2010年 夏

北アルプス

剱岳

源次郎尾根より
2010/07/17--19

別山平より剱岳本峰を望む
剱岳は峻険さでは国内最高の山岳であろう

剱岳には一度しか登ったことがない。
2007年6月憬稜登高会の創立50周年式典の席で千葉県山岳連盟の元会長盛晋さんが山野井泰史氏に「千葉県初のクライミング専門のクラブ、鹿山会の賀来さんだ」と紹介してくれたことがある。
それぞれの山岳会には持ち味というものがあって、憬稜登高会のそれは何と言っても奥利根・奥只見の先駆者ということだろう。先年亡くなった倉持さんや若き日の盛さんが登った当時の奥利根はまだ探検時代といってもよかったのではなかろうか。浦和浪漫などが入渓し始める遥か以前の話で、ゼルフィスの前だ。
一方、私たち鹿山会登攀クラブのそれは岩壁登攀で、きわめてミーハー的な第二次RCCの「新版日本の岩場」の高難度ルートをしらみつぶしに登ることが取り敢えずの目標だった。当時の私たちのいう高難度とは5級以上のルートを指しており、これら高難度ルートを有する岩場というのは国内にそう多くはなく黒部奥鐘山、一ノ倉沢、穂高屏風岩、甲斐駒赤石沢奥壁あたりが主だったところ。
だから冬は別として「新版日本の岩場」上では高難度ルートの存在しない剱岳を岩壁登攀の対象として想定したことはなかった。つまり山へ登るということよりも岩を攀じることが興味の中心で私たちがたどり着こうとしたのは山の頂ではなくルートの終了点だったのだ。
そんな剱岳へも新人の雪上訓練の場として登ったことが一度だけある。1982年4月末、高校を卒業したばかりの18歳から19歳の中村イサムなど新人を引き連れて八ツ峰の雪稜を縦走し長次郎を下降した。平蔵谷から頂上も往復したが、時間が余ったから往復したまでで、剱岳の山頂に立ちたいという気持ちは希薄だった。その後、新人たちを立て続けに一ノ倉沢凹状岩壁、奥鐘山西壁と素晴らしいメニューで歓迎したが、H君に泣きながら脱会を懇願されるなど中村イサムや早野トミオを除いて退会していった。
あれから数十年が過ぎ去り、私は家庭を持ち妻や子と今現在も登り続けている。岩を攀じ、沢を歩き、山を登る。
そうして今回、妻と剱岳登山を計画した。山頂へと至る為の経路に源次郎尾根を選んだ。源次郎尾根を登りに行くのではない。あくまでも剱岳を登りに行く。そのような気持ちにさせるだけの力を剱岳は持っている。別山乗越から剱岳を臨み強くそう思った。

