今年の冬は大雪で、ゴールデンウィークのこの時期になって雪の中に埋もれていた山小屋の被害があきらかになりつつある。
私たち親子も今年の黄金週間は剣岳を予定していたが、剣沢小屋・剣山荘ともに雪害による影響で連休中は営業できないという。諸条件を勘案した結果、出発前日になって目標山岳を穂高に変更するに至った。
一方、穂高でも岳沢ヒュッテがヘリによる事前偵察で不明状態となり、その直後岳沢ヒュッテの主人上条氏が連休を前にして上高地で交通事故で亡くなってしまったことを知った。
35年に亘って通い続けた私の穂高。
今年はいったいどうなっているのだろうか。
前夜22時半に四街道の自宅を出発したが、連休初日のため首都高から小仏トンネルまですでに渋滞。
315kmを走行して早朝4時にいつもの沢渡上の「木漏れ日の湯」の駐車場でエンジンを止めた。沢渡は冷え込んでいてエンジンを切ると車内は寒いくらいだ。
5時20分のバスに乗り込み、6時に上高地のバスターミナルへ降り立った。
天気予報では数日の好天を予測しており、今朝も穂高が美しく全貌を見せている。
青柳健の「青春の穂高」にある描写を思いださずにはいられない。
のんびりと歩き横尾山荘の食堂でラーメンを食い、いよいよ涸沢への本格的な登りに取り組むが、前夜一睡もしていない私は休憩のたびに眠ってしまう。
横尾大橋から河原の雪原を歩く。谷は雪で埋め尽くされ、最後まで夏道とは無縁で涸沢まで雪道を登っていく。
涸沢定着合宿ということで気が緩みザックも30kgを越えており、なかなかしんどい。そして強烈な眠気。
100m登って少し休み、200m登って大休止という忍耐の登高が続き、夕方になって涸沢ヒュッテに到着。
ヒュッテに近い場所へテントを張ることが出来た幸運に二人で喜ぶ。
夕食はきちんと飯を炊いておいしくいただき、冬用のふかふかの羽毛シュラフの中にくるまって、涸沢第一日目の夜を迎えた。
隣のテントの人のいびきがものすごく夜中に何度も目が覚めた。
4時に目が覚めたが、寒い。
今日は父の命日である。あの長い一日が思い出される。
薄明るくなって、敦子を起こすが寝ぼけている。昨夜の冷や飯をリゾットにして食べる。今回用意したのはヱスビー食品の「チーズリゾットの素」、これがとてもおいしい。リゾットは洋風雑炊ともいうべき代物で、歯ごたえがないのが難点である。そこで今回は漬物を用意している。沢庵と高菜漬けだ。
朝から食が進む。
装備を整え、7時10分にテントの外に出る。昨夜いびきのすごかった隣のテントの人はまだものすごいいびきをかきながら寝ている。7時20分、奥穂高岳を目指してテントを出発。トレースは小豆沢ではなく夏道であるザイテングラードに付けられ、登山者が蟻の行列のようにつながっている。
真っ白な雪稜の高みには高山特有の濃紺のような青空が広がり、敦子と二人で歓声をあげる。
忍耐の登高を続け、3時間をかけて10時20分穂高岳山荘に到着。今年は積雪が多く、小屋の屋根は雪面よりもだいぶ低い。
見上げると、小屋のすぐ上のクサリ場では順番待ちの渋滞がおきている。少し様子を見ることにして敦子と二人で小屋の中に入り、少し早いが、昼食としてカレーライスを注文。レトルトのカレーかもしれないが、とてもおいしくいただくことが出来た。
11時20分、小屋の外に出て敦子とロープを結ぶ。19歳の娘を万が一にも死なすわけにはいかない。確保方式はタイトロープと大阪コンテの折衷スタイル。
小屋のすぐ上のクサリ場は、1時間前に比べるといくぶん混雑は緩和したようで、スルスルと登ることが出来た。
だが、クサリ場を登り終わってびっくり、上へ向う雪面に下降の順番待ちの長蛇の列。順番待ちだけで長時間を要する状態である。
腐り始めた急峻な雪面で下降する者と登る者がすれ違う。
下降してくる登山者の中にはアイゼンのアンチスノープレートをきちんと調整していないためにアイゼンが雪団子になっている人もいて、そんな人が私たちの上から滑落してきて激突するのではないかと、子連れの私は非常に神経を使う。
そんな時には敦子に「10m上いる赤いスパッツの人のアイゼンが雪団子になっているのが見えるだろう。落ちてきて私たちにぶつかるかもしれないからピッケルのシャフトを深く打ち込みながら登りなさい」などと細かく注意しながら登るのである。
