2003年秋

奥鐘山西壁OCCルート

北アルプス 黒部峡谷下の廊下 奥鐘山西壁
岡山クライマースクラブルート
2003/9/19--9/24


石渡青年に惚れ込む

自宅近くのクライミングジムで知り合った石渡健君。フリークライミングが抜群に上手く、一見したところ若い普通のフリークライマーかボルダラーのように感じられるが、山に登りたくて北海道の大学へ進学し、現在は休学して山に登りつづけているという今時めずらしい好青年。
手のひらは堅く角質化しており、その理由を問うと「アブミの練習をした」という。さらに暇な時にはアイスバイルを一日中振り回していることもあるらしい。
そんな石渡青年が北岳バットレスのような本州の有名本番ルートに行ってみたいという。
この青年は若い頃の私にそっくりだ。待ってましたとばかりに「おじさんと一緒に行こうか」と誘ったら、石渡青年は大変喜んでくれた。そんなに喜んでくれるのならとっておきのところへ行こう。昨秋仲間内で行こうとして黒部峡谷鉄道の落石による運休で断念した奥鐘山、私にとって21年ぶり三回目の訪問。
9月14日と15日には古賀志や日光の岩場へ行って、コールなどの手順やルーフでのアブミの扱い方などを確認したり、買出しをするなど楽しい準備も怠りなく済ませ、ワクワクしながら47歳と22歳という親子ほども歳の離れたコンビの珍道中が始まった。

9月19日晴れのち雨

18日の夜行列車「急行能登」に乗るべく、大急ぎで勤務先から帰宅する。四街道駅で石渡青年と待ち合わせ、駅前の噴水広場で荷物を分担し合う。一度の食事で2人前はぺろりと食べてしまい、日に4回飯を食う石渡青年にヒモジイ思いをさせてはならじと膨大な量の食料を持ってきた。例えばスパゲッティ2.8kg、うどん1.5kg、レトルトご飯12食・・・・。それに加えて重たいクライミングギア。
もちろんこれだけ食べるのは山の中だけの話で普段は修行僧のようなストイックな食事とハードトレーニングの毎日らしい。その結果として身長177cm体重58kgで体脂肪率は一桁。私の記憶が正しければベンムーンの絶頂期が身長178cm体重61kgだったような・・・。この驚異的な肉体でジムの課題を縦横無尽に登りまくる。そんな青年が日本の本番を代表するような奥鐘に来てくれることがなんとも嬉しくてしかたがない。
さて、急行能登はがらがらにすいており6号車のサロンカーでゆったりと眠り、未明の魚津経由で宇奈月から黒部峡谷鉄道のトロッコ電車に乗車。19日の9時過ぎにようやく欅平に到着。
欅平でいつもの通り上流のトンネル方面へ行こうとすると、駅員に制止される。奥鐘に行くと言ったら、助役に登山届を出してくださいと言われたので計画書のコピーを渡すと、丁寧に案内してくれた。21年前にはなかった入下山者出入口という看板ができており、そこから冬期歩道用トンネルへ入って本線のトンネルへ合流し、発電所の構内へ急な階段で入り込み、塀を乗り越え10時20分に無事河原へ降り立つことができた。いずれにしても駅の線路に立ち入るわけで大人の常識として駅の事務所へ立ち寄って一声かけていくべきだった。
黒部川の水量は少なく腰までの渡渉で上流へ進むことができた。
1981年に初めて奥鐘に来た時には大木さんがキスリングで私が背負子といういでたちでザックの重量も今回よりも重かった。そのせいか1時間たっぷり歩くという印象があったが、距離的には非常に近い。
振り返って発電所が見えなくなると、すぐにトロ場だ。このトロ場は22年前と変わっていない。少し土砂が堆積したのか、水量が少ないのか、浅くなったような気もするがここで右岸へ渡渉する。トロ場の先を200m程右岸に沿ってへつるとすぐ先が奥鐘の前衛壁で左方ルンゼをはさんで奥に見えるのが奥鐘山西壁である。あっけないような近さでザックが軽ければ片道30分という所ではなかろうか。岩小舎まであと一歩という所で降雨。11時15分、岩小舎へ駆け込む。
雨は時折、止んでくれるがすぐにまた降り出す。
天気さえ良ければこのまま壁に取り付く予定だったが、休暇はたっぷりあるという余裕もあって本日は停滞とする。
ひとまず昼食を腹いっぱい食って、渡渉で対岸へ渡り増水時に備えてチロリアンブリッジの設置などを行う。夕方、河原で焚き火をしたが焚き火が消えそうなほどに雨粒が河原の石を叩いた。夜は蒸し暑く、寝苦しいほどだった。

