2007年 冬

北八ヶ岳

ニユウ・しらびそ小屋

2007/12/1--2

小屋の主人今井行雄さん、山岳グルッペ・カモシカの皆さんと

ときおり山岳雑誌で泊まってみたい憧れの山小屋という特集が組まれることがある。そんな特集が今年の「山と渓谷」の9月号にあって、その表紙を飾ったのが「しらびそ小屋」である。
しらびそ小屋は北八ヶ岳の佐久側の山ふところにあるみどり池の湖畔に建つ小さな山小屋である。
人気の山にある山小屋、例えば涸沢ヒュッテや槍ヶ岳山荘、あるいは白馬山荘や燕山荘のような山小屋は宿泊客も多く、潤沢な資金力で下界の旅館のような快適性を追求するかのごとく、近代的な設備の充実に余念がない。
一方、人気山岳の喧騒とは縁のないような山小屋の中に、しみじみとした山小屋の香りを漂わせるものがある。それは例えば船窪小屋だったり昔の甲斐駒黒戸尾根の五丈小屋、あるいは昨年山渓の取材で宿泊した中央アルプスの越百小屋だ。
「しらびそ小屋」はどちらかというとそのような分類に近い小屋だと思う。
さらにこの小屋にはもう一つの顔がある。日本の山岳文学の傑作と称される「北八ツ彷徨」の著者山口耀久氏との結びつきである。しらびそ小屋という名も氏によるものである。また数年前にはNHKで『北八ツ彷徨』をテーマとする特集番組が放映され、しらびそ小屋が主たるモチーフとしてとりあげられたりもした。
私は若い頃、稲子岳南壁を登攀した時などに幾度かしらびそ小屋に立ち寄ったことがあったが泊まったことはなかった。
今回、妻としっとりとした山歩きがしたくなり、「しらびそ小屋」に泊まることを計画した。出発前夜に、しらびそ小屋へ予約の電話を入れる。年配者と思われる声の主はおそらく今井行雄さんであろうと思った。
さて、しらびそ小屋へ至るまでのアプローチだが、かねてから行ってみたかった「にゅう」へしゃくなげ尾根を経由して登り、中山峠からみどり池へ下ることにして週末を待った。