渋滞を抜け出して、12時10分奥穂高岳の山頂に到着した。
敦子は小学校五年生の時に初めて奥穂高の山頂に立ってから都合三回ほどここへ来ているのだが、そのいずれもが風雨やガスで視界がなかった。敦子にとっては快晴下における初めての奥穂高岳山頂。展望の一つ一つを詳細に解説していく。
まずはジャンダルムが目の前だ。遠くに焼岳、乗鞍岳、その向こうに御岳山。真下には岳沢が広がり河童橋周辺の建物も良く見える。前穂高からは北尾根がノコギリの歯のように左へと落ちている。さらに遠くには八ヶ岳がある。後ろへ振り返ると北穂から槍ヶ岳。その向こうには立山。一昨年家族で訪れた黒部の上ノ廊下の周辺の山々も一つ一つ識別することが出来る。
携帯電話を出す。アンテナの表示は三本立つが、呼び出しの途中で圏外表示が出てしまう。何度か試みたが結果は同じであきらめた。
帰りも相変わらずの渋滞。こんな時間でも奥穂高から滑降しようというボーダーやスキーヤーが登ってくるのである。順番待ちの時間がとても長いので、雪面に大きなバケットを掘ってピッケルのシャフトを深く打ち込みビレイをとり腰をおろす。敦子は眠くなったらしくうとうとしている。
13時30分、穂高岳山荘に帰り着いた。小屋の中に入って二人でお汁粉を頼み、朋子と素直へのお土産としてバンダナを買う。
14時10分涸沢への下降開始。雪が緩んで、時折ももまでもぐり歩きにくい。それでも途中でアイゼンを脱ぐと足運びがとても楽になり、グリセードを交えながらちょうど一時間ほどで涸沢のベースキャンプへ戻ることが出来た。夏に比べるとずいぶん速い。
15時過ぎの快晴の涸沢はのんびりしており、シュラフを干したり、涸沢ヒュッテのテラスでコーヒーを飲んだり、あるいは売店でおでんを酒の肴にしてビールを飲んでいる人もいる。
私たちも涸沢ヒュッテのテラスのテーブルについてくつろぐ。「好きなものを何でもたのんでいいよ」と敦子に言うとおでんと甘酒とりんごを買ってきた。私は缶ビールを買う。グビグビと飲む。うまい!
テントに戻り、夕食を食べてお茶を飲み終わる頃には日が暮れた。
すでに隣のテントの人は寝ているらしくものすごいいびきが聞こえてくる。とんでもない場所にテントを張ったようだ。
しばらく敦子としゃべり20時頃ロウソクの灯りを消した。
夜中に、風が出た。何度か目が覚めた。
4時に起床する。今日は北尾根の予定であるが、2時間寝坊した。本来ならば2時起床、4時出発の予定である。
仕方がないので五・六のコルまでとりあえず行くことにして6時に涸沢を出発する。
涸沢からデブリを越えコルへとあえぎつつ登る。見上げると五・六のコルから何人かが下降してくる。途中ですれ違う時に少し話をする。コルは強風で体がふらつくほどだという。確かに時折、氷の粒がザーッと上から吹き降ろしてくる。都合2パーティーが下降してきた。
私たちも7時40分に五・六のコルに立つことが出来た。コルには防風用のブロックを積んだビバークサイト跡が無人のままあった。風は確かに強かったが、案じたほどでもない。コルからは奥又白が見下ろせ、遠くには八ヶ岳も見える。
携帯電話を出して通話を試みる。アンテナ表示は2本だが自宅との通話に成功した。もう8時近い時刻だというのに四街道の自宅にいる皆は寝ていたようだ。寝ぼけた声で朋子が電話に出た。昨日は残された朋子、素直、妻の三人で受験勉強の息抜きという名目で江ノ島の水族館に行ったという。私たちも2時間遅れのコル到着なので、北尾根の登高はあきらめ下降することにする。
一時間ほどで涸沢のベースキャンプに帰着。
時計を見るとまだ9時30分。一般的には朝という時間である。テントの中に入って寝袋の中で足を伸ばし、うとうとする。少しばかりねむったが暑くて目が覚めた。温度計を見ると強烈な日差しがテントをあぶり室温は30度を越えている。
テントの出入り口のフラップを全開して温度を下げる。しばらくすると涼しい風が吹き込むようになり一息つくことが出来た。
涸沢ヒュッテのテラスで炊事をしながらくつろぐことにして、炊事道具を運ぶ。
まだ12時過ぎなのでテーブルには余裕があり、ゆったりを腰を下ろして飯を炊く。飯が炊き上がるまでおでんを食べたり、焼酎などを呑む。