9月20日 曇り時々雨

朝から時折雨が落ちる。今日も停滞とする。停滞を決意した瞬間に酒に手がのびる。
雨がふっているので岩小舎の中で焚き火をしたが岩小舎は上手い具合に煙が上へ抜けるような構造になっており煙さはない。
今回はウイスキーを1.8リットル持ってきていたが、昨日から酒ばかりを飲んでいるので少々心もとない状況になってきた。
ラジオの感度は悪いが途切れ途切れに受信することができた。天気予報によれば台風15号の影響で明日はドシャ降りとのこと。参ったなぁ。
石渡青年のおすすめ料理「釜揚げスパゲッティ」を作る。ゆでたスパゲッティを麺ツユで食べるシンプルなものだが、結構いける。

9月21日 雨

朝からドシャ降り。完璧な停滞日。岩小舎から望むことのできる西壁も滝状になっている。こんな日に壁の中にいたらスリリングだろうなと想像する。
雨が強く岩小舎から一歩も外へ出ることができない。せいぜい薪の流木を集めに行くときに河原を走り回るだけで、岩魚釣りにいく気にもなれない。このように外は雨がひどいのだが、岩小舎の中は何事もないように黒部川の流れの音が響いているだけ。
しかも岩小舎の中で焚き火を見る幸せよ。青年とうっとりしながらまどろんでいると岩壁が赤く染まり始めた。
大急ぎで外に飛び出す。
ほのかに茜色に染まる奥鐘山西壁。上部のハング帯には桃色のガスがまとわりつき一層迫力を増している。
どうやら雲が切れ始め、薄くなった雲をすかして赤い残照が岩壁に反射しはじめたようだ。
こりゃ明日は好天かも知れないと期待し、あらためて湿った寝袋にもぐりこんだ。

