2004年夏

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黒部丸山東壁 敗退

2004/7/17--18

久しぶりのジパング隊出動である。
元々は尾崎さん、川崎さん、西村さんの計画に2週間前になって上田さん、石脇さん、和田さんが参加することになり、更に私までもがついて行くことになったという次第。従っていつもの通り尾崎さんにオンブにダッコの山行である。
さて計画では黒部の巨人とも例えられる黒部丸山東壁となっているが天候が芳しくない。関東地方は梅雨明けしているのだが北陸から東北にかけて梅雨末期の集中豪雨が続いている。新潟ではお年寄りばかりが11人も亡くなったという。
黒部川で大雨に遭ったらひとたまりもない。世に遭難は数え切れないが与えたショックの大きさから決して忘れられない遭難が1982年8月に黒部で起こった。台風を避ける為に鳴沢出合の岩小舎に避難していた鵬翔山岳会の7名が深夜の鉄砲水により行方不明となったのである。しばらくのち4名は河口近くで発見されたが3名はついに発見されなかった。暗闇の黒部の洞窟の中で鉄砲水に遭遇することを想像すると胸が締め付けられるような恐怖感に襲われる。
この遭難は鹿山会登攀クラブの第二次奥鐘合宿の数日前に起こったこともあり私の記憶も生々しい。奥鐘山西壁下の黒部川を数日前に7人が流れていったのだろう。
私たちが今回ベースキャンプ予定地としている内蔵助谷の出合から鳴沢の岩小舎までは数百メートルしか離れていない。

7月16日

柏駅西口サンクス前で待ち合わせ和田さんの車に7人全員が便乗して出発進行。
車内ではすぐに酒盛りが始まる。焼酎、ビールなどを呑みながらほろ酔い気分になってふと気がつくと雨の扇沢ターミナル。ターミナル駅のコンクリートに銀マットを敷いて寝袋に入って寝酒を少々たしなんで就寝となった。

7月17日 雨

朝一番のトロリーバスで黒部ダムへ到着。ダムサイトには出ないで、そのまま蛍光灯に照らされたトンネルをたどり内蔵助方面への作業道路へと向かう。トンネルを出ると前方には丸山東壁上部と黒部別山大タテガビン南東壁が見えている。
工事用の重機のキャタピラ痕のある作業道から整備された登山道に入り黒部ダム下まで標高差200mほどを一気に下る。
下りついたところは黒部川のほとりで上流には黒部ダムがそびえている。観光パンフレットやテレビ放送ではダムサイトから見下ろす黒部ダムがおなじみの姿だがこうして下流から見上げるシーンはほとんどない。それも仕方のないことかもしれない、なぜなら黒く汚れたダムの壁はまるで迫力がないからだ。
ときおり雨が降るが雨具を着るほど強くはならない。
仮設の木橋で黒部川を渡り左岸の整備された登山道をほぼ水平に歩いていく。関西電力によって草刈が頻繁に行われているらしくまことに歩きやすい道だ。しばらくは黒部川をすぐ右に見ながら歩いていたが次第に黒部川を見下ろすようになると谷の上には黒部丸山東壁の大ハングが見えるようになる。すると前方の丸山谷の出合に大きな雪渓が見えはじめた。
この地点の標高は1,250mだから丹沢の塔ノ岳よりも250mも低いということになる。それなのにこれほどまでに大きな雪渓があることに黒部の自然の厳しさを思い知らされる。丸山谷に近づいてみると雪渓が道にかぶさっており丸山谷を水平に横断することはできない状態だ。丸山谷を滝の下まで谷伝いに登りフィックスロープに導かれながら高巻いた。それにしても丸山谷の滝の大きさに呆然とする。このような滝が東京近郊にあったなら相当な評判になるであろうが日本登山大系には丸山谷の記述すらない。さすが黒部だと妙に感心する。
丸山谷を越えると内蔵助谷出合はもうすぐそこだ。再び歩きやすい水平道となり快適そうな岩小舎の前を多少の上下を繰り返しながら進むと壊れた木橋が引っ掛かっている内蔵助谷出合にたどり着いた。壊れた橋はこれから修復する予定らしく材料となる丸太や板がたくさん積んである。
さて私たちのベースキャンプ予定地はここから斜面を30mほど上がったところにある小さな広場だ。入り口には雪崩で飴のようにひしゃげた鉄製の看板がある。
キャンプサイトは幅3m、奥行き10mで谷側は夏草で覆われ、山側も夏草が繁茂しているが一部に潅木も見られる。下地は水はけの良い砂地で平坦だが微妙な位置に岩の突起がある。全面を使い切ることはできないが二・三人用のテントなら三つは張れそうだ。
斜面の10mほど上部には拡声器のついた鉄塔が建っており、更に山側には鉄格子にふさがれた横穴があって奥には鍵のかかったアルミドアがある。この入り口はひょっとすると吉村昭の小説「高熱隧道」の題材にもなった欅平・仙人谷・黒部ダムを結ぶ黒部ルート隧道へとつながっているのかもしれない。
エアライズ3を1張り、エアライズ2を2張り、そして荷物収納用にエアライズ1を1張りと合計4張りのテントを張り終える。
私たちのほかには近辺に二人の釣り人が入渓しており彼らは内蔵助谷出合の壊れた橋の袂の河原にテントを張っている。こんな危険なところにテントを張るなんて増水の恐ろしさを知らないのだろう。
テントの中で休んでいると鉄塔の拡声器からダムの放水予告が女性の声で流れ、そのあとけたたましいサイレンが鳴った。これが夜中も鳴りつづけたらたまらんなぁとお互いに顔を見合わせる。だれかがおならをしたようだ。・・・岩魚釣に出かけることにした。

