2007年 春

大分

八面山

2007/03/19

菜の花と八面山

私は大分県中津市の賀来(住所表記には加来とあるが正しくは賀来)という田舎で生まれた。中津市は行政区分では大分県だが豊後を中心とする大分とは文化が少しばかり異なり、豊前と表現したほうがしっくりと感じる。それは宇佐神宮の影響を強く受けた文化圏だからだと思う。宇佐神宮は全国に4万社と言われる八幡宮の元で勅使の訪れる由緒ある社。その宇佐神宮の祖宮が薦神社。そして薦神社の奥院が八面山の山頂にある箭山神社である。母の実家である湯屋を含めてこのあたりの概略は司馬遼太郎の「街道を行く」の中津・宇佐の道に詳しい。薦神社の三角池を埋め立てて競馬場を作った張本人は祖父の団ニで、湯屋に住む湯屋の末裔は母の実家である屋号「隠居」だけになってしまった。
さて八面山。新幹線が開通する前は東京から大分への交通手段は寝台列車が一般的だった。急行高千穂、特急富士がそれで夏休みには切符の入手が大変だった。一ヶ月前に何時間も並んでやっと手に入れる。そして関門トンネルを過ぎて小倉へたどり着き日豊本線の行橋を過ぎて沖代平野へ列車が入ってくると八面山が見え始める。八面山が見えると涙ぐむ父と母を幾度も見てきた。八面山は中津に生まれた者にとって故郷の山だということを幼い頃から思い知っていた。
古くから賀来や湯屋周辺の子供たちは小学校の遠足などで八面山に登っている。私は年に二回ほど帰省するが、そのたびに八面山へ登る。先祖たち皆が踏みしめた山道を私も味わいながら登っていくのである。

3月19日(月)曇り

朋子と素直の受験が一段落した。一つの区切りとして大分の墓に参って先祖に報告をしなければなるまい。大学高校受験が終わった妹の恵子の子供の和也君と祐里子ちゃんも一緒に行くことになって子供四人と母と私の6人で大分へ帰省した。賀来の部落のお世話になった方々に挨拶をして私の最終日を迎えた。夕方16時には中津を発って東京へ戻る。
いよいよ八面山へ登らなければならない。
朋子、素直、和也、祐里子の4人を車に乗せて八面山のふもとへ向う。
八面山のふもとへ行くにあたって賀来を通る。森山を通る。大川の橋を通る。
大分交通のバスの終点である広場に車を停めて、神護寺の中を突っ切って涅槃像の脇から斜面を直登していく。しばらく登ると林道に出てそれをたどり、林道の終点から整備された遊歩道を歩く。椿が咲いているが、冬木立の山道を登る。一汗かいたところで山頂だ。
箭山(ややま)神社は鷹岩が御神体で、岩を一周する歩道がある。神社には舞台がしつらえてあり神楽や能を演じられるのだろう。
下山はあっという間。
権現石舞台へ立ち寄ってから薦神社へお参りして母の待つ湯屋へ向った。



登り始める前の四人
左から和也、祐里子、素直、朋子



整備された遊歩道は歩きやすい


下山地の治山公園にて



素直が小6の時に訪れてボルダリングをしたことがある
権現石舞台
チョークの跡がついていた