9月22日 晴

台風一過の快晴だがハングの先端から水滴が落ちてくる。岩の上でギアを整理しながら岩壁の乾くのを待つ。まだ岩壁は濡れているが痺れを切らして11時30分登攀開始。
その昔、京都ルートで脱水症状になり散々な目にあっているので今回は二人で合計8リットルの水をザックに詰め込んだ。足回りは運動靴。1970年代の後半から80年にかけて運動靴が大流行し、以前も運動靴で登ったというそれだけの理由で運動靴を履く私。
1P目:毎回最初の1ピッチ目に戸惑う。どこを登っていいのかわからない。ガイドブックも詳細に見るとそれぞれのスタート地点が微妙に矛盾している。これだけ長いルートなので最初の数ピッチは適当に登ることにして、雨の時に流水溝となる「近藤・吉野ルート」らしき箇所から登り始める。この流水溝は出だしから悪い。何度かクライムダウンを繰り返したが、下向きのクラックに小型のキャメロットをセットし、スリングに足をかけて強引に抜ける。出だしからタイムオーバーの情けない旅立ちだが、まぁこんなものかもしれない。
2P目:OCCが第一ハングをどのようなラインで超えているのか、はっきりとわからないのでブッシュを伝わってそのまま直上。浦島太郎のボルトラダーへ迷い込むことを恐れ結果的に直上する事になったがそれまでに何度か壁の中を左右に行き来した。ブッシュの中で汗まみれになる。たどり着いたビレイポイントにはちぎれたアルミのプレートアンカーが残置されていた。
3P目:さらにブッシュを使って第一ハング直下まで登ると細いスリングの垂れ下がった「近藤・吉野」が確認できた。そこから左方向へとブッシュにつかまりながらトラバースして行く。潅木を頼りに登っていくのはとても疲れる。しばらくトラバースすると第一ハングのルーフが逆階段状に変る地点でOCCを確認。細いブッシュにタイオフしビレイ。目印のためにこのブッシュに赤いビニールテープを巻きつけた。
4P目:第一ハングの乗り越しである。やさしいエイドだがピンが腐食しておりクロモリハーケンを追加してランナーの数を多めにとる。ネイリング中に左手の親指をハンマーで打ってしまい泣きが入る。ハング自体は逆階段状で常に足が壁に接触しており難しくはない。お互いに写真などを撮りあいのんきなものである。ハングのリップを越えて右上のビレイポイントへはいあがる。青年も順調に上がってきた。
5P目:トポに従ってここから右へ1mトラバースして直上しようとするができない。右上の垂壁に古いスリングが結んであるリングボルトが見えるのだが、そこまでのピンが見当たらない。右へトラバースしつつ何とかたどり着こうとするができない。数度トライしそのたびにクライムダウンを繰り返す。
コリャしょっぱなから楽しませてくれる。こういうときにラインを探すのを苦痛と感じるのかそれとも楽しいと感じるのか・・・もちろん私は後者でありたいと思ってはいるができるならすんなりと登りたいものだ。
