2007/05/03--05/05
快晴の涸沢
山岳文学の傑作として知られる青柳健の「青春の穂高」
毎年、春の訪れとともに青春の穂高の“天の匂い”の章を思い出し、私は狂おしいほどの山恋の思いに駆られる。
少し長くなるが「天の匂い」の一章を引用して「我が家の春山合宿2007」の扉を開けてみたい。
「天の匂い」----「青柳健著:青春の穂高」より引用
バスから降りると、わたしは重い荷を背負って、待ちこがれていた人に会いにでも行くように、足早に歩きだした。おおぜいの人たちが、やはり同じように河童橋に向っていく。その中を私はかき分けるようにして歩いていく。梓川、そして岳沢の上にみえる穂高連峰。わたしはそれを見向こうともしない。そして早くひとりになり、この穂高と孤独な対面をしたいのである。わたしは非常にわがままな気持ちで、穂高をひとり占めにしたかったのだ。
河童橋の吊橋を渡り、白樺荘の川岸にのぼると、初めてほっとして荷をおろし、土手の上に腰をおろした。そして今度はゆっくり煙草に火をつける。煙のゆれてゆく、その上にある穂高。化粧柳が芽をふき、梓川は萌えるような新緑の谷であった。
澄み切った梓川の流れの面には、川岸の緑が思い切り色濃い影をおとしていた。豊饒な岳沢の残雪。その上に黒々とした岩肌をのぞかせている穂高連峰が、五月の陽光の下にまぶしく輝いていた。
わたしはそれをじっとみつめながら、はるばるとでかけてきた者の、山恋いの心がしだいに充たされていゆくのを感じた。はじめて穂高を眺めた少年の日に、わたしはこの膨大な穂高山群に圧倒された。それは雪と暗い岩壁とが交錯した、天然の砦のように、毅然とそびえていて、わたしの心を寄せつけないものがあった。
しかしあるとき、わたしはその頂きに足をふまえた。そして、わたしはそのときから、この山の魅力の囚になっていたのだ。それから毎年、二度も三度もこの橋の上に立った。そして涸沢から穂高へ。岳沢から稜線へ。明神の岩峰へ、岩へ、雪へと、ふるえる思いで、その稜線に過ごした日々のことが、ビバークした夜の思い出が、今いっぱいにつまって心にあふれるようだ。
秋の日のような、かさかさと鳴る落葉の路を分けて行く。明神・徳沢へと。ウグイスが谷間にいっぱいの鈴の音を響かせている。ぬるんだ雪融けの清水が流れる沢筋には、エンレイソウやサンカヨウの白い花々がいっぱいに咲いていた。
横尾から先は、いちめんの残雪だった。径は沢通しに登っている。横尾谷の豊かな残雪の上に、冷たい雨が降っていた。しかしわたしは五月の陽光に輝く頂きへの思いのみが、心の中にうずく。わたしの穂高行きはむしろ心の旅であるように思えた。重い荷物。そして、さんさんと降る冷たい雨。そんなものはどうでもよかった。この精神の季節をかみしめながら、苦しい登りにあえいでいた。
涸沢はいちめんの雪原の上に、くる日もくる日も吹雪であった。季節の回り舞台を、これほど短時日に味わったことはなかった。わたしたちは夏型天幕の中に、雪に埋もれながら暮らしていた。吹雪の音と、この天幕の中ではバーナーの音が交じり合っていた。
朝はおじや、そして昼はラーメン一杯、そして夜は、もう三日も閉じこめられていると、昼夜の区別はどうでもよくなった。外にはひょうひょうと鳴る風の音楽。その音楽はいっこうにやみそうもない。
天幕が吹きとばされそうになっても、だれももう押さえようとしない。いっそうのこと、吹きさらしの雪原に寝ていたら、どんなにさっぱりとして気持ちがよいだろうと思った。明日は抜けるばかりの碧空。天につづく雪稜を登るわたしの姿を、あかず思い描いている。そして黙々と登攀用具を整える。
薄いポタージュ・スープの匂いが、暗くなった天幕の中に漂い始めた。さして食欲のわかない匂いである。バーナーの音にかき消されそうではあったが、外には相変わらす、吹雪の音がして、やたらと寒い。
そしてついに晴天がやってきたのだった。わたしたちはうれしさのあまりはだしのまま飛びだして、思い切り朝日を浴びた。そして、五月の太陽がさんさんと降るカールの下で、登頂への一歩を踏みだした。サックの中には、滝谷のクラック尾根をやっつけるための、登攀用具がいっぱいつまっていた。
わたしたちは北穂沢をまっすぐに沢通しつめていった。この沢が雪崩の通路だなどということも、今はさして気にならなかった。膨大な雪面、膨大な山容。そしてこの広く澄み切ったブルーの空。わたしたにちは目のくらむほどに碧いこの雪面を登る幸福があった。