黒部川本流はダムの放水が始まって水が少し濁っている。松本の平出酒店のご主人のアドバイスを思い出しながら竿を出す。7人いるので7匹釣ろうと粘ったが釣果は5匹。私も含めて釣れないと誰もが予想していたので思わぬ釣果にオジサン全員で子供のようにはしゃぐ。
キャンプサイトに戻る頃には本格的な雨になってきた。
土砂降りの雨の中で尾崎さんが飯を炊く。炊いてくれた飯でカレーを食う。雨はますますひどく、これでは炊事をするのも難儀だということで西村さんと尾崎さんがツェルトをタープ代わりに張ろうと外へ出て行った。そのうちどこからか泥に汚れところどころに穴の開いた養生シートを拾ってきた。一般的にはブルーシートと呼ばれるものだが何故こんなものがあるのだろう?といぶかっていると上田さんが別のを拾ってきた。下の藪の中に捨ててあるという。どうやら工事に使ったあと、工事関係者がきちんと回収しないでそのまま放置した残骸のようだ。そのうちみんなも手伝って何とかブルーシートを張り炊事場スペースを確保することができた。
黒部ダムの放水見学に出かけていた石脇さんと和田さんが帰ってきた。ダム下の橋は冠水しており、途中の登山道も上から滝のように水が落ちる場所があったという。
そのうち尾崎さんが夕食の準備を始めた。どうやら天麩羅を振舞ってくれるらしい。小海老入りのかき揚げ、茄子、はんぺん、ちくわなどを次々にあげてくれる。釣り上げた岩魚は塩焼きにしたかったが雨が激しく焚き火ができないので唐揚げにして食べた。岩魚の唐揚げは昨年飯豊で谷川さんが教えてくれたものだ。
ビールを飲んだこともあっておなかいっぱいになってしまった。テントの中で千葉県庁山岳会の佐久間勉さんが2週間ほど前に病気で亡くなられたことを知った。一緒に登った山のことなどを思い出し少ししんみりしてしまった。
ランプを灯し寝袋にもぐりこむ。しばらくぼそぼそと話していたが皆疲れているのだろう、まもなくランプの灯を消した。
雨は激しく降り続き、増水のことが気になって浅い眠りでうとうとしていると沢から響いてくる音の質が変化した。低いゴン、ゴンという地響きにも似た音が混じり始めた。大きな底石が濁流に流され始めた音だ。上半身を起こしてヘッドランプの灯りで時計を見ると23時45分。このキャンプサイトは河原から30mほど高い位置にあるので危険は少ないのだが、日高の歴舟川キムクシュベツ沢での恐ろしい体験が思い出され息を殺して暗闇を凝視していた。すると突然稲妻がひかった。一拍おいて黒部の狭く深い谷に大音響が炸裂し反響した。映画館のドルビーサラウンドを100倍大きくしたような音響と振動。これはすごい。日高の歴舟川キムクシュベツ沢の時にも雷はなっていたが、黒部は谷の規模が違う。みんな寝袋から身を起こして闇を見ている。
ランタンに灯を入れる。みなの顔が浮かび上がる。
「河原のテント大丈夫かな」
「ダメかもな」
「富山湾まで行くのかなぁ」
流れる石の大きさがだんだん大きくなってきたようで地面を突き上げる振動が激しくなってきた。音の方向から推察するに暴れているのは黒部本流ではなく内蔵助谷である。深夜2時半ころになって雨が息をつくように時々小降りになり始めた。