探してみると泥と枯草の塊の下にピンがあったりする。どうやら最近再登者を向かえていないらしい。左の足元のルーフの出口に枯草の塊があるので払ってみるとピトンだった。すなわちビレイ点からいきなり右へトラバースするのではなく、一旦左へ二歩ほどトラバースし上から回り込むようにして右へ行くの正しいラインのようだ。垂壁をA1で登り、遠いリングボルトに垂れ下がるスリングを掴んで小ハングを越える。一手、一手が草に覆われて先が見通せずピンを探すのに時間を食う。ピッチの終了点のスリングもボロボロで息を殺しながらにじり寄った。
6P目:ブッシュの中のピンを探して数ポイントの人工後、凹角状のカブリ気味の草付。ピンなしで草をホールドにするのをためらっていると時間があっという間に過ぎ去っていく。ブッシュはますます繁茂し、ブッシュをかき分けてピトンを探すが見つからない。ためらっていてもしかたがないのでムーブを事前に頭の中で組み立て、意を決して実行にうつす。頭の中が真っ白になるような草付の中の数手をノーピンで登ると傾斜の緩いスラブに出た。
この草付のクライミングでは、よほど力が入っていたのだろう。草の根の泥の塊に指をねじ込んだので爪の中に泥が入り込み生爪をはがすような状態になって後々とてもいたかった。
カブリ気味の草付からマントリングで硬い岩場へ乗りあがって、易しいスラブを数メートル登って広島ルートとの合流点であるレッジに17:00到着。
このピッチを終了してビレイポイントへたどり着いた石渡青年いわく「こんなピッチをリードできる賀来さんが信じられない」とのこと。でもそれは靴の性能の差だ。石渡青年も私のアドバイスで運動靴をはいているが、同じ運動靴でも「登れる靴」と「登れない靴」を見分けることできる私はそれなりの運動靴をイトーヨーカ堂で1,480円でチョイスしているわけだ。青年も私と同じ運動靴を履いていればバッチリだったと思う。さて運動靴の相性もさることながら、結局のところ登攀後に振り返って見るとこのピッチがOCCルート全体を通じての核心部という印象が強いが、ひょっとして見落としたピンがあったのかも知れない。
ビレイポイントから壁に向かって右側2mにススキの茂みが見える。こりゃテラスだなと思い、行ってみると案の定素晴らしいボサテラス。最高のビバークが保証されたも同然で、迷わずここでビバークを決定。セルフビレイを潅木やボルトでとり、久しぶりに腰をおろす。
夕食はカップヌードル。生協のオリジナルカップめん。日清のカップヌードルは容器が発泡スチロールで割れてしまうが、生協のカップめんは容器が紙でできており割れる心配が少ない。このような岩壁のビバークでカップめんを食べるとは極めてリッチなことで、美味い美味いと二人で食べる。
携帯電話を出すと、アンテナマークが表示されるだけだが、圏外表示にはならない。試しに自宅へ電話してみると通話できた。あとでわかったことだが欅平にはDocomoのアンテナが設置されているようだ。
少し窮屈だが二人が足を伸ばして横になることができ快適な夜を過ごせた。水さえあれば岩壁の中で何泊でもしたいような気分になってくる。満天の星空に天の川が美しく、時折流れ星が空を横切る。コリャたまらん。やみつきになりそうだ。