わたしたちの歩みは、蝸牛のようなのろさだった。しかしそののろのろした動きも、さして気にかけない。むしろこの斜面が、無限の空の彼方まで続いていてくれたらとさえ願うくらいであった。
わたしたちはときどき、だれはばかることない歓声をあげた。わたしたちのうたうヨーデルはいささか貧相なものであったことだろう。しかしその中には、無限にうずく夢がかくされていた。青春の歓喜が漂いあふれていた。
北穂山頂にはケルンが積んである。そのケルンはこの広々とした山脈や碧い空に比べると、あまりにも小さい。
三千メートルの頂きには、天の匂いがある。純白の中にある宇宙の匂いである。ここでは自然は時間と空間を思いきりふんだんに使って、風景の大交響曲を奏していた。その雄大な流れに聞きいっていると、人間は小さく思える。人間の生涯は実にはかなく思える。
三千メートルの頂きに、春の風が流れていた。広い空間を伝わってくる風。それはじつにすがすがしい春風であった。
わたしはこの天に近い頂きの、風と雲の童話が好きだ。自然の心と、人間の心が通い合う、いわば精神の時間。この心の充実が幸福であるとするならば、幸福とはじつにたわいないものだと思える。
しかしわたしたちはさらに一つの夢を完成しなければならない。わたしたちはザイルで結び合うと、滝谷を下っていった。
ずいぶん前から「今年もゴールデンウィークは涸沢で春山合宿を」と決めていた。
敦子は残念ながらレポート提出に忙しく不参加だが、大学受験・高校受験の終わった朋子と素直が久しぶりに参加できる。私は年甲斐もなくはしゃぐほどに楽しみにしていて、トレーニング計画まで立てて待ち望んでいた。
ところが連休前から素直、妻、私の三人が風邪をひいてしまい体調が芳しくない。特に妻と私は数日前まで寝込んでいるような状態だった。出発当日にはなんとか涸沢までは入れそうな体調まで持ち直し深夜の沢渡へと入った。
いつものとおり沢渡上にある木漏れ日の湯のパーキングに駐車。車のセカンドシートを倒して荷室をフラットにして床にオートキャンプ用の封筒型シュラフを敷いて朋子と素直を寝せ、妻と私は駐車場のアスファルトに小型テントを張って就寝。妻は風邪が治りきっていないようでシュラフの中で咳をする。
明るくなって目が覚めた。
始発のバスを何便か見送って上高地に入る。二時間ほど睡眠がとれたので不快感はない。
とにかく早足に河童橋まで行く。
河童橋にたどり着いて、真正面に見える穂高を仰ぐ。こうして河童橋までやってきて、ザックを下ろして穂高と対面して過ごすひと時は、まるで祈りのひと時のような感じさえする。
私の目の前には少し水蒸気を含んだ青空を背景に穂高がある。ここのところ降雪が続いたようで白い。奥穂からロバの耳までの稜線も真っ白だ。河童橋のたもとのテーブルで朝食を摂っていると続々と人々が奥地へと入っていく。河童橋の奥には小梨平、徳沢、横尾など長期のキャンプ滞在に適した楽園が幾つもある。
病み上がりの中で慎重に様子を見ながら歩き始める。妻を先頭にしてゆっくり歩いていく。針葉樹林の道は小川を縫いながら穏やかに続いていく。明神までたどり着いた。
明神から更に徳沢へ向う。草原の中にハルニレの巨木が立ち、真っ白な前穂高岳の東面がこずえ越しに望まれる。ここ徳沢は、キャンプサイトとしては小梨平に匹敵する快適なもので、四季折々長期滞在をしてみたい。ちょっぴりロマンチックな人であれば10泊しても決して厭きることはないだろう。だが、徳沢はたいていの場合は穂高や槍ヶ岳への行き帰りに通過することがほとんどで、私自身も過去ここで泊まったことは数えるほどしかない。
徳沢園からは、ぐっと人が少なくなった。針葉樹の森の中の道を歩いていくと前穂高岳東面や北尾根から屏風岩が見え始め横尾に到着。ほぼ快晴の横尾大橋前の広場では大勢の登山客が涸沢への本格的な登りに備えて休憩している。
昨年は小梨平からここまで雪が一面に残っていたが、今年は全くといっていいほど雪がない。日焼け対策を入念に施して歩き始めた。横尾大橋から屏風岩の一ルンゼ押し出し対岸のボルダーまで行って夏道に入る。少しずつ雪が現れ始め、本谷橋で完全な雪原となった。本谷橋はすでに架設されており橋のたもとで大休止。ほぼ夏道に沿ってトレースはつけられている。妻を気遣いながら幾度となく休憩しながらゆっくりと歩いていく。雪は腐ってやわらかくアイゼンは不要で、むしろゴム長靴で歩けばもっと楽だと思われた。涸沢ヒュッテの直前で天候が崩れて雪が降り始めた。
