2005年冬

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裏同心ルンゼ

八ヶ岳スノーハイキング

2005/1/3

10月の会津駒ケ岳以降、ひざの痛みもあって11月はおとなしくしていたが、12月になってどうにも辛抱できなくなってきた。
女房&子供用に冬靴を買ってどこかへ行こう!と身勝手な空想に夢を膨らませていた。
ところがである。
「行けないよ」とつれない返事。
やれPTAだの、町内会だの、塾だの、部活動だの・・・用事があるというのである。
じゃあ仕方がない、正月に行こう・・・
と土日はギアの整備で過ごしていたが「正月にも行けない」とのつめたい返事についに我慢も限界。
私の噴火も秒読みになったことを女房は察知してくれたようで、日帰りのハイキングという条件で彼女が付き合ってくれることになった。
1月2日の夜に四街道を立ち、深夜美濃戸口に到着。美濃戸まで車で入りたかったが柳川を渡った先の長い坂道が登れなかったので川岸に車を止めてテントを張って仮眠する。

1月3日 快晴

氷点下10度。薄明るくなるのを待って仕度をする。
「ハイキングなのになんでロープとヘルメット持ってんの?」
「万が一のときの用心に決まってるじゃないですか」
「ふーん」
完全に明るくなった7時に歩き始める。
年末にまとまった降雪があったので真っ白な雪景色が広がっている。
ゆっくり、あくまでもゆっくり歩いていく。
8時20分美濃戸の赤岳山荘に到着。中に入って野沢菜をお茶請けにして休憩。いつもながら山小屋の野沢菜はうまい。外にはアイスクライミング用の人工氷壁がしつらえてあり、小屋の中にはこれからこれで遊ぼうとしている人が数人いる。中には評判のサロモンアイスセリーを履いている人もいる。ポットが空になるまで何杯もほうじ茶を飲む。結局一時間以上休んで再び雪道を歩き始める。
美濃戸山荘の先で行者小屋への道を右に分け、左の赤岳鉱泉への雪道をたどる。
女房に「疲れたからもう帰ろう」といわれるのをひたすら恐れ、ナメクジのようなスピードでゆっくり登っていく。
通常の倍以上の時間をかけて11時半に赤岳鉱泉到着。
小屋の中に入ってラーメンを注文しストーブにあたりながら食べる。たっぷり1時間休んで外にでる。
小屋の前でアイゼンを履く。日差しがまぶしい。
硫黄岳方面へ少し歩き裏同心ルンゼへ入っていく。しっかりとしたトレースがある。
裏同心ルンゼは新人をひき連れてある年の正月に大同心正面壁のアプローチとして一度だけ登ったことがある。
しばらく沢底に沿って細いトレースをたどっていくと大同心の正面壁が大きく前方に見えはじめる。
「ねぇお父さん、いつまで登り続けるの?明るいうちに車まで戻りたいよ」
「うん、もちろん明るいうちに車まで戻るよ。もうちょっと登ったら帰るからね」

ちっ、帰りたいといい始めやがった。まずいなぁ。
ネガティブな発言の多くなった彼女をだましだまし登って行く。

「あっ、滝が見えるよ。あんなの登れないよ」
「あれはね、遠くから見ると急に見えるけど本当はとても簡単だから、大丈夫だよ」
「うそだぁ、登れっこないよ」
「そんなことないよ。上からロープでビレイしてあげるからどうってことないよ。ほら、早野君や中村君ってお母さんも知っているでしょう。彼らが10代の新人の頃に片手で登ったんだから」
「ほんとう?」

ロープを引きずりながら登り始める。女房が下から私を見上げている。
「ほらね、こうして登るんだよ。アイゼンの前爪にちゃんと乗れば、手なんて補助でいいんだから」
「ふーん」
登っている彼女の姿が見えるようにセルフビレイの長さを調整して落口から下をのぞき込み、声をかける。
「登っていいよ」
数歩ほどガシガシと氷を飛び散らせながら、体を上げた彼女は、そこから動かなくなった。蝉のようになって氷壁に張り付いている。
「足がつった」
女房は半泣き状態である。
「今、引っ張りあげてやるから、がまんしろー」
全体重をかけて重たい彼女を引っ張り上げる。
滝上に這い上がることのできた彼女は雪の上に寝転んだままで動かない。恐る恐る声をかけて見る。
「大丈夫?」
「もうだめだ、帰ろう。あたしはクライミングには向かないんだよ。ビレイしてあげるからお父さん一人で登ってよ」
「・・・はい」
激怒している彼女をロワーダウンさせ沢を下る。
またもや赤岳鉱泉で休憩する。しばらく休んだら機嫌も直ったようだ。
午後遅くの日差しが人工氷壁「アイスキャンディー」を照らしている。正月には大変な混雑となる赤岳鉱泉の幕営場も、正月の三日ともなると撤収してしまったパーティーも多いようで閑散としつつある。
ゆっくりと下り始める。途中でアイゼンをはずし歩いていくと冬の日は暮れ始め美濃戸へつくころにはとっぷりと暮れてしまった。赤岳山荘で休憩する。
野沢菜にほうじ茶。
そういえばこの赤岳山荘は火事になったことがある。1978年(注1)の12月だったと思うが砂田と阿弥陀岳南稜経由で下山してきたら赤岳山荘が焼け落ちていた。焼け跡で野沢菜を拾うおばちゃんの後姿が目に焼きついて離れない。
もうあれから27年が過ぎ去ったのか。
離れがたいストーブの脇から思い切って外に出る。ヘッドライトのLEDに灯をともし雪道を歩き始める。
女房もさほど疲れた様子も見せずトコトコとついてくる。子供達が幼かった頃の思い出話などをしながら夜道を歩く。LEDの青白い光が目の前の闇夜を押し分けるように雪道を照らす。そして私達の後ろで押し戻すようにしてまた夜の闇が広がる。
家路を急ぐ気持ちが足をはやめてくれる。思ったよりも短時間で車に帰着することができた。



注1:1978年というのはうろ覚えです。当時の記録が出てきた時点で訂正させてください。