12月1日(土)晴れ

四街道を朝5時頃出発しても9時には松原湖に到着できる。自宅から240kmと首都高の渋滞さえなければ八ヶ岳は近い山である。清里、野辺山などのふもとから眺める八ヶ岳は森林限界を超えた稜線が白い。数日前の東京での雨が、山では雪だったのだろう。稲子湯近くの駐車スペースに車を止めたのは9時。
快晴である。周辺には雪はほとんどなく、葉を落とした落葉松林は日差しが射し込み、尾根に囲まれた東斜面のこの場所は風が吹き込まぬので背がぬくい。
9時40分、しゃくなげ尾根を登り始める。針のような落葉松の落葉は心地よいクッションになって、登山道を埋め尽くしている。ジグザグを幾度かきりながら、登っていくと林道にでた。少し右方向へ林道を歩いて林道を離れ、しゃくなげ尾根の背に登る。日陰に残る雪には轍が凍って残っていた。雪のないしゃくなげ尾根の最下部は歩きやすい遊歩道のようであったが、まもなく雪に覆われ始めた。雪に覆われると登山道がはっきりしなくなった。時どき登路を見失いそうになったが、慎重に登路を選びながら登っていく。
いささか難渋を重ねながら白樺尾根に合流。この白樺尾根も高校生の頃から、いつの日にか歩いてみたいと思っていた登山路の一つだ。ぽつぽつと樹林の中を登っていくと、真新しい熊の足跡が残っていた。すでに13時。登り始めてからすでに3時間20分。ここまで予想外に時間を食った。
ここから「にゅう」までの斜面は尾根筋がはっきりしない。雪がもっと深ければ容易なルートではないが、今はひたすら茫洋な斜面を高みへと登っていく。ところどころに道標がルートの正しいことを教えてくれる。
しばらくして「にゅう」の下に出た。深い針葉樹の森が続いていたからそれは唐突だった。積み重なった露岩が空に突き出ていた。
足元にザックをデポし「にゅう」の乳首に相当する岩の穂先へと登ってみる。
標高2351.9mの突起の先端には師走の冷たい風が吹き付けていた。ここまで展望の全くない針葉樹林帯を登ってきた身にとって「にゅう」の存在は意外性に満ちている。
北八ヶ岳の森の中に白い雪原となった白駒池が見下ろせる。南には天狗岳の向こうに断崖にまだらに雪をつけた硫黄岳の爆裂火口が見える。「にゅう」の真下には佐久盆地がひろがり奥秩父や遠くには富士山まで望むことができる。
「にゅう」を後にして雪の多くなった道を中山峠へと向かう。左手に稲子岳を見ながらゆるく登っていくとやがて平坦な部分を過ぎて下り坂になる。すると中山峠はすぐそこだ。
中山峠で休憩をとる。しらびそ小屋への到着が17時を越えるかもしれないので、しらびそ小屋へ電話をする。17時を過ぎるかもしれないことを今井さんに伝える。
電話を切る前に最後に今井さんが言った「お気をつけて」という声がいつまでも耳に残った。
中山峠から下り口は急峻である。アイゼンをつけるほどではないが、いくどか堅く凍りついた雪に足をとられたりもした。そろそろ薄暗くなり始めた針葉樹林の森の中に続く雪道は、ぽつんと孤独になってしまったような気がしてさみしいものだ。
本沢温泉からの道が右から合わさってトロッコの軌道跡を歩いているとみどり池の対岸に薪ストーブの青い煙を漂わせてしらびそ小屋が見えた。
薪ストーブの煙は、焚き火のそれと同じで、いい香りがする。しらびそ小屋の戸を開ける。ストーブの周りに何人かの人がいて、挨拶をかわす。
客の一人が「行雄さん、お客さんだよ」と奥にいるらしい主人を呼ぶ。白髪の上品そうな今井行雄さんがでてきた。さきほど電話で耳に残った「お気をつけて」と同じ声の主だった。ストーブにあたりながら、お茶請けにカリントウを食べながら暖かいお茶をすする。私は缶ビールを買って飲んだ。あとでわかったことだが全ての客がこの小屋の常連さんだった。部屋にも客の一人が案内してくれた。
案内された部屋は「リスの巣」という名の個室だった。「リスの巣」という名を聞いてこの部屋に泊まったお客さんは何を思うのだろうか。私は懐かしい青春時代の山登りを思い出した。
夕食の食卓について今夜のお客がどういう人たちなのかがわかった。今夜は地元、佐久にある山岳会のクリスマス山行なのだという。山岳会の名は「山岳グルッペカモシカ」。どうやら主人の今井さんも会員の一人らしい。会員達が担ぎ上げてきた酒が振舞われ、なんと大きなデコレーションケーキまでもが、食卓の上にのせられた。食卓を囲んで老若男女がキャーキャー云いながらケーキにナイフを入れる。私たち夫婦も仲間に入れてもらい山の中で初体験となるクリスマスデコレーションケーキをいただいた。山の話に花が咲き、わいわいがやがや楽しいひとときが過ぎて行く。そんな会話の中で「山と渓谷」に連載中の「賀来さんちの山」を話題にする人もいたが、私が当人であることに気がつく人はいなかった。
薪ストーブで暖められた小屋の中でのクリスマスパーティー。北八ヶ岳の針葉樹の森には音もなく風もなくしんしんと粉雪が降っていた。

12月2日(日)晴れ

夜に降った粉雪で雪化粧した森に快晴の朝がやってきた。サンダルで外へ出てみるとほっぺたが痛くなるような寒さで相当な冷え込みなのがわかる。みどり池の上には天狗岳の東壁が高くそびえている。
朝食後、薪ストーブの部屋で常連さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながらぼんやりと窓の外を見ていたら、餌付けされたリスがやってきた。
日も高く昇った10時過ぎに小屋を出発する。小屋を出る時に常連さんが真っ赤なリンゴを一つくれた。
落葉松林の中をトロッコ軌道跡に沿ってゆっくり下っていく。一時間ほど下って山道も平坦になったころ、枯れ草の平坦地が陽だまりになっているところを見つけた。ザックをおろし、ゆっくり湯をわかしてコーヒーを飲むことにした。先ほどもらったリンゴをナイフで切って、食べる。落葉松の枝を通して真っ青な空が広がっている。
もう車まで15分ほどだ。途中で温泉に入って帰ろうと妻と立ち上がった。


「にゅう」から見る天狗岳



「にゅう」



二階の窓から天狗岳を臨む



しらびそ小屋の厨房で炊事をする客たち



築45年になるという



下山はトロッコ軌道跡をたどる



こんな山行には小勝さんのハンドメイド帆布ザックに
ウッドシャフトのシモンスーパーEがよくなじむ



落葉松林の中で



こんなゆとりのある山行に憧れていた

「星空の湯」にて
小海リエックス内の「星空の湯」という温泉は素晴らしかった。