9月23日 晴

昨日は運動靴だったが、今日はラバーソールのクライミングシューズに履き替る。履き替えた理由はたいしたものではない。せっかく新しく購入したバーゲンセールの靴をザックの中に入れて担いできたからである。青年もスポルティバのミウラーを持ってきているがタイトサイズなので、相変わらす運動靴をはき続ける。
6時30分登攀開始。
7P目:傾斜の強い美しいスラブである。出だしは岩も硬くやさしいが濡れておりピンがない。しばらく登ると右手のブッシュ混じりの壁に残置ピンを発見しブッシュラインまでこれを登る。たどり着いたブッシュラインは、幅の狭いバンドに過ぎず、ビバークに関してはボサテラスが勝る。
8P目:各種ガイドブックによればここから3ピッチがOCCルートの核心部だという。もし6P目よりも悪い草付だったらいやだなと思いながら登り始める。草付を10メートルほど登って2ポイントのエイドから左のフェイスを快適なフリーで登りビレイポイント。想像していたよりも悪くない。
9P目:草付を登る。ピンの腐食が激しく、触っただけでポロリと頭がちぎれるハーケンなどもある。潅木につかまりながらサルのように登り、抜けないことを祈りながら草をホールドにする。小ハング下でビレイ。ここも普通に難しい草付で南稜フランケやA字ハングなどの一ノ倉の草付に比べて飛びぬけて難しいというわけではない。腐ったスリングの巻きついたピンで確保。
10P目:小ハングはやさしいフリーで越え、草付の凹角を人工で数メートル登り行き詰まる。ツタの絡まったカブリ気味のフェイスが越せない。アングルを打って更に直上しようとするがとても正規のラインとは思えない。ここでも何度かクライムダウンを繰り返す。左に草付のないすっきりとした岩場があり、フットホールドもあるのでトラバースしていくがプロテクションがないので恐ろしくなり元に戻るというようなことを繰り返した。どうしようとしばらく考え込む。
ピトン連打でツタの絡まった頭上のフェイスをエイドで登ろうかなと思ったがイエローブックに「左に回り込むところが最悪」というような説明があったのを思い出し、まさにこれだと気がついた。山靴であれば悪いと感じるトラバースとマントリングであるがラバーソールでは易しいといえる。小さなバンドを拾いながら水平に左へトラバースしカンテを回り込みマントリングで易しい岩場にはいあがってビレイポイントに到着した。この三ピッチで大きく時間を食ってしまったが、石渡青年は快適なピッチだとニコニコしながら登ってきた。
11P目:一変して草付のない岩場が広がっている。垂壁のエイドでスタート。時々フリーが混じる。
ここまで少々ちんたらしすぎたようで、このペースで登りつづけると壁の中でもう一泊することになりかねないのでネジを巻く。石渡青年にA1ではフィフィを使わない方が早く登れて疲れないということを登りながら説明する。クライミングに関してはとても飲み込みが早い石渡青年はすぐにマスターしてくれた。しかも一番難しいハングのリップ越えもしっかり私の動きを観察しておりハングを越えるたびに上手くなっていく。大学山岳部主将である石渡青年は「文登研」では、こんなことは教えてくれないというが、「文部科学省登山研修所」は青少年に健全な山登りの基礎を教える場所だ。講師陣には素晴らしいクライマーを揃えているが、本来の目的が違う。「文登研」に変質者向けクライミング技術研修を求めるのはお門違いだ。
さて、頼もしい石渡青年のビレイで小さなハングの右側をかすめてマユ毛ハングへ向かう。マユ毛ハングの出口のピンに手が届かず隠れているピンを探すが、ハーケンのちぎれたあとが残っているのみ。軟鉄ハーケンを一本打つが根元まで入ってくれない。浅打ちのハーケンを残置してしまうことになった。次に登る人はこのハーケンを薄手のロストアローかナイフブレードに打ち直した方がいいかも知れない。眉毛ハングから下を見下ろすと石渡青年がグングン登ってくるのが見える。
一番難しいハングのリップ越えマスターし、眉毛ハングを越えようとする石渡青年にあらためて感心する。
12P目:やさしいエイドとフリーでトマリ木ハングの付け根にある松の木でビレイ
13P目:トマリ木ハングは松の木の枝を伝わって数歩行くとリングボルトが打ってある。松の枝を伝わる時に背中で壁に寄りかかることができるので動作は安定している。ハングを越えると上にビレイポイントが見えたがビレイポイント直下のハングした草付が悪そうだったので5メートル右へトラバースし、もう一つのビレイポイントでピッチをきる。