7月18日 雨のち曇り

ときおり強い雨がブルーシートを打つが、小雨の時間帯も長くなってきた。
内蔵助谷出合の河原にテントを張った二人の釣り人は、登山道に避難していた。話を聞くと間一髪だったようだ。
出合の壊れた橋は跡形もなく、修理用の資材も全てが無くなっていた。地形も変化しコーヒー牛乳のような濁流がいまだにゴーゴーと流れ落ち、大きな流木が新しく岩に引っ掛かっている。
ハシゴ段乗越へ向かう登山道もベースキャンプから15分ほど行ったところで斜面が崩壊しており、谷の中を歩かなければならない。平水状態であれば内蔵助谷の中を歩くのは一向に構わないのだがこの濁流では論外だ。

この三連休を利用して仲間内では谷川岩魚名人、宮崎さん、石田さんが飯豊へ、鉄人土橋師匠もいつものとおり単独で北鎌周遊に出かけている。朝飯を食べながら皆で心配する。

食後撤収を始める。拾ってきたブルーシートはきちんとたたんで風に飛ばされないように重石をおき、小さなゴミまで丁寧に拾い集める。土砂降りの中の撤収が避けられたのでやれやれだ。
さて、出発だ。
どこへ?もちろん大町の薬師の湯である。
後ろから隊列を眺めているとまるでピクニックにでも出かけるような感じに見えなくもない。釣り人二人も一緒に下山だ。少し歩いて丸山小谷を横断する部分の桟道がなくなっておりロープを出して滝に打たれつつ渡る。丸山谷の雪渓部分は往きと同じようにフィックスロープを頼りに大きく高巻く。
黒部ダム下の仮設の木橋は流出して流木が引っ掛かっている。流木を伝わって渡ろうかなとも思ったが、上流が浅い瀬になっておりここを渡渉。渡り終わって全員が集結。やれやれやっと終わりそうだと自然に笑みがこぼれる。
ダム上までの標高差200mの最後の登りを新人哀歌を歌いながらがんばる。がんばったのだが先行する63歳の川崎さんには結局追いつくことはできなかった。
黒部ダムトロリーバス駅ではバスを一本遅らせてダムサイトの観光を行う。昨日、石脇さんと和田さんがダムサイトまで来たときには展望台は悪天候で閉鎖中だったという。展望広場に出て皆でビールを飲む。あいにく放水しておらず迫力あるシーンを見ることはできなかったが、無事に戻ることができて「ありがたい、ありがたい、よかった、よかった」と皆でいたわりあった。