涸沢ヒュッテのテラスで登山者の話をきいていると前穂北尾根の四峰を「よんぽう」などと言っている。正しくは「しほう」であって「よんぽう」ではない。従って、四峰正面壁は「しほうしょうめんへき」であり、三・四のコルも「さんしのこる」なのだが・・・しかたがない。と思っていたら、屏風の頭を「びょうぶのかしら」などと言う人もいて唖然とする。
食後に涸沢に張ってあるテントの写真を撮る。珍しいテントも数張あった。明日は下山なので、いつもの通り下山後の松本で何をするかという話で敦子と盛り上がった。
そんな話で盛り上がっている最中にもすでに隣のテントからは怪獣のようないびきが聞こえていた。
今日も晴れである。明るくなってから朝食の用意をして、ゆっくりと下山の準備をする。テントを撤収している時に隣のテントの人を初めて見た。二重顎のトドのような人だった。
7時15分、涸沢を後にする。アイゼンを装着しないで下山を開始する。この程度の傾斜ではアイゼンを装着しない状態での下山は早いし楽だ。他の登山者は全員がアイゼンをはいているのでその差は歴然、面白いように抜いていく。40分程で夏の本谷橋の架橋地点まで到着し大休止。のんびりとザックに腰をかけて敦子とおしゃべりをする。
「下山したら何しようか?」・・・「本郷食堂へ行きたいよね」・・・「まずは温泉ですよ」
「夏山合宿はどこへ行こう?また上ノ廊下がいいな」・・・「あそこは危ないよ、屏風岩がいいな」・・・「じゃあいっそのこと奥鐘ってのはどう?」・・・「えー、それは無理だよ」
「トレーニングはどうする?」・・・「ボードは屋内に作り変えた方がいいよね、蚊を気にしなくて済むし、エアコンの部屋でトレーニングできるもん」・・・「とりあえずは毎週山へ行かなくっちゃね」
などと話題はいつも同じだ。
この四日間で雪解けが進んだようで、入山時の谷通しのルートは通行禁止となっており、夏道沿いに歩いていく。
8時50分横尾到着。
横尾を出発して30分ほど行った所で左手の斜面より雪崩。規模もそこそこ大きく寸でのところで直撃を食らうところだった。敦子はびっくりして怯えているが、無理もない。
徳沢で昼食。私は山菜そば、敦子はおでんに洋梨シャーベット。記念にピッケル柄の手ぬぐいを敦子と私それぞれ一本づつ購入。
その手ぬぐいを顔に近づけた時、懐かしい匂いがした。
そして敦子が言った。
「この手ぬぐい、おじいちゃんの匂いがする」
「本当だ」
私は涙が出てきた。
徳沢・明神間の土砂崩れはさらに進行し、通行止め。土砂崩れ部分を迂回するために梓川を渡渉する。私達親子は積雪期用の高性能ブーツを履いているので、ジャブジャブと川の中を渡ることが出来たが、後に続いてきた人たちの中にはトレッキングブーツの人も何人かいたようで、ずぶぬれになったのではあるまいか。
12時30分、河童橋到着。
河童橋にたもとにザックを下ろす。敦子は私から渡されたお札を握りしめてお土産を買いに売店へ入っていった。
私は買い求めたビールを手に雑踏を離れ、一人で梓川の川岸に腰を下ろした。
35年前の夏に同じようにここに腰をおろし穂高を見つめたことがある。
当時、私は高校生だった。
私は50歳となり今日は娘の敦子と一緒である。
19歳になる娘の敦子と一緒に穂高にいることの幸せをかみしめながらビールを呑んだ。
その後、私たち親子は沢渡上の木漏れ日の湯で汗を洗い流し、松本市内へ入った。カトリック松本教会に立ち寄った後、念願の本郷食堂へ向った。あいにく本郷食堂は休業日だった。
食べ物屋を探して近辺を歩き回った。しかしそれが幸いした。そこには今まで知らなかった松本があった。松本は城下町であることをあらためて知った。
山から下山して松本で2時間の余裕があったならば、ぜひ縄手通り周辺の散策をお薦めする。
私たちは「かつ玄」というトンカツ屋で遅い昼食をとった。おいしかった。
入山の日に穂高を望む |
徳沢園の草原も深い雪の下 |
横尾の大橋 |
北尾根、左から三峰、二峰、一峰(前穂) |
雪の季節の涸沢野営場 |
穂高岳山荘から見上げる奥穂へ向う登山道 |
奥穂高山頂から望む上高地河童橋 |
北尾根へ向う5月5日の朝 |
五・六のコルからの下降は超ラクチン |
テントの中に寝そべって外を撮る |
念願の本郷食堂は休業日 |
「かつ玄」の四味定食 |