14P目:ビレイポイントから右手に広がっている美しいスラブが気になってしかたがない。21年前に私のクラブの仲間達が広島ルートの最後のどん詰まりで敗退を余儀なくされたスラブだからである。私の師匠である大木さんが敗退したスラブとはこれかぁとしばらく見とれてしまう。それは1982年のクラブの夏山合宿のことだった。その年は私自身が6月に烏帽子奥壁ダイレクトの派生ルート開拓中に墜落して骨折しギプスが取れて一週間後の夏山合宿だった。私一人が数日遅れて奥鐘のBCへ入ったところ、広島ルートを敗退してきた大木さん、砂田、早野の三人が肩を落としてボーッとしていた。「最後のスラブのラインが読めない」と大木さんが焚き火にあたりながら話してくれた。師に読めぬスラブがあるのなら弟子の私が登ってやろうじゃないかと焚き火を見ながら思ったのが大木さん27歳、私26歳の21年前の夏だった。
余興でボルトがないものかと探しながら右上に広がっているスラブをノーピンで10m近くも登ったが、恐ろしくなってクライミングダウンする。もしこの美しいスラブにスリリングな間隔でハンガーボルトが設置されていれば違った意味で素晴らしいルートに再生されるだろう。多くの登攀者はすでにフリークライミングの洗礼を受けており、この美しいスラブで感嘆の雄叫びをあげるに違いない。
さて右手のスラブがあまりにも美しいので右手を登ることばかりを考えていたがOCCのラインはほぼ直上だった。山靴で登れる範囲のホールドが点在しており快適。残置ハーケンもすぐに見つかりエイドで登る。ハングの下でピッチを切る。
15P目:傾斜の強いスラブにハングを左へ回り込むようにしてリングボルトが3本連打されている。アブミを使うと時間がかかるので強引にA0で登っていく。このリングボルトから右の凹角をブッシュを頼りにして登る。ブッシュを登るのが辛くなってきたあたりで右のカンテ状の岩場へ移り上部でフレーク状となったカンテを登ってピッチを切る。このブッシュの登りは侮れない。傾斜も強くフットホールドもとぼしいので全体重を細いブッシュにかける場面が数箇所ある。ランナーは出だしの3本連打のリングボルトだけで墜落距離も相当なものになるので要注意だと思う。
16P目:日が暮れそうだ、まずい。
休暇とハンモックと豊富な水があれば何泊でもしたいほどだが、あいにくながら三つとも持ち合わせていない。
張り出し6mの最終ハングのボルトラダーを日没前に発見しないと本当に岩壁の中でハンモックなしの尻の痛い夜をもう一泊する羽目に陥るのことになるので大急ぎで登る。
最終ハングの一番目の小ハングには初登者から素晴らしいプレゼントが待っていた。ハングのリップにあるリングボルトから次のRCC型ボルトまでの間隔が異様に遠いのである。
ムフフ・・・この手の遠いクリップこそ私の得意中の得意。身体張力をフルに発揮してクリップ。ロングルートの最後の最後にこのようなクリップを用意していることが私にはとても嬉しいことに感じる。
多少のフリーが混じるが後は普通の間隔のボルトラダー。左へ「浦島太郎ルート」を見送り、終了点直下の小さなヒサシの下の腐ったハーケンにアブミをかける。ひさしの出口にピンがないので右へ3mトラバースし半分枯れたヒノキに水色のスリングをタイオフ。このタイオフはセット時の体勢が悪く青年も回収できなかったとのことなので、いまだにOCCルートの終了点で風にゆれていることだろう。
タイオフした水色のスリングに足を入れヒノキに這い上がって半分枯れかかったヒノキを見ると幹に古いスリングやハーケンが打ち込まれている。木にハーケンを打ち込むほどに取り乱すとは先行者の苦労が偲ばれる。生々しいまぶたにやきつくような映像だった。
このヒノキでは石渡青年と二人がまたがる余裕はないし、もしヒノキが岩盤から抜け落ちたら二人とも400m墜落してあの世逝きである。しかたがないので、もう少しましなビレイポイントはないものかと草付の斜面をさらに5メートル登って頼りないブッシュにタイオフしてビレイ解除。途中で腐ったフィックスロープが残置されているが結んだブッシュが枯れて腐っており非常に危険だ。時計を見ると19:00で真っ暗。ここも足場がなくハンギングビレイで、しばらくすると太ももが痛くなってきた。
17P目:ビレイポイントには足場がなくアンカーにしているブッシュも頼りないのでもう一ピッチロープを伸ばす。ブッシュにぶら下がりながら10メートルほど登るとスラブに突き当たりスラブに沿って右上する。約30メートルでスラブを横断するバンドに到着し残置された2本のリングボルトでセルフビレイをとり本当のビレイ解除。
過去2回懸垂下降したことのある京都ルートであるが21年ぶりの下降で記憶が曖昧なので夜間は危険と判断しここでビバーク。この夜は寒かったが水があと1リットルあるので気分的にはのんきなものだ。遠くに仙人池ヒュッテの灯りが見え未明に小雨がパラついた。