谷川さんからの報告
宮崎、石田、谷川は飯豊を変更し奥只見へ行って来ました。
谷川は17日、1時に例の金泉橋そばの広場へ到着、石田さん達も朝、到着、そこへ菅傘をかぶった小柄なじいさんが現れて
"ここに開拓に入りもう50年になるが、こんな大雨と洪水は初めてだ"
と言う。
姿、格好があのホーチミン大統領みたい・・・さっそくホーチミンのおじさんと呼ぶ事にした。
只見川はその名の由来のとおり、"只、見るだけの川"でした。2昼夜に渡り1トン以上の岩がゴンゴンゴンと止むことなく無気味な地響きをたてながら流れて暴れまくっていました。
支流のとくさ沢、高石沢も同じ、大津又の滝沢、大ヨッピ沢も増水・・・高石沢では尾瀬方面から下りて来た4人連れが渉れなくかなり焦っていました。
賀来さん達は大丈夫かな? 東北地方だけが大雨の予報だったから向こうは晴れだろー。などと話していました。


土橋さんからの報告
新潟・福島・福井では大変な被害が発生していましたが、北アでも豪雨になりました。17日10時、槍沢ロッジの天気情報では夕方から大雨との事でしたが、明日は?・・・と思い北鎌沢出合に向いました。しかし、予報の通り夕方からの豪雨の中でツエルトの一夜を過ごしました。
早朝1時過ぎに、出発(北鎌へ)の準備を始めましたが ・・・・ 。
4時、北鎌沢右俣は完全に沢(滝状態)に変貌し、更に間の沢及び天上沢は泥濁の激流状態(約2〜3m?)になっていました。
18日5時に出発し水俣乗越しへ向いましたが、昨日の涸れ沢が完全に沢状態で度々、渡渉をしました。
上高地に15時過ぎに、無事下山しましたが連休の混雑で、バスは約4時間待ちで、沢渡上の駐車場には、19時過ぎの到着でした。


小説「高熱隧道」
吉村昭の「高熱隧道」は故・今野和義氏が感銘を受け奥鐘山西壁中央ルンゼの冬期単独初登の引き金の一つになったと「岩と雪」誌に記述していたもので、私もすぐに読みました。
黒部に対する私の認識の基礎部分の多くはこの「高熱隧道」によっていると言っても過言ではないかもしれません。そうです、私が黒部に対して畏敬の念を抱くようになった原点の書です。


気象庁発表---「平成16年7月福井豪雨」の概要
7月17日夜から18日にかけて、活発な梅雨前線が北陸地方をゆっくりと南下したのに伴い、福井県や岐阜県で大雨となった。特に、18日朝から昼前にかけて福井県で非常に激しい雨が降り、美山町では1時間に96mmの猛烈な雨が降り、総雨量は7月の月降水量の平均値(236.7mm)を上回る285mmとなった。また、福井市では18日の日降水量197.5mmを観測した。
(※死者行方不明5人、全半壊約200棟、床上床下浸水約1万2千棟とニュースで報道されていた)


世間の話題
帰宅すると北朝鮮拉致被害者の蘇我ひとみさんと夫のジェンキンスさん、娘のブリンダさん、美花さんが来日と報道されていました。


利用ガイドブック=
・白水社1981年3月31日発行「日本登山大系5 剣・黒部・立山」
・山と渓谷社1981年6月15日発行 岡田昇「北岳・甲斐駒と黒部の岩場」
・白山書房1991年8月1日発行「日本の岩場下」
・山と渓谷社1997年11月20日発行「日本のクラシックルート」
・東京新聞出版局2003年3月25日発行 廣川健太郎「チャレンジアルパインクライミング」

野田憬稜登高会、山岳同人一同心、鹿山会登攀クラブなど千葉県山岳連盟加盟団体を中心とした面々