涸沢幕営場にはまだ50張り程度のテントしかなく、比較的自由にテントサイトを決めることができた。ヒュッテに近い場所に決めてスコップで整地をしてダンロップのV6に冬用外張りを装着。雪面からの冷えを徹底的に防ぐ為にテントの内部には厚さ2mmのウレタンシートを二重に敷き詰め、更に厚さ1cmの個人用ウレタンマット4枚を敷いた。雪面からの断熱対策はおそらく万全であろう。
涸沢の天候は雪が吹き付けてくるような状態だったので、4人揃ってテントの中へ入れたときには本当にほっとした。妻も子供たちもダウンジャケットを着込んでがたがた震えている。
すぐにガソリンコンロに着火。途端に春のようなぬくもりがテントに充満した。
夕食は岳食カレー。岳食カレーはそのままでは味に物足りなさを感じる。いつもならコンソメを加えるのだが、今回はコンソメを忘れてしまった、しかたがない。とてもまずいが無理をしてたべた。
6人用のテントを4人で使っているのでゆとりがあり、冬用の外張りで保温性も高い。とても快適だ。食後はランタンを灯してカワハギを焼きながらちびちび呑む。標高が高いのでアルコールがまわるのも速く、すぐに眠たくなってきた。ランタンの灯を消して寝袋にもぐった。
しばらくして激しい雷鳴で目が覚めた。テントを押しつぶさんばかりに強風が吹き荒れている。雪のブロックが風に飛ばされてテントにドシンとあたる。全員目を覚まして事の成り行きをうかがっている。激しい雷鳴は続き、その後でテント外張りを雨が叩き始めた。しばらくして雨の音はしなくなったので、雪に変わったのだろう。風は相変わらず強く止まないがいつの間にかうとうとと寝入ってしまった。
昨夜の大荒れの天気から判断するに、今日は停滞の公算大と踏んでいた。通常なら3時起床5時出発としたいところだが、あきらめてシュラフの中で目を閉じていた。今日は父の命日である。長い一日を思い出していた。
明るくなって周囲が騒がしくなり外に出てみると、奥穂高にかかった雲がピンクに染まっている。
美しいモルゲンロートである。妻と子どもに告げると外に出てきて歓声を上げた。
落ち着いて涸沢を見渡すとあちらこちらで雪崩が発生しており、特に小豆沢のものは白出乗越の直下から大規模なデブリが下のほうまで達している。
どうやら今日一日の好天は間違いなさそうだ。食事を終えて、仕度をする。
アイゼンを履くのがはじめての朋子はもちろんのこと、全員のアイゼンを念入りにチェック。四人ともワンタッチバックルのアイゼンだから装着はとても楽なはずだが、もたもたしてなかなか上手く行かない。やっと仕度が終わった頃には、ほとんどの登山客がすでに出発してしまった後だった。
ザックに行動食と50mロープとツエルトを入れ、ゆっくりと歩き始める。アイゼン歩行は漫然と歩いているだけでは上手くならないので、事故の起きづらいアイゼン歩行の基本を教えながら登っていく。
高度計の表示が進むにつれて背後の前穂高岳がどんどん立ち上がって大きくなってくる。右手には北穂東稜のゴジラの背にたくさんの登山客が取り付いて行列を作っているのが間近に見える。インゼル付近まで来ると傾斜も相当なものになり妻も子供も慎重にアイゼンを運ぶ。
最後の急斜面をトラバース気味に登ると松濤岩の脇の主稜線にでる。稜線は小さなコルになっていて今しがた登ってきた北穂沢はものすごい急斜面になって落ち込んでいる。
コルから右へ少し登ると北穂高岳の頂上。明るい太陽の光が降りそそぎ、心地よい春風が頬をなでる。見下ろすと右も左もまっ逆さまの急斜面なのだろうが、恐ろしくてとても覗き込むことができない。
春霞でややぼやけているが北アルプスのほぼ全ての山々を見渡すことができる。南方には奥穂高、ジャンダルム、前穂高、そして北方には槍ヶ岳から黒部源流の山々が連なっている。山頂直下の北穂小屋に降りる。
北穂小屋のテラスには北穂東稜から登ってきたらしいボ○ボリーズをまじえてたくさんの登山客がくつろいでいる。計画段階から子ども達は北穂小屋の食事を楽しみにしており、さっそく注文する。妻と朋子がスパゲッティミートソース、素直が牛丼、私がスパゲッティトマトソース。青空の下で食べる。