9月24日 曇りのち雨

背中がそり返るような姿勢でしかも寒い夜だったのでほとんど眠れなかったが、石渡青年は熟睡できたという。
明るくなって6時30分京都ルートの下降点へ向かう。各種ガイドブックに記載してある右手に見える大木を目指す。ビバーク地点のスラブを横断するバンドを伝わって10メートルほど下降。下りついた地点からほぼ水平に20メートルほどで大木に着いた。大木の近くには綺麗に巻かれたロープが残置されている。ガイドブックの説明によれば大木の尾根を下降し右手の沢を横断すれば京都ルートの下降点ということなので「右手」の沢を探しながら下降して行く。ただしこの「右手」というのは斜面に向かっては左側すなわち中央ルンゼ側の意味なので注意。
大木から20メートル下ると右手方向へ歩ける部分がある。不明瞭なバンド状を歩いて数メートルでしゃがみこむことのできるような小さな平坦地に達し、そこから薄いブッシュをくぐって下を覗き込むと木に巻きつけられた京都の終了点のオンボロスリングを確認することができた。
実際のところ、私達は壁に向かって右手だと思い込んで反対側を2時間も探し回ってしまった。右と左が逆に説明されていることに気がつくと後は簡単だったが、気がつくまで2時間もかかるとは本当に間抜けだった。
仮に京都ルートの登攀経験がない場合でも小さな平坦地までは問題なくたどり着けると思うが、京都ルート終了点からこの平坦地までクライマーが登ってきた痕跡がほとんどないので、薄いブッシュをくぐって下を覗き込むということが想像できないかもしれない。それだけ、正面壁では京都以外のルートが登られることが稀なのであろう。
それにしても、この平坦地は懐かしい思い出の場所。ここで22年前に大木さんと二人でビバークしたんだったなとしばらくながめる。あの時は盆休みの炎天下で岩壁全体が熱をもち、われわれ二人も脱水症状で苦しい登攀だった。
さて、すでに時計は9時をまわっているが、木にまたがってロープをセットし懸垂下降を開始する。
京都ルートは懸垂ピンも老朽化しスリングもほとんどが腐っている。ある懸垂下降ピンでは腐ったスリングがたった一本のリングボルトかかっているだけという状態。リング欠損ボルトから太目のリベットハンガーでバックアップをとったが、それにしても危ないなぁ・・・。
空中懸垂をしながら京都ルートのボルトラダーをところどころ観察しつつ下降していく。雨が続いたせいか岩の表面の苔が水を含んでヌルヌルしており、これを見てもOCCルートはいいルートだなぁとあらためて思う。
普通は何事もなく下降できるのだが、三角岩の上のテラスから何気なしに壁に向かってやや左側へロープを投げてしまって大失敗。ここは右寄りに投げないと次のピンへ到達できない。ブッシュラインの10m上でロープの末端に達してしまい。ハーケンを二枚打ってブッシュラインへクライミングダウン。さらにブッシュラインを右へトラバースして下降支点を探す。20mもトラバースしてやっとビレイ点をを見つけ下降していく。しかし右へ20mもトラバースしたので今度は逆に10m程左へ振り子をして本来の下降支点へもどるという厄介な作業をする羽目になった。
さらに第一ハングの直下で懸垂ピンを中継しないで下降したために、河原を目前にしてボルト一本にキャメロット三個をバックアップにして石渡青年を下ろすなどという危ないことをしてしまった。青年を安全に下ろしたことを確認して一安心。私はバックアップなしでリングボルト一本の下降。12時すぎにやっと河原に降り立つことができた。
河原に降り立つと石渡青年がとにかく腹が減ってヒモジイという。おおそうかヨシヨシ、すぐに飯を食おうということで、急いで岩小舎へ入ってガスバーナーに火をつけ完登祝いにレトルトの赤飯を1パックづつ食べる。赤飯を食べてから生協のカレーカップヌードルを食べる。さらにもうワンパック赤飯を食べる。はぁ腹いっぱいだ。しかし青年はもう少し食べたいというような顔をしている。
13時頃から雨が強くなり、本降りとなってきた。チロリアンブリッジを撤去するのも忘れ14:50にお世話になった岩小舎を後にする。
どしゃ降りと言ってもいいような雨脚だが大幅な増水前に欅平へたどり着くことができた。発電所の塀にかけられた梯子を登ったが、その後のマントリングができない。この重量のザックではとても無理。しかたがないので塀にそって先へ進むと古い工事用道路へ出てそれを登ると欅平駅のホームの脇へ出ることができた。
たどり着くと16時5分。たった今16時01分発のトロッコ電車が出発した所だった。しかたがないのでずぶ濡れのままでガタガタ震えつつ二人でビールの乾杯。16:43発のトロッコに乗り込む。さすがに帰路は窓付きの特別車両に乗車し暖かく宇奈月へ向かった。魚津からは特急と新幹線を駆使し23:46に四街道へ戻ることができた。
いつもの事ながら、家にたどり着いて女房の顔を見ながらビール(本当は発泡酒)を飲んでいると、今朝OCCルートの終了点にいたことが信じられないような気分になった。
近年まれに見る楽しい6日間だった。おそらく石渡青年と一緒だったからそのように感じたのだろう。
こんなにリラックスしたクライミングは鹿山会登攀倶楽部の大木さん、砂田、岩崎、中村、早野とのクライミング以来の経験だった。また石渡青年と登ってみたい。