7月17日(土)曇りのち晴れ

梅雨前線が停滞して、梅雨後半特有の集中豪雨で各地で大きな被害が出ている。岐阜県では10トンから20トンの大型トラック28台が流され、何人かが行方不明になった。そのニューズがテレビで流れ、梅雨明けがいつのタイミングになるのか気をもみながら週末迎えた。ぎりぎりまで判断をのばしたが前日夕方に決行を判断し妻に連絡をとる。
しかしながら16日上野発の急行能登が車両故障で運休というとんでもないハプニング。機転をきかせてムーンライト信州へ乗り換えれば良かったが後の祭り。宿泊用に車両が解放され、弁当とペットボトルのお茶がでたが、一睡もできずに朝を迎えた。始発の上越新幹線で越後湯沢を経由して富山に到着したのは昼も近い10時15分。すでに妻は疲労困憊の様子だ。私は信濃大町側から黒部ダムまでは幾度となく訪れたことがあるが、富山側から室堂へ入るのは初めてだ。富山地鉄からケーブルカー、高原バスと乗り継いで13時過ぎに室堂へ到着した。
思っていたよりも残雪が多く驚く。
1982年の4月末に訪れた時には、ここ室堂で大失態をしでかした。八ツ峰周辺の詳細な情報は把握していたが、室堂周辺のことは全く調べていなかった。室堂から別山乗越まで何も考えずに歩いていけばごく普通にたどり着けると思い込んでいた私。一の越へあがってしまい立山三山を縦走して別山乗越へ至るという想定外のアルバイトを強いられたのだ。
だから今回は室堂周辺の詳しい地図を持ってきている。
ガスがときおり流れ、小雨がぱらつく中を出発する。みくりが池の残雪には目を見張る。今年は相当雪解けが遅れているようだ。別山乗越の剱御前小屋の小屋番の話では二週間の遅れだという。二週間遅れているとなれば、お盆前だと上ノ廊下は本流にスノーブリッジがかかっている可能性がありそうだ。別山乗越から別山平へ下り始めると急にガスが切れ始めた。ドラマチックな展開。見る間に剱岳本峰が姿を現した。それはみごとなものだ。高校時代の恩師である浦壁先生が剱をして「ダビデの横顔」と詩にしていたが、まさにそんな感じだ。
別山平は、標高2500mと涸沢よりも標高が高く、目の前に剱岳が圧倒的な姿でそびえたち、全体的にワイルドだ。下地は砂と砂利でテントサイトとしては好条件。ただし剱沢小屋が少し離れたところに移転してしまったので、ビールなどを買いに行くには少々不便である。
飯を炊き、レトルトのカレーで夕食。疲れ切った妻は早々に寝袋へ入って寝息を立てている。私はウイスキーの水割りを飲みながらしばらく星を見ていた。

