11
八合目 16:04-10
五合目 17:30

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