OCCルートのこと

いまでも私の手元に「日本の岩場:グレードとルート図集---第2次RCC」というトポ集がある。
このトポ集は私が高校生の頃夢中になって読んだもので、その中で6級ルートと評価されていた衝立岩や屏風岩に大変憧れた。
ところが1976年になって、その改訂版ともいえる「新版日本の岩場」という分厚いトポ集が出版された。表紙が黄色なので身内ではイエローブックと呼んでいたが、そのイエローブックを開いてみると憧れの6級ルートが軒並みグレードダウンされ5級ルートに格下げされていた。憧れの諸ルートがグレードダウンされ少々ガッカリもしたが、そんな中で唯一の6級ルートとして紹介されていたのが奥鐘のOCCルートだった。だから1970年代のOCCルートは国内最高峰のルートの一つとして私のようなミーハークライマーの目標になっていた。
1981年、1982年とクラブで奥鐘山合宿を組んで京都、広島、中央ルンゼ、紫岳会などを登り、普通であれば次はOCCや近藤・吉野だったのだろう。ところが私達のクラブはその頃すでに興味の大半がフリークライミングに移っており、銚子犬吠埼灯台下の開拓や小川山に活動の軸を移していた。実際の所1981年の合宿地も直前まで小川山にすべきではないかともめていた。そして1983年の夏合宿地は小川山だった。そのような訳で1980年代の初頭は私達自身も日本の登攀界もフリークライミングへの大きな転換期を迎えていたのである。
そんな忘れ去っていたような過去の遺物とでもいえるOCCルートを20年以上を経て登ることになり非常に感慨深いものを感じたが、短いフリーの課題にはない本番ルートの楽しさもあらためて認識させてくれもした。
その楽しさとは「旅の楽しさ」である。数泊の縦走登山を行っている時に「山旅をしているなぁ」という気持ちになることがままあるが、それと同じ感覚である。
さて、実際に登ってみるとOCCルートは最近人が登った痕跡に乏しく、私達が久しぶりの再登者だったのかなぁと思う。
事前にインターネットでOCCの記録を検索したが、大半は20年以上前の思い出を断片的に記述しているものだ。
その中で日本山岳協会で一緒に指導常任委員をしていた松元邦夫さんの所属クラブである「登高会 ー」による1992年の記録が最新のものだった。すなわち最近10年間に実施されたOCCの記録を発見することはできなかった。
このようにOCCルートが京都ルートに比較して地盤沈下したのは1991年に発行された白山書房の「日本の岩場」で「人気のわりに快適ではない」と評されたのがきっかけなのかも知れない。
情報量の少ない奥鐘だけに、この記述が与えた影響は少なくないかも知れないが、私達の記録を読んでおわかりのように不快なルートではなくむしろ変化に富んだ好ルートといえる。いまやボルダラーと化した47歳の元本番クライマーのオジサンが登れるのである。厄介なピンの掘り出しも済んでいるし、腐食したハーケンの打ち替えも2箇所あるいは3箇所で行った。
OCCルートは京都ルートの次のステップとして再登者がもっと多くてもいいと思う。

参加者:石渡健 賀来素明


「岩小舎スライドショー」

「OCC下部のライン取り」

岡田昇氏「北岳・甲斐駒と黒部の岩場」による奥鐘全景