下山は最初の急斜面におびえている妻や子供たちに配慮して「ロープを出そうか?」と訊ねると「うん、出してー」とすぐに答えが返ってきた。タイトロープ方式で三人を確保しながら下り始める。この雪質なら絶対に止めることができる。
慎重に一歩一歩下っていくとまもなくインゼルだ。インゼルまで下るとこれより下方には岩の露出はなく、滑ってくだることも可能だ。左のゴルジュ方向へは入らないように滑るコース取りを説明してロープを解く。
朋子も素直も大はしゃぎ。素直などは人にぶつからないようなラインを求めて急斜面を走るようにしてトラバースしていく。そして斜面に飛び込むようにして滑降を開始した。すごいスピードで滑っていく。このままだと人のいるラインに入りそうだなと心配していると、素直は横に回転しながらコースを変更した。てっきりピッケルを使って舵を取りながらコース変更を行うだろうと予想していた私はびっくり。大人では決して発想できない大胆なアクションに唖然とする。
途中で二人は止まって、妻と私を待っている。更に滑降してよいかと訊くのでコース取りの注意点を告げて許可する。あっという間に豆粒のように小さくなり、涸沢小屋の脇の斜面まで下降してしまった。
ずいぶん遅れて妻と私がベースキャンプへ戻ってみると、テントの中で朋子と素直は休んでいた。素直は風邪がぶり返したのか寒いというので極地用シュラフの中に入れて寝かせる。
しばらく私たちも休んでから涸沢ヒュッテのベンチで夕食の仕度をすることにしてガソリンストーブや鍋などを持って移動。売店で買い食いしたり、お茶を飲んだりして飯が炊けるまでくつろいだ。
夕食の仕度が終わる頃には素直の体調も回復したようで一安心。食後にはバターの入ったマッシュポテトを作ってたべたり、お茶を飲む。
さて今後の予定だ。明日までは何とか天候が持ちそうだが明後日には崩れそうだ。雨の中を下山するのは避けたい。であれば明日下山した方が良かろうということになった。朋子が、松本の本郷食堂へ行きたいという。
明るくなってから起きて、外に出ると灰色の雲が穂高を厚く覆い、天候悪化の前兆かとも思われたが、朝食の準備をしていると雲はいつの間にか霧散し真っ青な空が広がった。
のんびりと朝食をとり撤収を開始。妻の体調がいま一つなので、皆で荷物をそれなりに分担する。朋子と素直のザックが大きく膨らんだ。特に素直のザック重量は25kgを超えていそうだ。ついこの間まで家族で一番軽いザックを背負っていたのに、私とほぼ同じ重量のザックを背負うようになった。成田高校山岳部にも入って毎日トレーニングしているという。なんだか信じられないような気がする。
妻を気遣いながらゆっくりと下山していく。徳沢あたりで小雨がぱらついたが本降りにはならず安堵。いつもの通り徳沢園で食事。朋子と素直はカレーライス、妻と私は山菜そば。遅れがちになる妻をかばいながら小梨平にたどり着いた。河童橋で穂高を見るとどんよりとした空に穂高は見えない。今度は新緑の頃に又来たいと思いながら沢渡行きのバスに乗った。
今年も残念ながら本郷食堂は閉まっており、かつ玄で四味定食1,200円を食した。心配した高速道路の渋滞は小仏トンネルを先頭に15kmの渋滞があるだけで、スムーズに帰宅できた。
下山後、妻が風邪をぶり返してしまい大変な思いをさせてしまった。妻が無理をして登っていたのは知っていたが、本当にすまなかった。
靴を大先輩である鉄人土橋師匠から借りた。アイゼンやピッケルなどは私の使っていたもので流用できるが靴だけはいかんともしがたい。朋子と素直の靴はあったのだが妻の靴がない。私にとって超タイトサイズのガリビエールスーパーガイドRDをひっぱりだそうかと思案していたところ土橋師匠が25cmのアゾロのプラブーツをKAJITAX(カジタックス)のアイゼンと共に貸してくれた。感謝。ところで高校生の頃タニアイゼンを使用したことはあるが、タニからカジタックスブランドに変更となってからは、梶田製作所のアイゼンもピッケルも使ったことはなかった。初めてカジタックスのアイゼンを身近に体験した。これはかなり良質のアイゼンだと思った。こういう良心的な道具が国産として生き残っていることに感動を覚える。お勧めのアイゼンである。全ての登山者にとって一足あっても良いアイゼンだろう。
参加者:左から 賀来幸子47歳 賀来朋子18歳 賀来素直16歳 賀来素明51歳
※先頭の「快晴の涸沢」のオリジナルデータ(2.8MB)をご希望の方に差し上げます。A3出力でも鮮明に描画されます。