7月18日(日)快晴

3時起床。朝食は塩ラーメン。
ヘッドランプに12本爪アイゼンを装着し4時過ぎに出発。まだ夜が明けきらぬ中をヘッドランプをつけて雪の斜面を歩く。山々はシルエットになっている。
昔観た映画ガストンレビュファの「星に延ばされたザイル」のワンシーンのようで高山に来ていることをひしひしと感じる。もう少しこの気分を味わいたかったがすぐに明るくなってしまった。
小一時間で平蔵谷の出合に到着。源次郎尾根の取付きは目の前で、10人ほどの登山者が登高の準備をしている。ここから剱岳の山頂へと標高差1000mを一直線に駆け上がる源次郎尾根。ルートとしての終了点と剱岳の山頂が一致しているという剱岳への登頂ルートとしては理想的な形態。
まずは草付きの中の踏み跡を数十メートル登る。草付きが灌木帯へ変わるところに小さな岩の段差がある。しばらく順番待ちをしてからとり着いたが、これがオーバーハングしていて意外にも難しい。これを越えると急な踏み跡をしばらくたどり、灌木の中へと突入する。ザックが枝にひっかかって登りづらい。再び小さな岩場。ここも順番待ち後とり着く。規模は小さく、ほんの数歩だが決して易しくはない。更に灌木帯。そしてまた小さな岩場。これも先ほどと同様侮れない。ビレイの連続だ。
妻は浅い呼吸で小刻みにハアハアきつそうに息をしている。まるで走ってきた犬のような息遣いでしんどそうだ。恐らく標高が影響しているのだろう。タイトロープで後続する妻をビレイしながら登っていくが、たびたび立ち止まって動かない。幸いにも天候は快晴。妻が動き始めるのを待ちながらのんびりと登っていく。妻は偏平足なので足のアーチがない。ハードブーツをはくと足の裏に靴ずれが起きる。今回も靴ずれになったようで痛そうだ。
白いスラブを登り、凹角を越えると源次郎尾根の背も近い。
剱沢から見ると源次郎尾根は1峰へ出るまでの標高差が大きく、もっとも労力を要することがわかる。チングルマやハクサンイチゲの咲き乱れる尾根を登り、這い松の枝に半ばぶら下がりながら高度をあげていく。
1峰近くまで登ってくると長次郎谷を挟んで八ツ峰が姿を現す。一方、下を見ると真砂沢ロッジの屋根が夏の日差しに光り、荷揚げのヘリコプターが飛んでいる。
1峰から一旦大きく下り、2峰へと登り返す。這い松をつかんでの強引な登りが数十メートルあり妻をビレイする。細長い2峰の山頂部を進み、突端から懸垂下降。懸垂ピンは頑丈な鉄杭と太い鎖。安心してロープをかけることができる。ロープは9mm×50m。
まず妻と私のセルフビレイをとり、ロープを懸垂ピンに通して、末端を8の字結びでしっかりと結束し、きれいにロープを巻きなおす。そしてロープを下に投げる。
次に妻の下降器をセットし、その下に私の下降期をセットする。
下降の手順を妻と確認する。妻に手順を反復させ、ストッパー役のカラビナをハーネスに連結してから下降器に加重する。体重を完全に下降器に移したことを確認してからセルフビレイを解除し下降に移る。
ロープがブッシュや岩角に引っ掛かっていれば外しながら下降していく。下降距離は25m。50mシングルロープでぴったりの長さ。
下降着地点は高さ2mの台座になっており、この台座がなければ50mシングルロープではロープが足りなかったであろう。妻も同じ手順で下降してくる。ほぼ垂直に近い傾斜だが足が壁につくので下降しやすい。
降り立ったコルは安定しているが、後続パーティーがいるので落石などを警戒し、少しはなれたところまで移動して休む。
さていよいよ剱岳本峰への最後の登りだ。剱岳は大きなドーム状をしており山頂部は広い。
稜線の左側の斜面を注意深く登っていく。傾斜が緩いので二足歩行で登っていくことができる。ゆっくりとした歩みながらも妻を励ましつつ山頂へと続く斜面を登っていく。少し傾斜が緩んだ。どうやら山頂ドームの一端に達したようだ。
草木一本生えていない岩のブロック地帯を少し登ると山頂の社が見えた。振り返って山頂に到着したことを妻に伝える。妻も最後は頑張った。後続のパーティーに途中で抜かれるかと思ったが、むしろ引き離すくらいのペースで登ってくれた。
お菓子や飲み物でささやかな休憩。ときおりガスが流れるが、本質的には快晴。
一般登山道を下降に移る。剣山荘にたどり着くまでは一般登山道とはいえ転んだだけで死亡事故になりかねない険路である。慎重にゆっくり下降していく。西日を受けながら3000mの稜線を歩くと言うのは何とも言えない良い気分だ。遅れがちになる妻をかばうようにしてゆっくり歩く。
剱沢小屋に立ち寄ってビールのロング缶2本を買い求め別山平のテントに戻った。
夕食は米を2合炊き、一袋のレトルトカレーを妻と分け合って食べる。あとは塩昆布と味噌汁。
私は夜遅くまでランタンの灯の下でビールを呑んだ。ゆっくり歩いたせいか心地よい疲労感。何とも幸せな一日だった。

7月19日(月)快晴

いつもの通り4時には目が覚めた。今日も快晴。
朝食は昨夜少しだけ残ったご飯で雑炊。それから塩ラーメン。
ゆっくり支度をして陽が昇ってから出発。靴ずれの妻はつらそうだ。何とか別山乗越までは登ったが、下りがしんどいようで一般的なコースタイムの1.5倍の時間を要して室堂へ。室堂で「星の雫」というしゃれた名の菓子を土産に買う。
帰りは黒部ダム経由で信濃大町へ下山。トロリーバス、ロープウエイ、ケーブルカーを乗り継いで黒部ダムへたどり着いた。なじみの黒部ダムサイトに立つと何だがほっとする。上流の上ノ廊下には残雪をたっぷりとつけた赤牛岳方面の稜線を見ることができた。
薬師の湯で汗を流し、松本からは18時35分発のスーパーあずさで家路についた。
四街道帰着は22時12分だった。


17日 18日 19日
室堂 13:40 別山平 4:10 別山平 7:15
別山乗越 17:27 源次郎取付 5:10 別山乗越 8:50-9:19
別山平 18:17 1峰 11:02 雷鳥平 11:09-11:32
2峰 12:22 室堂 12:47
剱岳 14:37-57
別山平 18:20

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